自宅の扉を閉めた瞬間、ようやく世界の音が一枚だけ外へ追い出された気がした。
戦いの後に残る静けさというのは嫌いじゃないが、今夜のそれは安堵よりも、まだ終わっていない問題を机の上へ並べ直すための静けさだ。
俺は上着を脱ぐより先に居間の灯りだけを点け、ソファへ腰を下ろす代わりに、そのまま立ったまま息を吐いた。
ナハトヴァールは終わった。
はやても取り戻した。
だが、夜天の書という災厄から切り離されたあの女――リインフォースが、このまま何事もなく残れるほど、世界は都合良く出来ていない。
救えたと言うには、まだ早すぎる。
「……ボス、帰ってきてからずっと怖い顔をしてるです。まだ噛み足りない相手がいるですか。」
デルタが、ソファの背へ身を乗り出すみたいにしてこちらを覗き込んでくる。
こういう時、こいつは分からないなりに一番まっすぐだ。
敵がいるなら噛み砕く。
ボスが困っているなら横に立つ。
理屈がなくても、それだけは揺れない。
「噛めば済むなら簡単なんだけどね、そういう話じゃないって顔でしょ、それは。」
ゼータが壁にもたれたまま、腕を組んで俺を見る。
気楽に言っているようで、目だけはちゃんと状況を測っている。
イータはテーブルへ持ち込んだ端末を前に、眠そうな顔のまま椅子へ沈み込み、画面へ青白い光を映していた。
それでも、指だけは止まらない。
研究の匂いがし始めると、こいつは眠そうなまま手数だけが増える。
「うーん……リインフォース、消える可能性、高いね。夜天の書の人格機能として成立してるなら、本体を止めた後に維持できる保証が薄い……かも。」
イータがそう言って、端末の画面をこちらへ向ける。
魔力波形の図と、夜天の書の反応ログが並んでいるが、見た目だけならよく分からない。
だが、こいつが“高い”と言う時は、だいたい嫌な方へ外れない。
「要するに、書を止めたらリインフォースまで巻き込まれるって話か。」
俺がそう返すと、イータは小さく頷き、眠そうな声のまま続けた。
「うん。人格だけ独立してるように見えても、基盤は夜天の書に依存してる。だから、本を止めるのと同時に、居場所を失って消える可能性が高い……ね。」
デルタが眉を寄せる。
「じゃあ、リインフォースは助からないですか。せっかく、はやて達があんな顔をしたのに、それは嫌です。」
ゼータがその言葉にすぐ乗る。
「嫌で済めばいいんだけど、問題は方法があるかどうかだね。助けたい、で押し切れるなら誰も苦労しない。」
俺はテーブルの端へ手を置き、少しだけ視線を落とした。
助けると決めた以上、方法がないで終わらせる気はない。
だが、決めたから出来るわけでもないのが、この手の話の面倒なところだ。
リインフォースは人間じゃない。
だが、ただの機能でもない。
人格がある。
意思がある。
主を想い、間違い、苦しみ、それでも最後には救われることを望んだ。
そんなものを“データだから”“プログラムだから”で片付けるのは、あまりにも雑だ。
「方法があるとしたら、一つだけ筋があるかもしれない。」
俺がそう言った瞬間、イータの目がほんの少しだけ冴えた。
ゼータもデルタも、同時にこちらを見る。
「仮面ライダーの中に、身体そのものじゃない場所へ成立していた意識の前例がある。」
イータがすぐに食いつく。
「……例えば?」
「Wのフィリップだ。」
俺は壁の時計を一度だけ見てから、ゆっくり説明を始めた。
「完全に同じじゃないが、あいつは単純な生身の人間として閉じた存在じゃなかった。地球の記憶と繋がって、情報そのものに近い在り方をしていた。」
ゼータが目を細める。
「つまり、人格や記憶が、生身の肉体だけに固定されていたわけじゃないってことだね。」
「ああ。それに、もっと分かりやすい例ならバグスターだ。」
イータが端末へ何かを打ち込みながら、声の速度だけ少し上げる。
「エグゼイドの、あれだよね。データとして成立してるのに、自我があって、感情があって、欲求も独立している生命体。」
「そうだ。」
俺は頷いた。
「人の身体から生まれ、データとして独立し、それでも人格を保っていた。つまり、存在の器が“人間の身体”じゃなくても成立する前例はある。」
デルタが難しい顔をしながらも、なんとか話へついてこようとする。
「えっと……つまり、リインフォースも、本じゃなくて別の場所に入れれば、生きられるかもしれないってことですか。」
「だいたいそういうことだ。」
俺がそう言うと、デルタの顔が少し明るくなった。
単純でいい。
単純な答えが必要な時もある。
イータが椅子から少しだけ身を乗り出す。
「だったら、理屈は立つね。リインフォースは“本の中の人”じゃなくて、“本を通じて成立してる人格”として切り分けられるかもしれない。」
「夜天の書そのものを残す必要はない。人格機能と暴走機能を分離して、人格だけ別の器へ移す。うん、それなら筋は通る……かも。」
ゼータがすぐに釘を刺した。
「筋が通るのと、成功するのは別だよ。移すって言っても、夜天の書と繋がってる間に無理やり引き剥がしたら、その瞬間に人格の方が裂けるかもしれない。」
「うん、それはあるね。」
イータはあっさり認めた。
「失敗したら、意識が壊れるか、魔力だけ残って人格が抜ける。そうなると救出じゃなくて事故……ね。」
俺は腕を組んだまま、イータの言葉を頭の中で並べる。
前例はある。
理屈も立つ。
だが、問題は成功率だ。
いや、正確には、失敗条件をどこまで潰せるかだ。
「成功率はどうだ。」
俺が問うと、イータは少しだけ考える仕草をしてから答えた。
「今のままだと、かなり低い。でも、器の質を上げて、移送の瞬間を安定させて、外からの干渉を全部切れれば……上がる。」
「ふわっとしてるな。」
「うーん……研究の初期段階って、だいたいこんなものだよ。」
「そのまま実行したら失敗する段階ってことだ。」
「そうとも言うね。」
ゼータが壁から背を離し、テーブルの横へ歩いてくる。
「器はどうするの。夜天の書と同格か、それに近い保存能力がないと、住み替えた瞬間に崩れる可能性がある。」
イータは端末を操作しながら答える。
「ユニゾンデバイス系統の器が一番近いと思う。補助人格を受け入れる設計なら、適性はある……かも。」
「でも、そんな都合のいい器が今すぐあるわけじゃない。」
ゼータの言葉は冷静で、だからこそ話を前へ進める。
楽観は役に立たないが、悲観だけでも何も作れない。
「作ればいい。」
俺がそう言うと、三人とも一瞬だけ黙った。
俺はその沈黙の間に、自分の中で答えを固める。
助けると決めた。
前例もある。
なら、足りないのは器だけだ。
器がないなら作る。
単純な話だ。
「理屈が立つなら、あとは現実へ落とすだけだ。」
イータの目がまた少しだけ明るくなる。
「つまり、やるんだね。」
「当たり前だ。」
俺は即答した。
「助けるって決めた以上、方法があるならやるだけだ。成功率が低いなら上げる。器がないなら作る。失敗条件があるなら潰す。」
デルタが勢いよく身を乗り出す。
「だったら、その器ってやつを守ればいいんですよね。移してる間に邪魔する奴がいたら、デルタが全部噛み砕くです!」
ゼータが呆れたように笑う。
「発想が最後まで獣だね。でも、役割としては間違ってない。」
「褒められたのです?」
「半分だけ。」
イータは端末の画面を切り替えながら、今度は完全に研究者の顔になっていた。
眠そうなのに、言葉の密度だけが濃くなる。
「じゃあ、必要なのは三つだね。人格保持に足る器、移送経路の安定化、それから夜天の書との切断タイミング。これを全部揃えれば、理論上は可能。」
ゼータがすぐに補う。
「理論上、ね。実際には夜天の書の残滓が黙ってない。管理局だって下手に動けば止めに来る可能性がある。」
「なら、余計に急ぐ必要がある。」
俺はそう言って、テーブルの上の端末へ視線を落とした。
「夜天の書の残滓が完全に沈む前に、リインフォースの座標と人格波形を固定する。器の作成は並行。外部対策はこっちで切る。」
イータが小さく笑う。
「うん、その並べ方は嫌いじゃない。データ取りの順番としても綺麗。」
ゼータは肩をすくめた。
「毎回そうだけど、結局は面倒な方向へ一直線だね。」
デルタは嬉しそうに尻尾を揺らす。
「でもやるんですよね。だったらデルタはもう大丈夫です。何を噛めばいいか、あとで教えるです。」
俺はようやくソファへ腰を下ろし、背もたれへ深く身体を預けた。
戦闘の疲れはある。
だが、それより先に頭が回っている以上、まだ休む段階じゃない。
問題は山積みだ。
だが、最悪のまま詰んでいるわけじゃない。
方法はある。
希望という言葉を簡単に使う気はないが、それでも、今夜の議論はそこへ手を伸ばせるだけの形をしていた。
「理論は立った。」
俺がそう言うと、イータが眠そうに頷く。
「うん。あとは作るだけ……ね。」
ゼータがすぐに切り返した。
「作るだけで済まないのが、毎回の問題だけど。」
デルタは一番簡単な言葉で、それでも一番大事なことを確認する。
「でも、やるんですよね。」
俺は三人を見て、短く答えた。
「当たり前だ。」
それだけで十分だった。
助けると決めた以上、あとはやるだけだ。