廊下を駆ける足音は、静かであるべき病院の夜にはあまりにも大きく響いていた。
ゼータはその音を背中で聞きながら、手の中にある小さな器へ視線を落とす。
イータが徹夜同然で組み上げたそれは、宝石のようにも、機械の心臓のようにも見えたが、見た目がどうであれ、中身に求められる役目だけはあまりにも重かった。
これが間に合わなければ、リインフォースは消える。
間に合ったとしても、成功する保証なんてどこにもない。
「待って、はやて」
ゼータが短く声をかけると、先を急いでいたはやてが、息を切らせたまま振り返った。
その目は焦りで揺れているのに、足だけはまだ前へ出たがっている。
一秒でも惜しい、そんな顔だった。
「ゼータさん、悪いけど今は――」
「分かってるよ。時間がないから止めたんだ」
ゼータはそれ以上近づかず、手の中の器を持ち上げて見せた。
淡い光を湛えたそれを見て、はやての表情が一瞬だけ変わる。
期待と不安が同時に混ざる、見ているこっちが落ち着かなくなるような顔だった。
「それが……?」
「リインフォースを移すための器。成功すれば、あの子は消えずに済む」
「成功、すれば……?」
「そう。失敗したら、もっと残酷な結果になるかもしれない」
はやての喉が小さく鳴った。
今にも泣き出しそうな顔をしているくせに、それでも目を逸らさないところが、この子の厄介な強さだとゼータは思う。
守られるだけの人間なら、ここで怖いと言って止まれた。
けれど、はやては止まらない。
止まれないんじゃなく、自分で止まらないことを選んでいる。
「……何を聞きたいん?」
「簡単なことだよ」
ゼータは一歩だけ近づくと、わざと感情を削った声で言った。
「助けたいだけなのか、それとも一緒に生きたいのか」
はやては黙る。
その沈黙は迷いじゃなく、自分の中から正しい言葉を引っ張り出すための時間だった。
だからゼータも急かさない。
急いでいるのに待つ、というのは性に合わないが、ここで曖昧な答えを持ったまま走らせる方が、あとでずっと尾を引く。
「消えてほしくない、だけやない」
ようやく出た声は震えていたが、震えていること自体は悪くない。
怖いくせに逃げていない、その証拠だからだ。
「ウチは、リインフォースに生きててほしい」
「それは情かもしれないし、わがままかもしれへん」
「でも、それでもええ。守られて終わるだけやなくて、今度はウチがあの子に“生きててええ”って言いたいんや」
ゼータは黙って聞く。
はやては一度だけ唇を噛み、それでも言葉を切らなかった。
「今まで、あの子はずっと、ウチを守るために間違ってしもた」
「せやから、今度はウチが止める」
「助けたいだけやない。一緒に生きたい。あの子が消えるしかないなんて、そんな終わり方、ウチは嫌や」
廊下の照明が白く揺れて、はやての瞳に薄く映る。
泣きそうで、弱そうで、それでも目だけは折れていない。
ゼータはそこでようやく、胸の奥に引っかかっていた最後の疑念が取れるのを感じた。
この子は、ただ縋っているわけじゃない。
背負うつもりで、ここに立っている。
「……それなら十分」
ゼータがそう言うと、はやては小さく息を呑んだ。
責められると思っていたのかもしれない。
あるいは、まだ足りないと言われる覚悟をしていたのかもしれない。
「聞きたかったのは泣き言じゃない。今みたいな答えだよ」
「ゼータさん……」
「勘違いしないで。感動してるわけじゃない」
「ただ、そこまで言うなら託せるって判断しただけ」
少しだけ意地悪く言ってやると、はやては泣きそうな顔のまま、それでも笑うように息を吐いた。
その笑い方が、さっきまでよりずっと強かった。
「じゃあ、行くよ」
ゼータは器をしっかり握り直し、空いた手ではやての手首を掴んだ。
「遅れたら全部無駄になる。走れるね?」
「うん、走れる。絶対、間に合わせる」
「よし。なら置いていかれないで」
はやてが頷くより早く、ゼータは床を蹴った。
白い廊下が一気に後ろへ流れ、手の中の器が微かに熱を持つ。
その熱は不安定で、頼りなくて、それでも確かに希望の形をしていた。
隣を走るはやての息は荒い。
だが、その足取りはさっきよりずっと迷いがない。
ゼータは前だけを見たまま、少しだけ口元を緩める。
間に合わせる。
そのために作った。
そのために問い、答えを聞いた。
なら、あとは連れて行くだけだ。
ゼータははやての手を離さないまま、リインフォースの待つ場所へ向かってさらに速度を上げた。