悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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その本の名は

白い廊下を駆け抜けるたびに、靴音が夜の静けさを細く裂いていった。

ゼータは先を走るはやての背中を見失わないように視線を固定しながら、右手の中で小さな重みを確かめる。

掌に収まるその器は、本の形をしているくせに、ただの本とは明らかに違っていた。

金属の芯を内側に隠し、表紙の継ぎ目には薄い光が脈打っていて、閉じているのに“待っている”気配がある。

イータが徹夜同然で組み上げ、ツカサが最後の調整を入れた、リインフォースのためだけの器。

成功する保証はない。

それでも、これ以外に間に合わせる方法がないのも事実だった。

 

ようやく辿り着いた先で、ゼータは足を止めた。

空間そのものが薄く軋んでいて、戦いの余波がまだこの場所だけに残っている。

その中心に、リインフォースは立っていた。

いや、立っていると言うには、もう輪郭が危うい。

銀の髪も、白い肌も、衣の端も、全部が夜の空気へ溶けかけた霧みたいに透けていて、少し遅れれば、そのまま光の粒になって消えてしまいそうだった。

 

「リインフォース……!」

はやてが息を呑んだまま、その名を呼ぶ。

その声に、消えかけていた女はゆっくりと顔を上げた。

優しい微笑みは残っているのに、その微笑みさえ、今は形を保つことに必死なように見える。

 

「主はやて……来て、くださったのですね」

「当たり前や。来るに決まっとるやろ、そんなこと言わせんといて」

はやての声は震えていたが、もう迷ってはいなかった。

ゼータはその横顔を見て、前の廊下で聞いた答えが嘘ではなかったことを、改めて確認する。

この子は泣きながらでも前へ出る。

だったら、託すしかない。

 

「はやて」

ゼータが短く呼ぶと、はやてはすぐに振り向いた。

説明を待つ顔ではなかった。

来ると信じて手を伸ばす顔だった。

ゼータは余計な言葉を削ぎ落とし、そのままワンダーライドブックを放る。

 

「使うなら今だよ。遅れたら、本当に間に合わない」

 

はやては一瞬も迷わず、胸の前でそれを受け止めた。

受け取るというより、落としてはいけないものを抱えるみたいな手つきだった。

閉じた本の表紙に、はやての指がぎゅっと食い込む。

その瞬間、器の奥に埋め込まれたコアが、微かに白く反応した。

 

「……ありがとう、ゼータさん」

「礼はあと。ちゃんと届かせてからにして」

ゼータはそう返して、一歩だけ下がる。

ここから先は、自分の役目ではない。

器は作った。

託した。

なら、最後に必要なのは、主の言葉だ。

 

はやてはリインフォースの前まで進み、ワンダーライドブックを両手で抱えたまま、真正面からその瞳を見た。

泣きそうな顔だった。

けれど、その泣きそうな顔の奥には、もう揺らがない芯がある。

 

「リインフォース」

呼ばれた女は、薄れていく身体のまま、静かに微笑んだ。

「はい、主はやて」

「もう、一人で終わろうとせんで」

はやては一度だけ息を詰まらせたが、そのまま言葉を切らなかった。

「今までずっと、私を守るために抱え込んで、苦しんで、間違って……それでも最後まで私のことを想ってくれたんは、よう分かっとる」

「せやから、今度は私が迎えに来た」

 

ゼータは黙って、その言葉を聞く。

リインフォースの輪郭が、声に反応するみたいに揺れていた。

消えかけた存在が、ただ残滓として散るのではなく、誰かの呼びかけへ耳を傾けている。

それだけで、ただの保存作業じゃなくなる。

 

「消えんといて、なんて言わへん」

はやてはワンダーライドブックを少しだけ持ち上げ、胸の高さへ揃えた。

「一緒に来て」

「これから先、ちゃんと生きていくんやったら、私の隣で生きて。今度は守られるだけやなくて、私もあんたを離したない」

「せやから、帰ろう。リインフォース」

 

その言葉のあとに訪れた沈黙は、怖いほど静かだった。

リインフォースはしばらく何も言わず、ただはやてを見つめる。

消えかけた身体の奥で、まだ確かに意思が残っていることだけが、その眼差しで分かった。

やがて彼女は、ふっと息を吐くように、優しく答えた。

 

「……その言葉だけで、十分です」

 

その瞬間だった。

はやての手の中のワンダーライドブックが、独りでに微かな駆動音を鳴らした。

閉じられていた表紙が、誰の手にも触れられていないのに、ゆっくりと開いていく。

内側に刻まれた白銀の紋様が淡く輝き、ページの中心に埋め込まれたコアが、まるで心臓みたいに脈を打った。

 

リインフォースの身体が、そこで崩れ始める。

だがそれは消滅の崩れ方ではなかった。

輪郭が砕けるのではなく、白い粒子となって丁寧にほどけ、風に散る前に、一本の流れとなってワンダーライドブックへ吸い込まれていく。

髪が、指先が、翼のように揺れる魔力の残滓が、みな同じ方向へ流れていく。

消えているのではない。

流れが変わっている。

ゼータはその違いを、はっきり見た。

 

「……間に合った」

自分でも気づかないうちに、そんな言葉が唇から漏れていた。

完全成功かどうかは、まだ分からない。

だが少なくとも、これは消滅じゃない。

何も残らず失われる終わりとは、明らかに違う。

 

はやては涙をこらえながら、器を落とすまいとさらに強く抱きしめる。

その腕の中で、最後の白い粒子がコアへ吸い込まれた瞬間、リインフォースの身体だったものは、役目を終えた光の膜みたいに静かに薄れて、夜の空気へ溶けた。

そこに残ったのは喪失ではなく、空になった場所と、はやての腕の中に確かに重みを増した一冊の本だけだった。

 

「リインフォース……」

はやてが小さくその名を呼ぶ。

返事はない。

だが、返ってこないことが終わりを意味しているわけでもないと、今は分かる。

 

その時、ワンダーライドブックの表紙が再び光った。

はやてが息を呑み、ゼータも思わず目を細める。

白銀の表紙に、誰の手も触れていないのに、細い線が一本ずつ刻まれ始めた。

文字だった。

新しい題名が、まるで本自身が自分の名前を探すみたいに、ゆっくりと書き出されていく。

 

はやてはそれを見つめたまま、もう言葉を失っていた。

ゼータも何も言わなかった。

今ここで余計なことを言えば、この静かな瞬間まで壊してしまいそうだったからだ。

 

白い文字はまだ途中で、最後まで読み取るには至らない。

それでも、確かに始まっている。

消えるはずだった存在の、その続きが。

 

ゼータはその光景を見つめながら、静かに息を吐いた。

助かったとは、まだ言えない。

けれど、終わりでもない。

それだけで十分だった。

 

はやての腕の中で、ワンダーライドブックの表紙には、なおも新しいタイトルが書き継がれていった。

 

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