事件が終わって数日、ようやく海鳴の空気から血の匂いじみた緊張が薄れ始めた頃、俺は管理局側から渡された報告書の要約を眺めながら、心の底からつまらないと思っていた。
表向きの結論としては、夜天の書事件は管理局となのは達の働きによって解決し、詳細不明の外部協力者が存在した可能性はあるが、その素性は機密保持のため伏せる、という形に落ち着くらしい。
要するに、俺達のことは最初から最後まで曖昧な影として処理し、必要な時だけ使った切り札であり、終わった後は誰の記録にも残し切らない、極秘の協力者として扱うつもりなんだろう。
それ自体に文句はないし、むしろそうしてくれた方が面倒が減るから助かるが、その理由が妙に露骨だったのが気に食わない。
管理局の上層部は、俺が持つディケイドの力を危険視している。
まあ、当然だろうなとしか言いようがないし、実際、そう判断するだけの材料は嫌になるほど揃っている。
世界を渡る力。
他のライダーの力を扱う適応性。
災厄の中心へ平然と割り込み、しかも結果だけ見れば事態をひっくり返してしまう破壊力。
そんなものを好き好んで野放しにしたい組織なんて、そう多くはない。
放っておけば危険、管理しようにも従う保証はない、なら封印するか監視するかという発想になるのは、組織としてはむしろ真っ当な反応だ。
ただ問題は、その“真っ当な反応”を俺へ向けた瞬間、どういう結果になるかを、ようやく向こうも理解しているらしいことだった。
もしも封印を選べば、俺は黙って従わない。
従わなければ衝突になる。
衝突になれば、管理局だろうが何だろうが、無傷では済まない。
そして俺自身も、それを避けるために力を折るほど、今さら殊勝な人間でもない。
つまり上層部は、俺を危険だと理解した上で、下手に敵へ回した時の被害が大きすぎるから、今回は見なかったことにする、という一番現実的で、一番情けない判断をしたわけだ。
合理的ではある。
だが、そういう“扱いづらい爆弾だから、とりあえず布を被せておこう”みたいな判断をされると、逆にこちらも面倒を起こしたくなるから困る。
もっとも、その辺りを俺へ直接伝えたクロノの顔は、上からの意向を運ぶ人間にしては、妙に疲れていた。
おそらく、何人かは本気で封印を主張したんだろうし、それを押し止めた連中もまた、決して善意だけで動いたわけじゃない。
力を恐れ、同時に利用価値も見ている。
その辺りの薄汚い均衡の上に、今の“極秘協力者”って扱いがある。
俺は報告を聞き終えた後で、「なら今後も勝手に動く」とだけ言って席を立ったが、クロノはそれに対して何も言わなかった。
言い返すだけ無駄だと思ったのか、あるいは今の距離感が一番平和だと理解したのか、その両方か。
どっちでもいい。
俺は最初から、あいつらの組織に飼われるつもりなんてない。
そんなことを思い出しながら、俺は朝の職員室で名簿を閉じた。
あの夜から数日が経って、街は何事もなかったような顔をし始めている。
人間ってのは都合の悪い現実を日常の下へ沈めるのが上手いが、それは悪いことばかりでもない。
全部を引きずったままじゃ、前へ進めないからな。
そして今日、この学校にもまた、何事もなかったような顔をしながら、それでも確かに前へ進むための一歩が持ち込まれる。
教室へ向かう途中、廊下の窓から差し込む光が、妙に眩しく見えた。
戦いの後ってのは、どうしてこうも普通の朝が変に鮮明になるのか。
俺は小さく息を吐いてから教室の扉を開ける。
中にいた生徒達の視線が一斉にこちらへ向いたが、その中に、すでに事情を知っているなのは達の顔もある。
フェイトも、なのはも、そしてクラスの空気に溶け込もうとしている周囲の生徒達も、表面上はいつも通りだ。
それでも、俺が教壇へ立った瞬間、あの夜の延長線上にある日常が確かに始まるのだと、誰もが薄く感じ取っている気配があった。
「さて、ホームルームの前に一つだけ連絡だ」
俺がそう言うと、ざわついていた教室の空気が少し静まる。
こういう時、生徒ってのは教師の機嫌より、話の面白さを先に値踏みする顔をするから分かりやすい。
俺は扉の方へ視線を向け、そこで一拍だけ間を置いた。
それだけで、何人かは“誰かが来る”と察したらしい。
「入れ」
短くそう告げると、扉が静かに開いた。
そこへ現れた少女を見た瞬間、なのはの目が少しだけ柔らかくなり、フェイトもほんの僅かに表情を緩めた。
八神はやて。
ついこの前まで、戦いの中心にいたはずの少女が、今は新しい制服を着て、少しだけ緊張した顔で教室の前へ立っている。
あの夜の主と守護騎士達、闇の書の中心にいた少女。
そんな肩書きは、今この教室には必要ない。
ここで必要なのは、ただ一人の転校生として、この場所へ足を踏み入れることだけだ。
はやては一度だけ小さく深呼吸してから、教室を見渡した。
その仕草に、戦いの名残も、消えずに残った痛みも、全部まとめて抱えた上で立っているのが見える。
だが、それでいい。
無傷で日常へ戻れるほど、現実は甘くない。
それでも戻ると決めたなら、教壇の前に立つ資格はある。
「今日からこのクラスへ入る八神はやてだ」
俺は名簿を軽く叩きながら、いつも通りの口調でそう告げた。
大げさな紹介も、妙な気遣いもいらない。
変に飾れば、かえって日常が嘘になる。
「いろいろ事情はあるが、その辺りはお前達が勝手に詮索するな」
「仲良くしろとは言わないが、余計な面倒だけは起こすなよ」
クラスの何人かが苦笑し、何人かは新しい転校生へ純粋な興味を向けている。
はやてはそんな視線を受け止めながら、少しだけ俺の方を見た。
その目の奥には、感謝とも緊張とも違う、もっと静かな覚悟がある。
守られるだけの場所へ入るんじゃない。
ここで自分の時間を、自分の足で歩き出すんだと決めた顔だ。
なら教師として言うことは、一つしかない。
「八神、自己紹介だ」
そう促すと、はやては小さく頷いて一歩前へ出た。
教室の光の中へ、ほんの少しだけ背筋を伸ばして立つ。
あの夜、消えそうなものを必死に抱きしめていた少女が、今は新しい場所で新しい朝を迎えようとしている。
結局、こういう普通の光景の方が、よほど世界を守る意味ってやつを実感させる。
俺はその様子を見ながら、心の中でだけ小さく息を吐いた。
管理局の上層部がどう動こうが、極秘協力者だの危険因子だのとどう扱おうが、そんなものは所詮、組織の都合でしかない。
俺が守ったものがこうして目の前に残っているなら、とりあえず今はそれで十分だ。
そしてもし、また誰かがこの平凡な教室を壊そうとするなら、その時はその時で、俺が動くだけの話だった。