信号機の上に立つ少女が、夜気を裂くように片手を持ち上げた瞬間、封殺結界の内側に転がっていた鉄の残骸が、まるで生き返るみたいに一斉に震え始めた。
壊したはずの装甲板が擦れ合い、千切れた腕部が地面を這い、まだ動く部品同士が引き寄せられていく光景は、正直、趣味が悪いなんて言葉じゃ足りない。
さっきまで沈黙していたロボットの眼がもう一度だけ赤く灯り、今度は単純な突撃じゃなく、もっと面倒な攻撃へ移ろうとしているのが分かった。
「……まだやる気か」
キカイの重い装甲越しにそう吐き捨てながら、俺は一歩だけ前へ出る。
背後では、はやてが封殺結界の維持へさらに魔力を回したらしく、紫の壁が微かに軋んだ。
ロボット共は俺へ向いているようで、その実、攻撃の余波ではやてごと呑み込むつもりだ。
やり口が露骨で、だからこそ読みやすい。
だが、読みやすいことと、放っておいていいことは別だった。
「先生、これ……また動く!」
はやての声には焦りが混じっていたが、それでも術式は崩れていない。
大したもんだと、一瞬だけ思う。
あの夜までのこいつなら、目の前の異常へ飲まれてもおかしくなかった。
それが今は、驚きながらでも結界を維持し、次に何が来るかを見ようとしている。
成長ってやつは、案外こういう場面で一番よく見える。
「結界はそのまま維持しろ」
俺がそう言った直後、信号機の上の少女の周囲へ、冷たい光がいくつも走った。
命令系統の再起動か、それとも別の術式かは知らないが、少なくとも、次の一手がさっきより厄介になることだけははっきりしている。
ロボット達の残骸は寄り集まり、一本の槍みたいな形状を作り始めていた。
正面から撃ち抜く気か、それとも結界ごと貫くつもりか。
どっちにしろ、受けて終わる気はない。
俺が踏み込むために重心を落とした、その瞬間だった。
上空から、別の影が一直線に降ってきた。
速い。
それでいて、さっきの少女がまとっていた不気味な静けさとは違う。
焦りと勢いをそのまま速度へ変えたような、直線的な飛び込み方だった。
「イリス、もうやめて!」
張り詰めた夜に、はっきりとした少女の声が響いた。
次の瞬間、俺と信号機の上の少女の間へ割り込むように、もう一人の少女が着地する。
軽い。
けれど軽いだけじゃない。
無駄なく着地して、そのまま相手へ向き直る動きに、場数を踏んだ人間の癖があった。
信号機の上の少女――今、イリスと呼ばれた方が、その名にわずかに反応した。
完全な無表情だった顔が、ほんの一瞬だけ揺れる。
つまり、知り合いか。
だが、それで安心するほど俺はお人好しじゃない。
知らない異世界の少女がもう一人増えた、それ以上でも以下でもなかった。
割って入った方の少女は、こちらを振り返りもしなかった。
まず優先したのは、あくまで信号機の上のイリスらしい。
「こんなやり方、もうやめてって言ったでしょ!」
まっすぐな声だった。
責めるというより、止めるために必死で投げた言葉に近い。
だが、感情だけで飛び込んできたわけでもない。
その少女は両手を開き、俺達とイリスの間へ自分の身体を置いていた。
巻き込まれる危険を理解した上で、なお前へ出た立ち方だ。
それが余計に面倒だった。
無謀なだけの敵なら簡単に切れる。
こういう、事情を背負って止めに入ってくるタイプは、一番判断が遅れる。
「……退いて、アミタ」
初めて、信号機の上の少女が口を開く。
抑揚の薄い声だったが、その中にだけ、わずかに人間らしい響きが混じった。
アミタ。
呼ばれた方の名前か、それとも愛称か。
どっちでもいいが、少なくとも無関係じゃないことだけは、これで確定した。
「退かない」
今度は、割って入った少女が即座に言い返す。
短い返答だったが、そこへ迷いはない。
それでも、俺は警戒を解かなかった。
敵同士の仲間割れに見せかけた芝居なんて、世界を跨ぐ厄介事じゃ珍しくもない。
「先生、あの子……助けに来たんやろか」
はやてが背後で小さく問う。
声は低いが、期待より警戒の方が強い。
それでいい。
むしろ、今ので無条件に信じる方が危ない。
「知らん」
俺はキカイのまま構えを崩さず、前に立つ少女の背中を見た。
細い。
だが、細いから脆いとも限らない。
異世界側の存在である以上、この場で一番信用しちゃいけないのは、見た目だ。
アミタと呼ばれた少女は、なおもイリスへ向かって声を張る。
その間、再起動しかけていたロボットの残骸が、まるで命令待ちの兵隊みたいに中途半端な動きで止まっていた。
つまり、今この場を動かしている主導権はまだ向こうにある。
あのイリスって少女が、続行か撤退かを決める鍵だ。
イリスはしばらく無言のまま、俺と、はやてと、そして割って入った少女を順に見た。
その視線に迷いは薄い。
ただ計算している。
今ここで押し切れるか、それとも別の機会を選ぶか。
そういう目だった。
やがて、信号機の上の少女はゆっくりと視線を落とした。
ロボットの残骸へ走っていた赤い光が、一つ、また一つと消えていく。
それに合わせるように、集まりかけていた鉄片も力を失い、道路へ鈍い音を立てて散らばった。
「……今日は、ここまで」
感情の薄い声だけを残して、イリスは夜の空へ身を翻した。
跳ぶというより、暗闇そのものへ溶けるような後退だった。
追おうと思えば出来なくもない。
だが、その前に目の前へ残されたもう一人を放置するほど、俺は甘くない。
封殺結界の内側に、急に静けさが戻る。
さっきまでの殺気が嘘みたいに消えたせいで、逆に張り詰めた空気だけが濃く残った。
割って入った少女――アミタと呼ばれていた方は、イリスが去った空を一瞬だけ見上げ、それからようやくこちらへ振り向く。
その顔を見た瞬間、俺はキカイの装甲の内側で目を細めた。
敵意は薄い。
だが、それだけだ。
敵意がないことと、信用できることはまるで違う。
そもそも、こいつもまた異世界側の人間で、今夜の厄介事と無関係じゃない。
だったら、まず疑うのが筋だ。
はやても結界を維持したまま、息を整えながら少女を見ている。
さっきまでの焦りは消えたが、その代わり、簡単には気を緩めない硬さが顔に残っていた。
いい傾向だ。
この状況で助け舟だと決めつける方がよほど危ない。
俺はキカイのまま半歩だけ前へ出た。
重い装甲が夜の道路へ鈍い音を落とす。
それだけで、向こうも俺が警戒を解いていないことを理解したらしい。
少女は何かを言いかけたが、その言葉が出るより先に、俺は黙ったまま真正面から睨みつけた。
名も、目的も、立場も知らない。
知っているのは、こいつが今夜ここへ現れ、もう一人の異世界の少女を止めたという事実だけだ。
その事実だけでは、味方と判断するには足りない。
むしろ、事情を知っている分だけ、こいつの方が厄介な可能性すらある。
封殺結界の紫の光が、夜の路面へ淡く滲む。
その中心で、俺はキカイのまま無言で少女を睨み続けた。
助けに来たのか、敵の一部なのか、あるいはもっと別の何かなのか。
答えを出すには、まだ早すぎる。