「こいつだけじゃない」
そう口にした直後だった。
夜の埠頭を渡っていた風が、不意に刃みたいな鋭さへ変わる。
キリエを見据えていた視線の、そのさらに外側。
俺がさっきから引っかかっていた“裏”の気配が、今度は隠す気もなく一直線にこちらへ飛び込んできた。
咄嗟にライドブッカーを引き抜く。
次の瞬間、凄まじい衝撃が腕へ食い込んだ。
金属同士がぶつかる甲高い音が封殺結界の内側へ響き、俺の身体がそのまま数歩分、後ろへ押し滑らされる。
重い。
ただの奇襲じゃない。
真正面からこちらを叩き潰すつもりで振るわれた一撃だ。
「先生っ!」
はやての叫びが背後で跳ねた。
なのは達も一斉に視線をこちらへ向ける。
だが、俺はその声へ返す前に、目の前へ現れた“影”から視線を外せなかった。
そこに立っていたのは、俺と同じ輪郭を持ったライダーだった。
ディケイド。
いや、違う。
マゼンタの代わりに纏っているのは、もっと濁った黒と紫。
世界を渡る仮面の形だけをそのまま歪めて、悪意だけで塗り潰したみたいな姿。
鏡写しのはずなのに、そこから伝わってくる気配は、俺自身のものとは似ても似つかない。
「……ダークディケイド」
無意識に漏れた声が、自分でも驚くほど低かった。
ディケイドの力を穢しただけの偽物なら、ここまで胸の底は冷えない。
問題は、その仮面の奥にいる“中身”だ。
この悪意は知っている。
何度か別世界で、もっとも見たくない形の一つとして、確かに相対したことがある。
「久しいね、ディケイド」
静かで、やけに穏やかな声だった。
だからこそ余計に質が悪い。
耳へ入った瞬間、脳裏の奥に別の世界の景色が蘇る。
超常が日常へ溶け込み、ヒーローとヴィランが当たり前みたいに存在していた世界。
あの世界で、俺は一人の少年――轟を弟子として鍛え、そしてその裏側に巣食っていた“魔王”と戦った。
倒したはずだった。
少なくとも、そうでなければおかしい相手だ。
「……オール・フォー・ワン」
その名を絞り出した瞬間、目の前のダークディケイドがわずかに口元を歪めた気がした。
肯定だ。
それだけで十分だった。
「まさか、という顔だね」
奴は一歩も動かず、余裕だけを滲ませたままこちらを見ている。
こっちの驚きを楽しんでいる類の声だ。
それが余計に腹立たしい。
「お前は、あの世界で倒したはずだ」
俺が吐き捨てると、奴は肩を竦めるように首を傾けた。
ディケイドの姿でそんな仕草をされると、反吐が出る。
「悪を必要とする人間がいる」
そこで一度、奴は夜空を見上げる。
まるで、それだけで説明は足りるだろうとでも言いたげな間だった。
「それだけのことだよ」
短い。
だが、十分すぎる。
転生者。
別世界の記憶や能力を、この世界の誰かへ押し込む仕組み。
そこへ、ライダーの力だの世界を跨ぐ技術だのを平然と絡めてくる連中。
財団X。
あいつらなら、オール・フォー・ワンの記憶を核にした“何か”を作り出しても不思議じゃない。
つまりこいつは、本人そのものか、あるいは本人の記憶を宿した転生者か。
どちらにしろ、ここで見逃していい類の存在じゃない。
「なるほどな」
仮面の奥で舌打ちを噛み殺す。
「また財団Xの悪趣味か」
「さあ、どうだろう」
奴は否定しない。
その曖昧さが答えみたいなものだった。
その間に、キリエがわずかに身を引く。
完全に奴の存在を知らなかったわけじゃない。
むしろ、ここへ出てくることを前提に動いていた顔だ。
協力関係。
ただし信頼じゃない。
互いの目的のために、一時的に手を組んでいるだけの距離感だ。
「君の願いのためだ」
ダークディケイドは、視線だけをキリエへ向けた。
「今のうちに行きたまえ」
その一言で十分だった。
俺が動くより先に、奴が真正面から踏み込んでくる。
速度はディケイドのそれ。
だが、中身が中身だ。
力比べだけで済ませるつもりはない。
「邪魔だ」
吐き捨てると同時に、俺も前へ出る。
ライドブッカーと、ダークディケイドの蹴りが激突した。
衝撃が腕を痺れさせ、足元のコンクリートがひび割れる。
奴はそのまま間髪入れず二撃目、三撃目と畳みかけてきた。
こっちを押し込むための連撃じゃない。
目線だけは、俺をこの場へ縫い付けるための動きだ。
つまり、本命は別に動いている。
「先生!」
はやての声に、嫌な予感が形を持つ。
視界の端で、キリエが一直線にはやての方へ走っていた。
アミタが止めようとするが、一歩遅い。
フェイトとなのはも動いたが、その瞬間、ダークディケイドがこちらの腕を弾き、俺の進路へ自分の身体を割り込ませた。
「よそ見は感心しないな」
「黙れ」
押し返そうとした、その刹那。
紫の光が一度だけ大きく揺れる。
はやての腕の中にあった夜天の書へ、キリエの手が届いた。
正確には、夜天の書の中核が収められたその器へ、だ。
はやてが咄嗟に引き寄せるが、イリスか、あるいは残っていた機械の補助か、見えない力がそこへ重なって、書がはやての手元から奪い取られる。
「っ……返して!」
はやての声が裂ける。
アミタが妹の名を叫ぶ。
なのは達が一斉に距離を詰める。
だが、その一瞬の隙を作るためにこそ、目の前の魔王は俺へ噛みついてきた。
「お前……!」
俺はダークディケイドの胸ぐらを掴み、力任せに引き寄せる。
ディケイドとダークディケイド。
同じ輪郭が至近距離でぶつかり合う。
仮面越しに見える奴の眼だけが、薄気味悪いほど愉快そうだった。
「目的は果たした」
静かな声だった。
「協力関係は、ここまでで十分だろう」
その意味を理解した瞬間にはもう遅い。
キリエの周囲へ暗い歪みが走り、夜天の書を抱えたまま後退する。
アミタが飛び込むが届かない。
なのは達の砲撃が届く前に、奴らの姿は空間の向こうへ滑るように遠ざかっていく。
「待て!」
俺が踏み込んだ瞬間、ダークディケイドが最後の一撃を打ち込んできた。
真正面から受け止める。
だが、その衝撃を利用するみたいに、奴自身の身体が霧のようにほどけ始めた。
最初から長居するつもりはなかった。
夜天の書を奪う、その一点のためだけに現れたというわけだ。
「また会おう、ツカサ」
闇へ溶けながら、オール・フォー・ワンの声だけが残る。
最後まで、あくまで穏やかで、それでいて底の見えない悪意だけを滲ませたまま。
「悪を欲する限り、僕は何度でも現れる」
次の瞬間、ダークディケイドの姿は完全に掻き消えた。
残ったのは、封殺結界の内側に満ちる焦げた匂いと、奪われた書を追えなかった現実だけだった。
俺はその場に立ったまま、空間の歪みが閉じた場所を睨む。
読みは当たっていた。
キリエの裏で動く存在はいた。
だが、想定していたよりずっと性質が悪い。
財団Xの実験体か、転生者の延長線にある災厄か。
どちらにしろ、夜天の書はあいつらの手へ渡った。
「……最悪だな」
吐き捨てた声は、自分でも驚くほど低かった。
その間にも、はやては書を失った腕を握りしめ、アミタは妹が消えた方角を見つめたまま動けずにいる。
なのは達もまた、今起きたことの意味を飲み込みきれていない顔だった。
だが、これで終わったわけじゃない。
むしろ、ここからが本番だ。
オール・フォー・ワン。
別世界で倒したはずの魔王。
その悪意が、今度はダークディケイドの姿で、この世界の厄介事と手を組んだ。
なら、奪われた夜天の書を取り戻すだけじゃ済まない。
敵の盤面は、想定していたよりずっと大きい。
俺はディケイドのまま、閉じた夜空を睨み続けた。
今さら驚いて終わる気はない。
だが、次に来る時は、もう好きに盤面を荒らさせるつもりもなかった。