夜天の書を奪われた直後の空気は、戦いの終わりじゃなく、もっと厄介なものが始まった直後の重さを帯びていた。
アミタは妹が消えた方角を見つめたまま動けず、はやては空になった腕の中を握り締め、なのはとフェイトもすぐにでも飛び出したいのを必死に抑えている。
その焦りは分かる。
分かるが、だからこそ、そのまま行かせるわけにはいかなかった。
「追うな」
俺がそう言った瞬間、なのは達の動きが止まる。
強く言ったつもりはない。
けれど、今の言葉に含めたものは、止めたいという願いじゃなく、止めるという決定だった。
「でも、先生……!」
なのはが反射的に声を上げる。
その顔には迷いも悔しさもあったが、それでも助けたいという意志が一番先にある。
だから俺は、そこで言葉を濁さなかった。
「あいつだけは、お前達が相手をするな」
フェイトが息を呑む気配がした。
はやても、アミタでさえ、その言葉の強さにこちらを見る。
今までなら、事情を聞く余地がある相手もいた。
止められる可能性がある悪もいた。
だが、今の相手はそういう枠へ入れるべきじゃない。
「今のダークディケイド、あれは何なの?」
フェイトの問いは静かだったが、その分だけ切実だった。
プレシアのことも、笛木のことも、いろいろな悪意を見てきた上で、なお分からないものへ向ける声だった。
俺は夜空を一度だけ見上げ、それから全員を見回した。
「お前達がこれまで会ったのは、どれもが少し間違えただけで悪に落ちた存在だったとする」
そこで一度、言葉を切る。
なのは達は何も言わない。
プレシアも、笛木奏も、グレアムも、理屈も痛みも、どこかに人間としての迷いがあった。
だからこそ、救えるかもしれないって発想が生まれた。
「だが、あいつは違う」
仮面越しじゃなく、今は自分の顔のままで言うべき言葉だった。
だからこそ、声だけは余計に冷たくなる。
「奴は純粋無垢の悪の存在だ」
その一言が落ちた瞬間、はやての顔が強張る。
なのはもフェイトも、すぐには返せなかった。
それでいい。
簡単に飲み込める相手じゃないからこそ、最初にそこだけは刻み込む必要がある。
「あいつの名は、オール・フォー・ワン」
アミタがその名に反応する様子はない。
つまり、キリエ達にとっても本筋の協力者じゃなく、別口から噛んできた“悪意”ってことだろう。
それなら、なおさら質が悪い。
「昔、別の世界で俺が戦った敵だ」
「あの世界では、魔王と呼ぶ方が早かった」
俺の脳裏に浮かぶのは、あの世界の焦げつくような空気と、一人の少年の顔だった。
轟。
俺が弟子として見ていた、妙に不器用で、だからこそ真っ直ぐだったガキのいた世界。
そこで俺は、あの化け物と確かに戦った。
倒したはずだった。
少なくとも、そうでなければ今ここへ出てくる理由がない。
「この世界の言い方に合わせるなら、あいつは他人のレアスキルを奪える」
アミタが小さく眉を寄せ、なのは達も息を詰める。
そこで俺は続けた。
「一つや二つじゃない。奪って、溜め込んで、必要なら他人へ押しつけることすら出来る」
「それだけでも厄介だが、今回はそこへダークディケイドの変身まで重ねてきた」
「レアスキルを幾つも抱え込んだ上で、仮面ライダーの力まで着込んでる。真正面からやり合うには、性質が悪すぎる」
「そんな相手が……」
なのはが小さく呟いたきり、その先を続けられない。
当然だ。
強敵ってだけならまだいい。
問題は、その強さの質が、今までの相手と根本から違うことだ。
「あいつは知らなくても良い存在だ」
そう言った時、自分でも声が少し低くなったのが分かった。
嫌悪が混じる。
それくらいは認めるしかない。
「人の不幸を心から望んでいる」
「救いたい誰かがいて暴れたんじゃない。守りたいものがあって間違えたんでもない」
「不幸も絶望も破滅も、全部、自分の支配と愉悦のために使う」
フェイトが、そこでゆっくりと目を伏せる。
プレシアとの違いを、たぶん一番痛い形で理解したんだろう。
プレシアは間違えた。
笛木も狂った。
だが、オール・フォー・ワンは違う。
最初から、そういうものとして完成している。
「それに、あいつは人を殺すことに躊躇がない」
そこだけは、はっきり言い切った。
遠回しに伝えても意味がない。
分からせるためには、痛い言葉のまま置くしかない。
「話せば止まる相手じゃない」
「助けようとすれば、その一瞬の迷いごと利用される」
「理解しようとするな。隙だとしか思われない」
なのはが唇を結ぶ。
言い返したいのは分かる。
それでも言葉にしないのは、今の説明がただの脅しじゃなく、俺自身が見てきた現実から来ていると察したからだろう。
「じゃあ、どうすればいいの……?」
その問いは、なのはらしいものだった。
諦めるためじゃなく、次にどう動くかを知るための問いだ。
だからこそ、俺も逃げずに返す。
「お前達は、キリエ達の方を見ろ」
はやてが顔を上げる。
アミタもまた、わずかに目を見開いた。
「キリエ達には事情がある。止めたあとで聞く余地もある」
「だが、オール・フォー・ワンは別だ」
「あいつだけは、同じ敵として並べるな」
そのあとで、俺ははっきりと線を引いた。
「オール・フォー・ワンは俺が相手をする」
「先生、一人で……!」
はやてが反射的に声を上げる。
その気持ちは分かる。
だが、ここで譲るわけにはいかない。
「教師が、生徒をあんなものの前へ立たせる気はない」
静かに言ったつもりだった。
けれど、自分でも驚くくらい、その言葉はすとんと腹の底へ落ちた。
結局、そこなんだろう。
世界を渡るどうこうだの、ディケイドの力だの、面倒な理屈は色々ある。
だが今の俺は、こいつらの先生だ。
だったら、生徒を“純粋な悪”の前へ無防備に出すなんて選択肢は、最初からない。
少しの沈黙が落ちる。
その中で、俺は最後に自分の推測だけを口にした。
「あいつがそのまま蘇ったとは考えにくい」
「転生者の件と同じだ。記憶か、悪意の核か、その辺りを誰かがこの世界へ持ち込んだ」
「その上で、ダークディケイドなんて姿まで用意出来る連中となると……」
そこで、フェイトが低く呟く。
「財団X……」
「ああ」
俺は短く頷いた。
「十中八九、あいつらの仕業だ」
「転生者の件も含めて、ようやく一本の線で繋がった」
なのははしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
目の奥にはまだ迷いがあった。
それでも、その迷いごと抱えて前を見る目だ。
「……分かった」
「オール・フォー・ワンは先生に任せる」
「でも、キリエ達のことは、私達も止める」
「それでいい」
俺はそう返した。
全部を一人で背負うつもりはない。
役割を間違えなければ、それで十分だ。
夜気は冷えたままだったが、場の空気だけはさっきより少しだけ整った。
奪われた夜天の書はまだ遠い。
敵の盤面は大きく、しかも趣味が悪い。
だが、やるべきことは見えた。
それなら、今はそれで足りる。
俺はもう一度、夜天の書を奪われた方角を睨んだ。
あの魔王だけは、次に会った時、絶対に好きにさせない。
そのためにも、まずはキリエ達と、財団Xが繋いだこの歪んだ盤面を、一つずつ剥がしていくしかなかった。