夜の埠頭を離れてから、俺は一人で人気のない工業地帯を抜けていた。
なのは達とは別れて動くと決めたのは、夜天の書を奪った連中の進路が途中で二つに分かれていたからだ。
キリエ達を追うなら、なのは達とアミタがいた方が、まだ話の通る余地が残る可能性がある。
だが、オール・フォー・ワンだけは別だし、あいつを自由にさせたままにすれば、盤面そのものが腐る。
だからこそ、俺はこっちを選んだし、教師だの何だのと言う前に、あいつだけは自分で止めるつもりだった。
港湾倉庫の並ぶ道は、深夜のくせに妙に明るい。
大型トラックも止まり、コンテナも積み上がっているのに、人の気配だけが不自然なくらい薄い。
そういう場所は、大抵ろくなことが起きないし、今夜に限っては、その嫌な予感が最初から当たっていた。
路面へ残るかすかな歪みと、空気の奥に混ざる世界を跨いだ気配を追って走っているうちに、前方の闇が一段だけ濃くなった。
見えているわけじゃないのに、そこへ誰かが立っていると分かる類の圧だった。
俺は歩調を緩めず、そのまま暗がりの中心へ向かって進む。
逃げる気配も、隠れる気配もない以上、向こうも最初からここで待つつもりだったんだろう。
だったら、余計な小細工を読む手間が省けるだけまだましだ。
「出てこい。」
そう声をかけた直後、俺の正面へ、夜を裂くみたいに黒い影が滑り出た。
濁った紫と黒を纏ったディケイドの輪郭は、見間違えようがないほど俺に似ている。
だが、その仮面の奥にいるものは、俺自身からもっとも遠い位置にある悪意だった。
ダークディケイド。
そして、その中にいるのは、あの世界で確かに倒したはずの魔王。
「本当にしつこいな、お前は。」
俺が吐き捨てると、ダークディケイドは肩を揺らして笑った。
耳障りなほど大きな笑いじゃないのに、聞いているだけで胸糞が悪くなる。
人の不幸も困惑も、全部を心底面白がっている奴の笑い方だった。
「再会を喜んでくれてもいいと思うけれどね、士。」
「殺しておくべきだったか。」
そう返しながら、俺はすでにディケイドライバーへ手を伸ばしていた。
こいつ相手に言葉を重ねても、意味なんてないし、意味があるように見せること自体が、あいつの土俵へ乗ることになる。
だから、さっさと変身して叩き潰す。
そのつもりでカードを抜きかけた、その瞬間だった。
周囲の空気が、同時に三箇所だけ揺れた。
右。
左。
そして、俺の背後。
殺気とまでは言わない。
だが、少なくとも敵意の形へ整えられた気配が、三つ。
その数を認識した瞬間、俺の指が止まった。
ダークディケイドの口元が、仮面の下でも分かるくらいに歪む。
それを見て、胸の奥が嫌な冷え方をした。
あの反応は、次に現れるものが、単なる増援や兵器なんかじゃない時の顔だ。
もっと露悪的で、もっと人の神経を逆撫でする“嫌がらせ”が来る時の顔だった。
「どうした、士。」
「あまりに見覚えのある気配で、手が止まったのかな。」
その言葉と同時に、俺の右手側の闇から、一つ目の影が姿を現す。
銀灰色の髪。
獣みたいに重心を低くした立ち方。
今にも飛びかかってきそうな前傾姿勢と、唇の端に浮かぶ凶暴な笑み。
デルタ。
いや、違う。
顔も、髪も、仕草も、見た目だけなら確かにデルタだった。
それなのに、そこから漂ってくるものは、俺の知っているあいつよりずっと濃くて、ずっと歪んでいる。
左手側の倉庫の屋根からは、細身の影が静かに降りてくる。
揺れる金の髪と、無駄のない着地。
獲物を測る刃物みたいな視線。
ゼータ。
それもまた、見た目だけは間違いなくそうだった。
だが、本物のゼータが持つ冷静さの奥には、まだ人間らしい判断の温度がある。
目の前のこいつには、それがない。
ただ殺すための最適解だけが、最初から全身へ刻まれているみたいな、不自然な静けさだけがあった。
そして背後。
振り向かなくても分かるほど、そこに立った三つ目の気配は、妙に不快だった。
眠たげで、気怠げで、それでいて観察する視線だけが異様に冴えている。
イータ。
そう見えるものが、街灯の下へゆっくりと姿を晒す。
伏せ気味の瞼も、緩く傾いた首も、研究対象を見るみたいな顔つきもそっくりだった。
だが、本物のイータなら、少なくともその視線の奥には、俺を“ツカサ”として見る個人的な熱がある。
こいつにはそれがなくて、ただ解体前の標本を前にしたみたいな無機質な興味だけがあった。
「……っ。」
喉の奥で、声にならない息が引っかかった。
頭では分かる。
見た目は同じだけの別人だ。
いや、そもそも人ですらないのかもしれない。
血液から生成した複製体。
オール・フォー・ワンなら、そして財団Xが絡んでいるなら、それくらいの悪趣味は平然とやる。
理屈は分かる。
目の前にいる三人が、本物のデルタでもゼータでもイータでもないことくらい、嫌になるほど分かる。
それでも、身体の方が即座に攻撃へ切り替わらなかった。
ダークディケイドが、そこで楽しそうに首を傾ける。
完全に見透かしている顔だった。
「理解しているんだろう。」
「それが君の知っている彼女達ではないと、頭ではちゃんと分かっている。」
その通りだった。
だからこそ腹が立つ。
分かっているのに、目の前の顔が同じだというだけで、拳の軌道が一瞬だけ鈍る。
たとえ偽物だと知っていても、その輪郭を壊す動きを、自分の身体がためらう。
そんな反応まで計算に入れた上で、こいつはこの三人の姿を選んだ。
「趣味が悪いな。」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
怒りだけじゃない。
吐き気に近い不快感が混じっている。
「褒め言葉として受け取っておこう。」
ダークディケイドは平然とそう返す。
本当に心の底から楽しんでいるんだろう。
力を奪うだけじゃない。
相手の縁も、記憶も、感情も、全部利用して盤面を荒らす。
オール・フォー・ワンという悪が一番醜いのは、そういうところだ。
デルタの複製体が、最初に動いた。
獣みたいに低く地面を蹴り、一気に俺との距離を潰してくる。
速い。
本物のデルタよりも、獣性だけをそのまま濃縮したみたいな一直線の踏み込みだった。
避けることは出来る。
迎撃も出来る。
それなのに、飛び込んできた顔がデルタと同じだと分かった瞬間、腕がほんのわずかに遅れた。
掠める爪がジャケットの肩口を裂く。
一歩退く。
すぐ横から今度はゼータの複製体が刃のような蹴りを入れてくる。
こちらも受け止める。
だが、受け止めた腕へ伝わったのは、見慣れた動きへの違和感だった。
本物なら、ここで半歩引いて次の刺突へ繋ぐ。
こいつは違う。
殺すためだけの速度で、そのまま関節ごと折りに来る。
「どうした、士。」
ダークディケイドの声が、遠くで笑う。
「その程度で、まさか動きが鈍るとは思わなかったよ。」
「黙れ。」
吐き捨てながら、俺はゼータの複製体を弾き返す。
その背後から、眠そうな顔をしたイータの複製体が、妙に静かな歩調で近づいてくる。
手の中には、見覚えのある器具に似た形の刃が握られていた。
研究道具と処刑器具の境目が曖昧になったみたいな、嫌な得物だった。
「……ツカサ、解析完了。」
「捕獲してから、分解する。」
声まで似せているくせに、決定的に違う。
本物のイータの声音には、もっと個人的で、執着じみた温度がある。
こいつにはそれがなくて、ただ命令文だけを真似たみたいに平板だった。
だから偽物だと分かる。
分かるのに、顔が同じだというだけで、やはり撃ち抜くべき一点を狙う指が鈍る。
くそったれが。
心の中で吐き捨てる。
オール・フォー・ワンは、それを見ている。
見た目は同じだけの別人だと頭で理解していながらも、即座には攻撃出来ない。
その歪な一瞬を、こいつは最初から嫌がらせの一部として楽しんでいる。
「お前、そこまで腐ってるか。」
俺が睨みつけると、ダークディケイドは愉快そうに肩を揺らした。
「むしろ、そこまで君が人間らしいことに安心したよ。」
「世界の破壊者も、知った顔には弱いらしい。」
その瞬間、今度は三方向から同時に気配が跳ねた。
デルタの複製体が正面。
ゼータの複製体が死角。
イータの複製体が後方から拘束狙い。
完全に俺を試している。
この顔をした相手を、どこまで本気で壊せるのか。
だったら、答えは一つしかない。
俺は大きく息を吸って、無理やり感情を底へ沈めた。
見た目は同じでも、中身は違う。
あいつらの姿を借りた別物だ。
そう何度も頭の中で繰り返しながら、それでも胸の奥では、殴れば壊れるのがその顔だという事実だけが、嫌になるほど重く残る。
「……最悪の趣味だな。」
構えを取り直しながら、俺は目の前の三人を見た。
別人だ。
分かっている。
だが、それでも今すぐ平然と殴り抜けるほど、俺はそこまで壊れていない。
だからこそ、オール・フォー・ワンはこの布陣を選んだ。
こっちが理解していることまで見越した上で、なおためらわせるために。
ダークディケイドは、そんな俺の顔を見て満足そうに笑っていた。
この盤面の目的は、勝つことだけじゃない。
俺の神経を削り、足を止め、ほんの一瞬でも判断を遅らせること。
そのために、わざわざこの顔を並べた。
あまりにも露悪的で、あまりにもあいつらしい。
そして、その悪趣味さが理解できるからこそ、余計に腹が立った。