仮設の解析室として使われている一室は、戦場の熱気から切り離されたはずなのに、別の意味でひどく息苦しい空気に満ちていた。
回収された魔力残滓の結晶片や、歪んだライダー群の反応を記録した端末、さらにイリス側から採取した不完全なデータ片が几帳面に並べられている一方で、その秩序の中心には、明らかに噛み合わない二つの知性が同時に存在していた。
ひとりは、眠たげな目で端末を覗き込みながら、資料の端へ細かな注釈を書き足しているイータだった。
もうひとりは、同じ資料へ視線を向けているはずなのに、まるで実験台そのものへ恋でもしているような異様な熱量で笑みを浮かべる、魔神イータだった。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、なのはは思わず立ち止まり、隣を歩くシュテルへ困ったような視線を向けた。
それだけで十分だったらしく、シュテルもまた部屋の空気を一瞥しただけで、状況が最悪に近いことを即座に理解した。
「……なんだか、すごく嫌な予感がするんだけど。」
なのはが小さくそう漏らすと、シュテルは静かなまま、しかし誤魔化しのない声音で応じた。
「同感です。
この二人を同じ空間へ置いた判断は、再検討されるべきだったかもしれません。」
その会話へ割り込むように、イータが手元の端末から顔も上げずに口を開いた。
「再検討するなら今すぐにしてください。
この個体は、比較対象へ無差別に高負荷刺激を与えようとしています。
それでは、得られる結果が雑音だらけになって、記録の価値が著しく下がります。」
その冷えた指摘へ、魔神イータが勢いよく振り返る。
目の前の資料へ飛びつきそうな熱狂と、何か面白い玩具を見つけた子供みたいな危うさが、顔いっぱいに広がっていた。
「WRYYYYY!
甘いですねええええ、そんな慎重さでは真理が逃げていくのですよォォォ!」
「逃げる真理は、最初から観測条件が甘いだけです。
壊してから慌てて覗いても、それは反応ではなく事故の記録でしかありません。」
イータは相変わらず気怠そうだったが、その声の奥だけはほんの少し鋭かった。
研究対象に対してだけ集中力が立ち上がるその変化を、なのははすぐに察したものの、魔神イータはむしろそこを面白がるように笑みを深くした。
「事故ォォォ?
違いますねええええ、それは限界突破の瞬間なのですよォォォ!
壊して、暴いて、超えて、そこではじめて剥き出しの本質が姿を見せるのですゥゥゥ!」
「本質を見る前に、比較対象が粉砕されているなら意味がありません。
一度限りの派手な数値は、再利用性が低いので嫌いです。」
なのははそこまで聞いたところで、もう黙って見ているだけでは駄目だと判断した。
この二人を放置したままでは、協力どころか、次の戦いに必要な情報そのものが消し飛びかねない。
「ちょっと待って、二人とも。
今ほしいのは、次の戦いで使える情報なんだよね。」
魔神イータが、なのはの方へぎゅるりと顔を向ける。
その勢いだけなら敵に回したくない類の危うさだったが、なのはは逃げずにその視線を受け止めた。
「使える情報なら、なおさら爆発力が必要でしょうがァァァ!」
「でも、その情報を誰かを守るために使うなら、壊すだけじゃ足りないよ。」
なのはは柔らかい声音のまま、しかし言葉だけはまっすぐに通した。
怒鳴り返さず、否定から入らず、それでも一歩も引かない。
その話し方に、魔神イータの勢いが一瞬だけ乱れる。
「今の私たちに必要なのは、勝つための情報と、助けるための方法だよ。
どっちか片方だけじゃ足りないなら、両方そろうやり方を考えるしかないでしょ。」
イータはその言葉へ視線だけを向け、次に静かに頷いた。
「それは正しいです。
結果を残すだけでは足りなくて、再現して次へ繋げる必要があります。」
だが、魔神イータはすぐには折れない。
指先で机を叩きながら、妙に嬉しそうな苛立ちを滲ませていた。
「WRYYYYY……。
ですが、その慎重さは遅いのですよォォォ。
敵がこちらの整った手順を待ってくれるほど、世界は親切ではないでしょうがァァァ!」
その時、今まで会話の流れを冷静に眺めていたシュテルが、静かに一歩だけ前へ出た。
声量は変わらない。
それでも、その一言が落ちた瞬間、部屋の空気はほんの少しだけ引き締まった。
「結論から言えば、両者とも不完全です。」
魔神イータが、面白そうに目を細める。
イータもまた、今度ははっきりとシュテルへ意識を向けた。
「イータの手法は安定していますが、速度に欠けます。
魔神イータの手法は突破力がありますが、損耗と誤差が大きすぎます。
どちらか片方だけでは、今の状況に対応しきれません。」
その断定には、なのはの説得とは違う種類の鋭さがあった。
優しさで包まず、情熱へも流されず、ただ必要な形へ切り分ける冷静さ。
だからこそ、二人ともその言葉を無視できなかった。
「今必要なのは、片方の勝利ではありません。
安定した基礎解析の上へ、必要な箇所だけ高負荷の強制検証を重ねることです。」
イータが少し考えるように目を伏せる。
そして、いつもの眠たげな声のまま答えた。
「それなら、先に私が土台を作ります。
危険な刺激は、対象を絞ってから入れてください。
そうでないと、後から見る価値のある結果が残りません。」
魔神イータが、わざとらしく大きく肩を震わせる。
「WRYYYYY!
つまり、私の美しい発想と爆発力を、必要な箇所だけに絞って使えとォォォ?」
「そうです。」
シュテルは即答した。
「全部へ同時に振り回す必要はありません。
必要な一点へ集中させれば、あなたの手法は有効です。」
その瞬間、魔神イータの表情がわずかに変わった。
否定されたのではなく、危険性ごと利用価値を認められた。
そこにほんの少しだけ機嫌を直す余地が生まれたらしい。
なのははその変化を見逃さず、さらに一歩だけ踏み込んだ。
「お願い、力を貸して。
今ここで二人がちゃんと手を組めたら、次に助けられる人が増えるかもしれない。
それなら、やってみる価値はあると思うんだ。」
魔神イータは、さっきまでの勢いを少しだけ削がれた顔で、なのはを見た。
真正面から頼まれることに弱いのか、それともそこにある善意の圧へ一瞬だけ押されたのか、その両方かもしれない。
「WRYYYYY……。
真正面からそう来られると、少しやりにくいのですよォォォ……。」
そのぼやきへ、イータが間髪入れずに追い打ちをかける。
「それで、協力するのですか、しないのですか。
議論を長引かせるより、さっさと始めた方が効率はいいです。」
魔神イータは数秒ほど妙に芝居がかった沈黙を保ったあと、勢いよく両腕を広げた。
「しますともォォォ!
ただし、私の美しい発想を“危険だから”の一言で雑に切り捨てないことですゥゥゥ!」
イータはそこでようやく小さく息を吐き、机の端に積んでいた資料を二つに分けた。
「なら役割を分けます。
私は基礎解析と条件固定をやります。
あなたは、その後に必要な高負荷検証だけ担当してください。」
「よろしいィィィ!
ならば私は、限界を越えた時にしか見えない数字を引きずり出して差し上げましょうゥゥゥ!」
シュテルが、もう一度だけ短く場を締める。
「工程管理は私が行います。
余計な逸脱があれば、その場で止めます。」
なのはも頷きながら、並べられた資料の一部を手に取った。
「私は、出てきた結果が次の戦いでどう使えるか、実戦側の整理をするね。」
「それなら、まあ、悪くありません。」
イータがそう言い、魔神イータもまた、不満を残しつつ妙に楽しそうな笑みを浮かべる。
「WRYYYYY!
不本意ですが、慎重派と激情派の夢の共同研究という訳ですかァァァ!」
部屋の空気はまだ不安定で、いつまた言い争いが再燃してもおかしくない。
それでも少なくとも今この瞬間だけは、二人の知性が同じ方向へ向いた。
なのははようやく小さく安堵の息をつき、シュテルは感情を大きく見せないまま、それでも最低限の成功として受け止めているようだった。
イータは眠たそうなまま端末へ視線を戻し、魔神イータは派手な笑みのまま別の端末へ飛びついていく。
最悪に相性の悪い二人の研究者が、最悪な戦いへ備えるために肩を並べる。
不安しかない協力体制だったが、だからこそ今は必要だった。
次の戦場で少しでも多くを掴むために、その危うい共同作業は、ようやく静かに動き始めた。