悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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黒幕

 結界内の夜は、もはや都市の夜ではない。

 遠方では氷壁へ何かが激突する鈍い音が響き、別の方角では魔力の閃光が高層ビルの窓を一瞬だけ白く染め上げている。

 戦いは各地で同時に起こり、街のあちこちが切り分けられた戦場となっているが、そのすべての音が混ざり合ってなお、緑谷出久の耳には、ゼインドライバーから響く低い声だけが鮮明に届いている。

 

『緑谷少年、予測された未来は最悪に近い』

 

 その声はサー・ナイトアイのものだ。

 かつて死したはずのプロヒーローの理性が、今はゼインドライバーの補助人格として、緑谷の判断を支えている。

 無機質な機械音声ではない。

 厳格で、冷静で、しかし緑谷が未来を変える可能性を最後まで見捨てない、あの人の声である。

 

『ユーリ・エーベルヴァインが何者かに連れ去られる。その場にいる三名も戦闘不能に近い状態へ追い込まれるだろう』

 

 緑谷は一瞬だけ奥歯を噛み締める。

 怒りではない。

 焦りでもない。

 そのどちらも胸の奥にはあるが、今ここで最も必要なのは、それらを足の速さと判断の精度へ変えることだと、彼は誰よりよく知っている。

 

「場所は分かりますか、ナイトアイさん」

 

 問いながら、緑谷はすでに走り出している。

 ひび割れた道路を蹴り、倒れた街灯を飛び越え、崩れた歩道橋の支柱を足場にして、身体を夜の街へ押し出していく。

 ワン・フォー・オールの名残のような力が四肢を駆け抜け、彼の身体は建物の壁面へ一瞬だけ吸いつくように着地し、次の瞬間にはさらに高く跳ね上がる。

 

『座標は表示した。到着までの猶予は短い。君が踏み込む瞬間が、未来を変えられる分岐点になる』

 

「なら、そこへ行きます」

 

 緑谷の声は荒い呼吸の中でも揺らがない。

 未来が見えているなら、そこへ向かう道もまた見えている。

 そして、その未来が誰かを奪うものならば、変えるために走る理由は十分すぎるほどある。

 

「未来が見えているなら、僕はその未来を変えるために動きます」

 

 言葉と同時に、緑谷は崩れたビルの外壁を蹴って大きく跳ぶ。

 眼下では、轟が築いた巨大な氷壁が道路を塞ぎ、青白い城塞のように結界内の動線を断ち切っている。

 その向こうでは魔力弾の光が散り、どこかでライダーの装甲が砕けるような音も響いている。

 それでも緑谷は迷わない。

 今、自分が向かうべき場所は一つだけである。

 

『右前方、魔力反応が三つ。中心に不安定な反応が一つ。推定対象はユーリ・エーベルヴァイン』

 

「ディアーチェさん達が止めているんですね」

 

 緑谷は空中で身体を捻り、ビルの看板跡へ足をかける。

 足裏が金属を歪ませる音を残し、彼の身体はさらに前へ飛ぶ。

 路地の奥から吹き上がる煙を突き破ると、目的地の広場が視界へ入った。

 

 そこは、激戦の後だった。

 石畳は大きく抉れ、街灯は根元から折れ、魔力の焼け跡が黒い紋様のように広がっている。

 中央では、ディアーチェ、シュテル、レヴィの三人が息を乱しながら立っている。

 その前には、力を使い果たしたユーリが膝をつき、肩で細く息をしている。

 

「ようやく止まったか、ユーリ」

 

 ディアーチェの声は強い。

 けれど、その強さは勝者の傲慢ではなく、ようやく大切な相手へ届いた者の安堵を必死に覆い隠すためのものでもある。

 

「まったく、手間をかけさせおって」

 

「魔力反応は低下しています。ただし、外部からの干渉が完全に消えたとは断定できません」

 

 シュテルは冷静に告げるが、その声音にも疲労は隠しきれていない。

 レヴィは肩で息をしながらも、ユーリの方を覗き込むように一歩前へ出る。

 

「なんてこった、ほんとに大変だったぞ。でも、止められたならそれでいい!」

 

 ユーリは俯いたまま、小さく震えている。

 その瞳に意識の光は戻りかけているが、まだ完全ではない。

 暴走の残滓か、外部からの干渉か、彼女の周囲には目に見えない不安定な気配が、薄く尾を引いている。

 

 その気配の奥で、影が動く。

 

 広場の端、砕けた街灯の根元から、黒い影が音もなく伸びる。

 それは魔力の触手にも、技術的な拘束装置にも見える異様な形をしている。

 影はまっすぐにユーリの背後へ回り込み、まるで彼女をこの場から切り取ろうとするかのように迫っていく。

 

「後方、反応があります」

 

 シュテルが気づく。

 だが、戦闘直後の身体では反応が一拍遅い。

 ディアーチェが振り返り、レヴィが叫ぶよりも早く、影はユーリへ触れようとする。

 

「ユーリ、そこから離れろ!」

 

 レヴィの声が広場へ響く。

 しかし、ユーリは動けない。

 影が彼女へ届く、その寸前だった。

 

 上空から風が落ちる。

 

 緑谷出久が、砕けた建物の屋上から飛び込んでくる。

 全身へ走る力を右拳へ集め、彼は影とユーリの間へ割り込むように落下する。

 その顔に迷いはない。

 誰かを傷つけるための一撃ではなく、誰かを守るために放つ拳が、夜の広場へ一直線に振り抜かれる。

 

「スマッシュ!」

 

 拳が影を叩き潰す。

 衝撃が広場を駆け抜け、黒い拘束の気配が風に散らされるように吹き飛んだ。

 石畳が砕け、細かな破片が宙へ跳ね上がり、ユーリの周囲にまとわりついていた不快な気配が、衝撃波に押し流されて消えていく。

 

 緑谷はそのまま地面へ着地する。

 膝を沈め、右拳を引き、ユーリを背に庇う位置へ立つ。

 その姿は、戦場へ遅れて来た援軍というより、奪われる未来の前へ滑り込んだヒーローそのものだった。

 

「間に合った……」

 

 小さく漏らした声に、安堵はある。

 けれど、その安堵は一瞬で警戒へ変わる。

 緑谷は正面の影が伸びてきた方向を見据え、深く息を整える。

 

「ユーリさんから離れてください」

 

「凄いぞ、強いぞ、格好いい!」

 

 レヴィが思わず叫び、それから慌てたように眉を上げる。

 

「って、誰だ!?」

 

「援軍ですか」

 

 シュテルは表情を変えずに問いかけるが、その視線はすでに緑谷の背後、ユーリの安全確認へ移っている。

 ディアーチェは一瞬だけ目を細め、緑谷の気配を測るように見る。

 

「……いや、この気配は、先ほど聞いた者か」

 

 緑谷は三人へ背を向けたまま、油断なく前を見る。

 砕けた街灯の向こうで、黒い影が退き、その主がゆっくりと姿を現す。

 

 白衣を思わせる衣装。

 研究者めいた落ち着き。

 そして、場違いなほど穏やかな微笑。

 その男は、今まさにユーリを連れ去ろうとしたにもかかわらず、焦りも苛立ちも見せず、むしろ緑谷の介入そのものを観察しているようだった。

 

「興味深いですね」

 

 男の声は柔らかい。

 しかし、その柔らかさには人を安心させる温度がない。

 ガラス越しに実験結果を眺める研究者の冷たさだけが、その声の奥へ沈んでいる。

 

「このタイミングで割り込んでくる者がいるとは、少し計算外でした」

 

 緑谷は拳を構えたまま、男を真っ直ぐ見据える。

 相手が何者であろうと、今の彼が立つ場所は変わらない。

 ユーリと、彼女を守ろうとした三人の前である。

 

「あなたは誰ですか」

 

 緑谷の問いは静かだが、譲る気配はない。

 

「どうして、ユーリさんを連れて行こうとしたんですか」

 

 男はわずかに笑う。

 その笑みは、ヒーローの問いを尊いものとして受け取る笑みではない。

 あくまで興味深い反応が得られたことへの、観察者の笑みだった。

 

「質問の順番が実にヒーローらしい」

 

 男は緑谷の拳と、背後のユーリを交互に見る。

 

「まず助け、次に理由を問う。君はそういう人間なのですね」

 

「答えてください」

 

 緑谷の声が一段低くなる。

 怒鳴らない。

 しかし、そこには決して退かない硬さがある。

 

「この人を、これ以上利用させるわけにはいきません」

 

 その時、ゼインドライバーからナイトアイの声が響く。

 外へ漏れるほどではないが、緑谷の意識には鋭く差し込まれる警告だった。

 

『緑谷少年、警戒を緩めてはならない』

 

 緑谷はほんのわずかに目を伏せる。

 応答は短く、しかし確かだ。

 

「分かっています」

 

『予測された最悪の未来は、まだ完全には消えていない。君の介入により分岐は生じたが、危険は継続中だ』

 

「でも、今ここで止めれば変えられるはずです」

 

『その判断を支持する。ただし、相手は会話だけで退く存在ではない』

 

 緑谷は静かに息を吐き、もう一度拳を握り直す。

 その背後で、ディアーチェがユーリの前へさらに一歩寄る。

 シュテルは魔力を再収束させ、レヴィもまた疲労を押して構え直す。

 先ほどまでの戦闘で三人は消耗している。

 それでも、ユーリを渡すという選択肢だけは、誰の中にもない。

 

「なるほど」

 

 男は満足げに呟く。

 

「君達は、まだ救えると思っているのですね」

 

「当然だ」

 

 ディアーチェの声が広場へ響く。

 王としての尊大さを保ちながらも、その声の奥には揺るがない感情がある。

 

「ユーリは渡さん」

 

「敵性反応は継続中です。交渉で済む相手ではないと判断します」

 

 シュテルは冷静に告げるが、視線は鋭い。

 

「なら、もう一回やるだけだ!」

 

 レヴィが叫ぶ。

 疲労は残っている。

 それでも、彼女は一歩も退こうとしない。

 

 緑谷はその三人の気配を背中で感じながら、正面の男へ改めて問いかける。

 

「あなたの目的が何であっても、僕達はこの人を守ります」

 

 その言葉は、理想論ではない。

 今まさに、最悪の未来を拳一つで押し戻した者が言うからこそ、重さを持つ。

 

「だから、もう一度聞きます」

 

 緑谷の瞳が男を射抜く。

 

「あなたは、何者ですか」

 

 男は、そこで初めて名乗るように微笑を深める。

 その笑みには、自分の名が相手へ何をもたらすかを理解している者の、冷たい余裕が宿っている。

 

「私は、フィル・マクスウェル」

 

 名が告げられた瞬間、ゼインドライバーから鋭い警告音が走る。

 ナイトアイの声が、これまで以上に冷たく緊迫する。

 

『緑谷少年、その名は危険だ』

 

 フィルは、まるでその警告すら興味深い反応の一つとして受け止めるように、穏やかに続ける。

 

「この子の価値を、君達より正しく理解している者です」

 

 広場の空気が、さらに冷える。

 ユーリの肩が小さく震え、ディアーチェの目つきが変わる。

 シュテルは魔力反応の増大を確認し、レヴィは今にも飛び出しそうな気配を押し殺している。

 

 緑谷は一歩も退かない。

 未来はまだ変わりきっていない。

 最悪の結末は、ただ一度拳で逸らされただけで、今も目の前の男の背後に口を開けている。

 それでも、ここへ間に合ったという事実だけは、もう消えない。

 

 緑谷出久はユーリの前に立ち、静かに拳を握る。

 彼の背後には、傷つきながらも守る意志を失わない三人がいる。

 そして彼の内側には、最悪の未来を告げながらも、その未来を変えるための道を示すサー・ナイトアイの声がある。

 

 フィル・マクスウェルは微笑んでいる。

 次に何が起こるかを、まるで実験の続きを待つように見つめている。

 

 だが緑谷は、もう迷わない。

 この場で誰かが奪われる未来を、彼は受け入れない。

 最悪の未来を変えるための一歩は、確かに今、この広場で踏み出されている。

 

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