空へ落ちていく、という感覚がある。
地上から見上げる空は果てしなく高いくせに、いざその中へ叩き込まれてみると、俺はまるで深い海の底へ沈んでいく石みたいだった。パワーダイザーの射出で得た勢いを、マシンマッシグラーがさらに噛み砕くように加速へ変える。白い雲の層を突き破り、空の青が濃くなり、やがて黒へ変わっていく。
その変化は、思ったより静かだった。
地上では、まだ戦いが続いている。なのは達がミラージュ・アギトを抑え、フェイトが空を裂き、はやてが皆を繋いでいる。デルタ、ゼータ、イータも、それぞれのやり方であの場を支えているはずだ。
けれど、ここまで来ると音は遠い。
俺の耳に届くのは、フォーゼの装甲越しに響く機械の駆動音と、通信に混じる微かなノイズだけだった。地上で交わされた声も、熱も、焦げた空気の匂いも、すべて置き去りにしてきたみたいに感じる。
少し前の俺なら、たぶんその静けさを気楽だと思った。
一人で先へ行く。邪魔なものは蹴散らす。世界がいくつあろうと、俺は俺のやり方で通り抜ける。
それで十分だった。
だが、今は違う。
『ツカサ先生、聞こえますか?』
通信の向こうから、なのはの声がした。ノイズに削られて少し滲んでいるのに、その声だけはやけに真っ直ぐ届く。
「聞こえてる。心配性だな、お前は」
『心配くらいします。今、先生は一人で宇宙にいるんですよ』
「宇宙だろうが隣町だろうが、大して変わらん」
『変わります』
即答だった。
その短い言葉に、思わず口元が緩む。
変わる、か。
確かに、少し変わったのかもしれない。俺が一人で勝手に進むことを、当たり前みたいに見送らない奴らがいる。無茶をするなと怒り、帰ってこいと願い、そのくせ俺が行くと決めた時には、背中を押すだけの覚悟を見せる。
面倒な関係だ。
だが、悪くない。
『そろそろ衛星軌道や。ツカサ先生、正面に反応がある』
はやての声が割り込む。普段より少し硬い。指揮官として冷静でいようとしているが、その奥にある不安までは隠し切れていない。
「衛星砲か」
『せやと思う。けど、それだけやない』
通信の向こうで、イータが小さく息を飲んだ。
『……いる。衛星の前に、何かいる』
マシンマッシグラーが最後の推進を終え、俺の視界が一気に開けた。
眼下には地球があった。
青く、丸く、静かで、残酷なくらい綺麗だった。あの下で誰かが傷つき、誰かが泣き、誰かが歯を食いしばって戦っていることなんて、まるで知らない顔をしている。
そして、その青を見下ろす位置に、巨大な砲身が浮かんでいた。
人工衛星というには武骨すぎる。要塞というには無駄がない。地上を撃つためだけに組み上げられた、冷たい悪意の塊だった。
「……随分と高い場所に隠してやがったな」
俺はマシンマッシグラーのハンドルを握り直す。
衛星砲の前方に、人影が浮かんでいた。
水色の長い髪が、重力のない空間で水草のように揺れている。少女の形をしている。だが背中に接続された大型のバックパックと、そこから伸びる複数の砲身が、その輪郭を人間から遠ざけていた。
機械の天使。
いや、違う。
あれは門番だ。
扉の前に立ち、通る者を選ばず、ただ排除するための存在。
『対象、確認』
通信とは違う声が、直接こちらへ割り込んできた。
少女の声だった。けれど、感情の起伏がほとんどない。冬の湖面みたいに冷えていて、何かを映しても波立たない。
『接近個体、識別不能』
「出迎えにしては、随分と物騒な格好だな」
返事はなかった。
代わりに、少女――イリスの瞳の奥が淡く光る。
『衛星砲到達可能性、確認』
「おいおい。少しは会話する気はないのか」
『脅威レベル、最大』
次の瞬間、俺の周囲に赤い照準線が走った。
宇宙は黒い。どこまでも深い闇だ。その中に引かれた赤い線は、まるで血管みたいに見えた。逃げ場を塞ぎ、命の流れを逆算し、俺の未来を射抜こうとしている。
「チッ……!」
マシンマッシグラーを傾ける。
光が来た。
音はない。爆風もない。ただ、白い閃光が通り過ぎた瞬間、背後に漂っていた小さな残骸群がまとめて消し飛んだ。音がないからこそ、その破壊は余計に不気味だった。
『今の、直撃したら終わり……』
イータの声が震える。
『収束率が高すぎる。地上に撃った時より、ずっと鋭い』
『ツカサ先生!』
なのはの声が飛んでくる。
「騒ぐな。まだ当たっちゃいない」
『でも、当たりそうでした!』
「そういう時は、当たらなかったことを褒めろ」
『帰ってきたら怒ります』
「帰ってからにしてくれるなら助かる」
軽口を叩きながら、俺はマシンマッシグラーから身を躍らせた。
宇宙に投げ出される。
普通なら、それは死と同義だ。だが、今の俺はフォーゼの姿をしている。宇宙は敵ではない。むしろ、この姿にとってはホームグラウンドに近い。
「なら、こっちも宇宙向きで行くか」
ロケットの推進が背中を押す。
俺の身体が黒い海を裂いて加速した。イリスの正面から外れ、衛星砲へ斜めに接近する。狙うのは本体だ。門番に付き合っている時間はない。
『対象、進路変更』
イリスの背部バックパックが花のように展開する。
綺麗だと思った。
こんな状況で、馬鹿げているが、本当にそう思った。水色の髪と白い装甲、背中で開く砲身の群れ。その姿は、地上に咲く花ではなく、宇宙に置き去りにされた造花のようだった。
美しいが、根がない。
誰かに飾られるためだけに作られた花。
そして、その花は迷わず俺へ砲口を向けた。
『迎撃精度、補正開始』
「なるほど。勉強熱心な門番ってわけか」
光線が連続で走る。
俺は身体を捻り、ロケットの噴射で軌道を変え、ドリルの回転で姿勢を立て直す。フォーゼの機動は荒っぽいが、こういう場所ではむしろ都合がいい。重力に縛られないなら、多少無茶な角度でも突っ込める。
「邪魔だ!」
ドリルを前に出し、イリスへ突撃する。
だが、当たる寸前でイリスの姿が横へ流れた。
背中のスラスターが青白い光を吐き、彼女の身体を滑らせる。俺のドリルは空を削り、イリスはそのまま俺の死角へ回り込んだ。
『接近戦能力、確認』
「機械みたいな声で、人の嫌がることばかり上手いな」
『対象の行動予測、更新』
副砲が展開する。
細い光が何本も走った。真正面から撃つのではなく、逃げ道を先に塞ぐ射撃。俺が動こうとした先へ、光が置かれていく。
避けているはずなのに、追い詰められていく。
黒い宇宙が急に狭く感じた。
地上から見れば無限に広いはずの空間が、赤い照準線と白い砲撃で区切られ、檻に変わっていく。空が檻になるなんて、随分と皮肉な話だ。
『ツカサ、聞こえる!?』
フェイトの声が入る。
「聞こえてる」
『そっちは一人じゃない。私達も、見てる』
一瞬、返事に詰まった。
見ている。
その言葉が、妙に胸に残った。
これまで俺は、誰かに見られることを好まなかった。期待されるのも、心配されるのも、面倒だった。世界を渡る旅は、誰かの視線から逃げる旅でもあったのかもしれない。
だが今は、その視線が背中を支えている。
重力のない宇宙で、俺を地上へ繋ぎ止める糸になっている。
「……分かってる」
短く答える。
『今、少し素直でした?』
「気のせいだ、なのは」
『録音しておけばよかったです』
「するな」
はやてが小さく笑った気配がした。ほんの一瞬だけ、通信の向こうの空気が軽くなる。
その瞬間を、イリスは見逃さなかった。
『対象、通信反応中。隙を確認』
「可愛げのない奴だな」
巨大な砲身が開く。
さっきよりも大きな光が収束していく。衛星砲本体ほどではないが、フォーゼの装甲で受け止めるには大きすぎる。
『排除優先度、最上位』
白い光が放たれた。
俺はロケットを全開にして回避する。だが、遅い。光の端が肩をかすめ、装甲に火花が散った。衝撃が腕から胸へ抜ける。痛みはない。それでも、焼けた感覚だけが神経に残った。
『ツカサ先生!』
「大丈夫だ。肩を撫でられただけだ」
『撫でる火力じゃありません!』
なのはの声が本気で怒っている。
その怒りに、少しだけ救われた。
怒ってくれる相手がいるというのは、面倒だ。けれど、悪くない。悪くないどころか、今の俺にはそれが必要だった。
俺はライドブッカーを構える。
イリスは強い。ただの護衛ではない。こちらの動きを読み、学習し、衛星砲への進路を徹底的に潰してくる。フォーゼの機動力だけでは、突破できても時間がかかる。
その時間が、地上にはない。
なのは達は耐えている。俺が衛星砲を止めると信じて、地上を守っている。
なら、俺も応えなければならない。
信頼というのは、借りを作ることに似ている。
重い。厄介だ。時には動きを鈍らせる。
だが、その重さがあるから、人は踏み止まれる。
「本当は、こういう使い方は派手すぎて好きじゃないんだがな」
ライドブッカーから一枚のカードを抜く。
通常のライダーのカードではない。
武器でも、フォームでもない。
別の世界の、別の戦いから拾い上げた、とっておき。
イリスの瞳が光る。
『高エネルギー反応、検知』
「相手が衛星砲なら、こっちも図体を合わせる」
『対象戦力、再評価準備』
「遅い」
俺はカードを掲げた。
「ある意味、とっておきだ」
ディケイドライバーにカードを装填する。
『ATTACK RIDE』
音声が宇宙に響く。
いや、実際に音が響いたわけではない。ここは真空だ。だが、その声は確かに俺達の戦場を震わせた。黒い宇宙に、巨大なカードの幻影が開く。
それは扉だった。
世界と世界を繋ぐ、俺にとっては見慣れた、けれど誰かにとっては非常識そのものの扉。
『え……?』
イータが呆然と呟く。
『なんや、今度は何を呼んだんや……!?』
『ロボット……?』
なのはの声が、驚きに染まる。
カードの向こうから巨大な影が現れた。
重厚な装甲。ロケットの推進器。唸りを上げるドリル。衛星砲と真正面から殴り合うための質量と力を備えた、巨大な戦士。
ロケットドリルゴーバスターオー。
その巨体が、衛星砲とイリスの前に立ちはだかった。
イリスが初めて、ほんのわずかに沈黙した。
感情ではないのかもしれない。ただの処理遅延かもしれない。けれど、その一瞬だけ、機械の花が風に揺れたように見えた。
『巨大質量反応、確認』
「確認が遅いって言っただろ」
俺はロケットドリルゴーバスターオーへ向かって飛ぶ。
コックピットが開いた。
その中へ滑り込む瞬間、地球が視界の端に映った。青く、遠く、綺麗で、泣きたくなるほど脆い星。
あそこに、俺を待っている声がある。
帰ってきたら怒ると言った少女がいる。
無茶をするなと釘を刺す指揮官がいる。
見ていると言ってくれた仲間がいる。
なら、帰らない理由はない。
操縦席に座り、モニターを起動する。
正面にはイリス。
その背後には衛星砲。
ロケットドリルゴーバスターオーのドリルが回転を始める。低い振動が操縦席まで伝わってきた。胸の奥で鳴る鼓動と、機械の唸りが重なる。
『脅威レベル、再設定』
イリスの砲身がこちらを向く。
「そうしろ」
俺は操縦桿を握る。
「衛星砲相手の喧嘩なら、これくらいがちょうどいい」
『ツカサ先生』
なのはの声がした。
さっきより落ち着いている。けれど、その奥にはまだ祈るような震えがあった。
「何だ」
『帰ってきてください』
命令でも、お願いでもない。
それは約束の確認だった。
俺は少しだけ笑った。
「ああ」
ロケット推進器に火が灯る。
イリスの瞳が光る。
衛星砲の冷たい巨体が、地球を背に沈黙している。
「来いよ、門番」
俺は真正面を見据えた。
「こっから先は、俺が通る」
黒い宇宙に、ドリルの唸りが咲いた。