宇宙には音がない。
そのはずなのに、操縦席の中ではやけに騒がしかった。警告表示が赤く点滅し、計器の針が振れ、ロケットドリルゴーバスターオーの巨体が唸るたびに、操縦桿を握る掌へ低い振動が伝わってくる。
目の前には、衛星砲。
地球を見下ろすように浮かぶそれは、兵器というより、空に打ち込まれた巨大な釘だった。あの下にいる連中を一まとめに縫い止めるためだけに作られた、悪趣味な釘だ。
その前に、イリスがいた。
水色の髪が、無重力の中でゆっくり広がっている。背中の大型バックパックが開き、砲身が花弁のように展開していた。綺麗と言えば綺麗だ。けれど、その花は蜜を持たない。香りもしない。ただ、近づいたものを撃ち落とすためだけに咲いている。
『巨大質量兵器、確認。対象脅威レベル、再設定』
「遅いな。こっちはもう始める気だ」
俺が操縦桿を押し込むと、ロケットドリルゴーバスターオーの推進器に火が入った。
無音のはずの宇宙で、胸の奥だけがやかましく鳴る。機械の駆動音と、自分の呼吸が重なっていた。ヘルメットの内側に吐息が跳ね返り、視界の端で赤い警告灯が何度も瞬く。
『衛星砲への接近、禁止』
「悪いが、禁止されて止まるほど行儀よく育ってない」
『排除行動、開始』
「来いよ、門番」
イリスの全砲門がこちらを向いた。
次の瞬間、白い光が幾筋も走る。音はない。爆風もない。だが、モニター越しに見える光の線は、避け損ねた未来だけを容赦なく焼き払っていった。
俺は機体を横へ倒す。
巨体が軋む。ロケット推進で無理やり軌道を曲げ、右腕のドリルを前へ突き出した。光線の一つをドリルの先端で削る。白い奔流が左右へ裂け、機体の装甲をかすめた。
警告音が一段高くなる。
「うるさい。まだ壊れてないだろ」
自分に言ったのか、機体に言ったのか、少し分からなかった。
俺は正面へ突っ込む。
衛星砲を砕くには、あの砲身へドリルを叩き込めばいい。単純で分かりやすい。そういうのは嫌いじゃない。
だが、イリスは単純ではなかった。
『防衛行動、継続』
彼女は撃ち合わない。勝とうとしない。俺が衛星砲へ向かうたび、必ずその間へ滑り込んでくる。砲撃で押し返し、推進器で横へ逃れ、俺のドリルの進路だけを的確に潰す。
俺を倒すための動きじゃない。
衛星砲を守るための動きだ。
「それしか言えないのか?」
『衛星砲保護が最優先』
壊れたレコードみたいに、同じ言葉が返ってくる。
舌打ちしかけた口が止まった。
モニターの中で、イリスの片側の砲身が火花を散らしていた。さっきの接触で一部が歪んだらしい。それでも、彼女は衛星砲の前から退かない。損傷した砲口を無理やりこちらへ向け直し、次弾を装填している。
誰かに命令されたのか。
そう作られたのか。
どちらでも同じだ。あの姿は、自分の足で立っているようで、実際には衛星砲に縫い付けられている。
『ツカサ先生、聞こえますか!』
通信に、なのはの声が割り込んだ。
ノイズに削られているのに、その声だけはやけに真っ直ぐ刺さる。
「聞こえてる。耳元で叫ぶな」
『叫びます! 今、すごく危なかったです!』
「危なかっただけだ。問題ない」
『それ、問題ある人の言い方です!』
思わず口の端が上がる。
この状況で説教してくる余裕があるなら、地上はまだ持っている。そう思いたかった。
だが、はやての声がそれを否定する。
『ツカサ先生、長引かせたらあかん。衛星砲、また充填し始めとる』
モニターの端に、衛星砲の内部反応が表示された。
砲口の奥に光が溜まっている。白く、冷たく、地上を見下ろす光だ。
『照準、地上……こっちに向いてる』
イータの声が小さく震えた。
別モニターに、地上から送られてくる映像が映る。揺れる画面の中で、なのは達がミラージュ・アギトを抑えていた。バリアの光が削れ、フェイトの金色の軌跡が敵の腕を引き裂き、はやての魔法陣が崩れかけた足場を支えている。
デルタが前へ出る。ゼータがその隙を埋める。イータは通信機を握りしめたまま、空を見上げていた。
なのはが一瞬、こちらを見るように顔を上げる。
画面越しなのに、その視線が俺の胸元を掴んだ。
『先生』
「何だ」
『帰ってきてください』
短い言葉だった。
頼むでも、命令でもない。ただ、当たり前の約束を確認する声だった。
俺は操縦桿を握り直す。掌の中で金属が軋む。
「ああ」
返事は、それだけで十分だった。
イリスが再び前へ出る。
『対象、正面突破を選択』
「そう見えるか?」
『防衛行動、実行』
「なら、その癖ごと抜かせてもらう」
ロケットドリルゴーバスターオーを真正面へ加速させる。
イリスは予想通り、衛星砲の前へ滑り込んだ。背部バックパックが開き、残った砲身が俺の機体を狙う。白い照準線がモニターを埋め尽くした。
まっすぐ行けば、イリスごと砕く。
それが一番早い。
けれど、操縦桿を押す俺の指は、わずかに横へ動いていた。
直前で片側の推進器だけを噴かす。巨体が斜めに滑り、ドリルの軌道がイリスの胴体から逸れた。
『軌道変更――』
「遅い」
ドリルが、イリスの背中を抉った。
装甲が砕ける。砲身が折れる。推進器が火花を散らし、背部バックパックが花弁のように散っていく。イリスの身体が衝撃で衛星砲の前から流された。
モニターの中で、彼女の瞳が一瞬だけ揺れた。
驚いたのか。
処理が遅れただけか。
その答えを確かめる時間はなかった。
『衛星砲、発射態勢』
イリスの声が、途切れ途切れに響く。
衛星砲の砲口に集まった光が、もう限界まで膨れ上がっていた。白い光が地球へ向けて伸びようとしている。
地上の映像が乱れる。
『ツカサ先生!』
なのはの声がノイズに沈む。
「分かってる」
俺はロケットドリルゴーバスターオーを衛星砲へ向ける。
逃げ道はない。回り込む時間もない。砲撃を避ければ地上が焼かれる。止めるなら、正面から行くしかない。
嫌いじゃない、と俺は思った。
こういう馬鹿みたいに分かりやすい状況は、嫌いじゃない。
「こっちは今から、少し派手に行く」
『ツカサ!』
フェイトの声が飛んでくる。
「耳元で叫ぶなって言っただろ」
全推進器を点火。
操縦席が赤い警告で染まる。計器が悲鳴を上げる。機体のあちこちが限界を訴えている。けれど、操縦桿はまだ動く。ドリルはまだ回る。なら、十分だ。
衛星砲が撃った。
白い光が、宇宙を裂いて地球へ向かう。
俺はその中心へ突っ込んだ。
視界が白に塗り潰される。装甲が焼ける。警告音が重なりすぎて、逆に一つの長い悲鳴みたいに聞こえた。ドリルが砲撃の光を噛み砕き、左右へ散らしていく。
腕が重い。
肩が軋む。
操縦席の床から伝わる振動が、骨の奥まで響く。
それでも、手は離さなかった。
地上の青が、白い光の向こうに見えた気がした。そこにいる連中の顔が、通信越しの声が、なのはの「帰ってきてください」が、一本の糸みたいに俺を前へ引っ張る。
「これで――」
ドリルが砲身に届く。
「終わりだ」
ロケットドリルゴーバスターオーの右腕が、衛星砲の砲口を貫いた。
内部で光が暴れる。巨大な砲身に亀裂が走り、衛星砲の全体が歪んだ。白い光は地球へ届く前に裂け、宇宙の闇へ霧散していく。
次の瞬間、衛星砲が内側から砕けた。
爆発の光が、黒い宇宙に大きく咲く。
音はない。
けれど、その無音の花は、地上からでも見えるほど派手に散った。
俺は機体を反転させ、爆発圏から離脱する。背後で衛星砲の残骸がゆっくりと崩れ、地球の外側へ流れていく。
『衛星砲の反応、消失……!』
はやての声が聞こえた。
『光が……消えた』
イータが呟く。
地上の映像が戻る。
なのはが空を見上げていた。手にしたレイジングハートを握る指が白くなっている。フェイトがその隣に立ち、何も言わず肩を並べていた。
『先生……?』
「聞こえてる」
返した瞬間、なのはの肩が小さく落ちた。
息を吐いたのだと分かった。
『……よかった』
「泣くのはまだ早い。そっちはまだ終わってないだろ」
画面の中で、ミラージュ・アギトが咆哮するように体を震わせた。
衛星砲の脅威が消えたことで、地上の空気が変わる。押し潰されそうだった光が、少しだけ前へ出る。
『全員、ここで決める!』
はやての声が飛んだ。
『なのは!』
『うん!』
フェイトが金色の雷のように駆ける。ミラージュ・アギトの腕を弾き、デルタとゼータが左右から隙をこじ開ける。
『胸部装甲、割れてる……今なら通る』
イータの声。
なのはが一歩前へ出た。小さな体で、大きな砲撃を構える。画面越しに、その背筋がまっすぐ伸びるのが見えた。
『レイジングハート!』
『All right.』
『これで、終わりにする!』
桃色の光が放たれる。
ミラージュ・アギトの胸を貫き、ひび割れた装甲の奥で光が爆ぜた。黒い影が崩れ、地上の戦場に散っていく。
誰かが勝ったというより、全員が最後まで倒れなかった。
そんな終わり方だった。
悪くない。
俺はモニターを切り替える。
衛星砲の残骸の中に、イリスが漂っていた。
背部武装はほとんど失われ、砲身は折れ、推進器も死んでいる。水色の髪だけが、壊れた装甲の間でゆっくり揺れていた。
『衛星砲反応……消失』
「見れば分かる」
『防衛任務、失敗』
「そうだな」
イリスは壊れた腕を動かそうとした。だが、指先が少し震えただけで止まる。瞳の光が一度弱まり、また灯った。
『私は……失敗したのですか』
「さあな」
『回答を要求します』
「だったら、壊れずに自分で考えろ」
ロケットドリルゴーバスターオーの左手を伸ばす。
イリスは抵抗しなかった。できなかったのかもしれない。巨大な手の中に収まった彼女は、壊れた人形みたいに小さかった。
助けたわけじゃない。
そう言い訳するには、少しばかり手際が良すぎた。
爆発の残光が、モニターの端でまだ揺れている。衛星砲の残骸は流星みたいに地球の外側を流れ、やがて光の粒になって消えていった。
『ツカサ先生、聞こえますか?』
「聞こえてる」
『そっちは……終わりましたか?』
なのはの声には、まだ少し震えが残っていた。けれど、さっきよりも細くない。折れずに残った糸みたいな声だった。
俺は操縦席の背もたれに軽く体を預ける。
張り詰めていた指を開くと、掌に操縦桿の跡が残っていた。
「ああ」
短く息を吐く。
「終わった」
通信の向こうで、誰かが笑った。はやてかもしれないし、フェイトかもしれない。デルタの呆れ声も混じっていた。
『ほんま、心臓に悪い人やな』
「褒め言葉として受け取っておく」
『褒めてないと思う』
フェイトが即座に突っ込む。
『で、帰ってくるの? それとも宇宙旅行続行?』
デルタの声に、ゼータが小さくため息をついた。
『この状況で旅行って言えるの、逆にすごいね』
『褒めていいですよ』
『褒めてない』
通信の向こうが、少しだけ賑やかになる。
その音を聞いて、俺はモニター越しに地球を見た。
青い星は、相変わらず静かだった。戦いも、傷も、叫びも、全部飲み込んだ顔でそこに浮かんでいる。
だが、今はその静けさが少し違って見えた。
帰る場所がある星の色をしていた。
『先生』
「今度は何だ」
『帰ってきたら、怒ります』
なのはの声は真面目だった。
俺は思わず笑う。
「それは勘弁してほしいな」
『駄目です』
「厳しいな」
『先生が無茶をするからです』
「無茶をしない俺に価値があるか?」
『あります』
即答だった。
通信越しに、言葉がまっすぐ届く。
俺はしばらく黙った。
操縦席の赤い警告灯が一つ消え、また一つ消える。さっきまでうるさかった音が、少しずつ遠のいていく。
「……そうか」
『はい』
「なら、帰るか」
ロケットドリルゴーバスターオーの手の中で、イリスの瞳がこちらを見上げている。
衛星砲の残骸はもうほとんど見えない。
代わりに、地球が大きくなっていく。
黒い宇宙に背を向け、俺は青い星へ機体を向けた。
帰ったら、たぶん怒られる。
説教もされる。
面倒なことになる。
だが、その面倒を少しだけ悪くないと思っている自分に気づいて、俺は誰にも聞こえないくらい小さく息を吐いた。
「まったく」
ロケットの炎が、静かな宇宙に尾を引いた。
「本当に、面倒な連中だ」