地球は、遠くから見ると静かすぎる。
さっきまで衛星砲が睨みつけていた星だ。ミラージュ・アギトが暴れ、なのは達が地上で踏みとどまっていた場所だ。けれど宇宙から見下ろすと、青と白の渦は何食わぬ顔で回っている。
その静けさが、妙に癪に障った。
ロケットドリルゴーバスターオーの操縦席では、まだ警告音が鳴っていた。赤い表示がいくつも残り、損傷箇所を知らせるランプが忙しなく瞬いている。機体の左手には、壊れかけたイリスを抱えていた。背中の砲身は折れ、推進器は沈黙し、水色の髪だけが、巨大な指の隙間で弱く揺れている。
「……拾い物にしては、手間がかかるな」
そう呟いてから、自分で少しだけ鼻で笑った。
拾った。
そういうことにしておけば楽だ。宇宙に置いていくと後味が悪い。敵の情報源になるかもしれない。放っておいたら面倒が増える。理由ならいくらでも並べられる。
だが、ロケットドリルゴーバスターオーの左手は、思っていたよりも丁寧にイリスを包んでいた。
操縦桿を握る指に力が入る。
俺は地球へ向けて降下を始めた。
大気圏へ入ると、機体の外側を赤い光が舐めた。焼けた空気が装甲を擦り、モニターの端が白く滲む。宇宙の黒は背後へ遠ざかり、代わりに青い空が近づいてくる。
少し前まで、あの青の外へ飛び出すことだけを考えていた。
今は、そこへ戻っている。
戻れば説教が待っている。なのはは本気で怒るだろう。フェイトも静かな顔で逃げ道を塞ぐ。はやては笑いながら退路を潰す。デルタは茶化し、ゼータは呆れ、イータは視線だけでこちらの損傷を数える。
面倒な連中だ。
だが、その面倒のある場所へ、俺は機体を向けていた。
『ツカサ先生、聞こえますか?』
通信が入る。
なのはの声だった。戦闘中より少しだけ落ち着いている。だが、声の端がまだ硬い。
「聞こえてる。降りる場所を空けておけ」
『もう空けてあります』
「手際がいいな」
『先生が落ちてきても大丈夫なようにです』
「俺は落ちるんじゃなくて、帰還するんだ」
『着地に失敗したら同じです』
通信の向こうで、誰かが小さく吹き出した。
『ツカサ先生。左手のそれ、どうするつもりなん?』
はやての声が割り込む。
「見て分からないか。土産だ」
『衛星軌道から持って帰る土産としては、だいぶ物騒やな』
『というか、まだ動くの?』
デルタの声が入る。
「今は動いてない」
『今は、ね』
ゼータの声音は軽いが、たぶん目は笑っていない。
『ツカサ、その子……反応は弱いけど、完全停止じゃない』
イータの声が細く入った。いつもより早口だ。通信越しに、何かを解析する電子音が重なる。
「分かってる。だから持って帰ってる」
『……うん』
短い返事の後、イータは黙った。
その沈黙の向こうで、はやてが息を整える気配がした。
『着地後、すぐ隔離結界を張る。ツカサ先生はそのまま指定地点へ』
「随分と歓迎ムードだな」
『歓迎はします。でも、その前に説教です』
なのはが即答した。
俺は操縦席で肩をすくめる。
「覚えてたのか」
『忘れると思いましたか?』
「少し期待した」
『無理です』
青空がモニターいっぱいに広がった。
地上が近づく。戦闘区域には、まだ煙が細く立っていた。砕けた道路、焦げた瓦礫、魔法陣の残光。ミラージュ・アギトの姿はもうない。代わりに、なのは達がこちらを見上げていた。
俺は出力を落とし、ロケットドリルゴーバスターオーをゆっくり着地させる。
――つもりだった。
地面に足が触れた瞬間、右脚の関節部が悲鳴を上げた。機体がわずかに傾く。
「おっと」
操縦桿を引き、左腕でバランスを取る。イリスを握る手に力が入りすぎないよう制御するのに、余計な神経を使った。機体が片膝をつく形で止まり、地面に細かい砂埃が広がる。
沈黙。
モニター越しに、なのは達の顔が見える。
『先生』
「着地した」
『今のは着地じゃなくて、ほぼ墜落です』
「地面に穴が空いてないなら誤差だ」
『誤差じゃありません』
通信越しでも分かるくらい、なのはの声が低くなった。
俺は苦笑しながらコックピットを開ける。
外の空気が流れ込んできた。焼けた金属と土埃の匂い。宇宙にはなかった匂いだ。嫌な匂いのはずなのに、足元が地面に繋がった気がした。
俺はコックピットから降りる。
その瞬間、膝がわずかに沈んだ。
しまった、と思うより早く、フェイトが一歩こちらへ踏み出した。なのはも同時に動く。だが二人とも、俺が姿勢を戻すとそこで止まった。
「歩ける。喋れる。十分だろ」
「十分じゃありません」
なのはは俺の前まで来て、そこで足を止めた。
レイジングハートを握る指が白い。胸倉でも掴むかと思ったが、その手は途中で止まり、代わりに柄を握り直した。小さな金属音が、やけに大きく聞こえた。
「帰ってきたら怒るって、言いました」
「ああ。聞いてた」
「だったら、怒られますよね?」
「帰ってきただろ」
「そういう問題じゃありません」
「じゃあ、どういう問題だ」
なのはの口が開く。
だが、言葉はすぐに出てこなかった。
かわりに、彼女の視線が俺の肩口へ落ちる。フォーゼの装甲は解除されているが、スーツの一部に焦げ跡が残っていた。衛星砲の光をかすめた場所だ。たいした傷じゃない。
なのははそこを見たまま、唇を結んだ。
風が吹いた。
瓦礫の隙間に残っていた灰が、足元を薄く流れていく。戦いが終わった場所の風は、いつもどこか乾いている。勝った後でも、すぐには綺麗にならない。
「ツカサ先生」
フェイトが静かに言った。
「今のは、先生が悪いです」
「随分はっきり言うな」
「はっきり言わないと、先生は聞かないから」
フェイトは俺の右側に立った。出口を塞ぐような位置取りだ。俺が一歩横へずれれば、彼女も同じだけ動くだろう。
はやては反対側で腕を組んでいる。
「せやな。ツカサ先生、耳はええのに都合の悪い話は聞こえへんみたいやし」
「お前ら、戦闘後なのに元気だな」
「元気じゃないです」
なのはが小さく息を吸った。
そして、今度は俺の目を見た。
「でも、先生が帰ってきたから、今は立っていられます」
軽口が、喉の手前で止まった。
こういう時、何か気の利いた返しをするべきなのだろう。あるいは、いつものように話を逸らして、面倒な空気ごと置き去りにするべきか。
けれど、なのはの目は逸れなかった。
責めるためだけの目ではない。泣く寸前でもない。怒鳴る準備をしているわけでもない。ただ、俺がここにいることを確かめるみたいに、真っ直ぐだった。
俺は半端に上げかけた肩を下ろした。
「……そうか」
それだけ言うと、なのははようやく少しだけ息を吐いた。
フェイトの足元に落ちていた小石が、風に転がる。はやてが帽子を押さえ、わざとらしく咳払いした。
「はい。説教第一部はここまで。第二部は治療後な」
「まだあるのか」
「当たり前やろ。今ここで全部やったら、ツカサ先生が途中で逃げる」
「信用がないな」
「積み重ねや」
デルタが横から覗き込む。
「で、ツカサ。そっちの眠り姫は?」
「姫にしては砲身が多いな」
「じゃあ眠れる砲台?」
「最悪な呼び方ね」
ゼータが呆れた顔をする。
ロケットドリルゴーバスターオーの左手がゆっくり開く。イリスの身体を、はやてが張った結界の中央へ移す。彼女は動かない。折れた背部ユニットから細い煙が上がり、焦げた髪先が頬に貼りついていた。
なのはが一歩近づきかけて、止まる。
敵だった相手だ。
地上を撃とうとした衛星砲の門番だ。
だが今は、砕けた装甲の下で、指先すらまともに動かない少女の形をしている。
フェイトは警戒を解かず、けれどデバイスを構えることもしなかった。はやてが魔法陣を展開し、イータがその横に膝をつく。
「反応、ある……でも、すごく弱い」
「武装系は?」
「ほとんど沈黙。推進器も、砲撃ユニットも、壊れてる」
イータの声は小さい。けれど、手は止まらない。光の文字が彼女の周囲に浮かび、イリスの身体から伸びる信号の痕跡をなぞっていく。
「起きたら、また攻撃してくる可能性は?」
フェイトが尋ねる。
「その時は止める」
俺が言うと、なのはがこちらを見た。
「でも……今は」
「今は撃ってこない。なら、今は敵じゃない」
「乱暴やけど、分かりやすい理屈やな」
はやてが苦笑する。
「壊した本人が言うと、説得力あるんだかないんだか」
デルタが肩をすくめる。
ゼータはイリスの折れたバックパックを見て、目を細めた。
「少なくとも、殺すつもりなら宇宙で置いてきてる」
その言葉に、場が少しだけ静かになった。
俺は何も言わない。
言えば、余計なものが混ざる気がした。
はやての魔法陣が淡く光る。イータの指先が、イリスの背中に残った接続痕の周りをなぞった。
「この子、衛星砲とずっと繋がってたみたい」
「繋がってた、っていうより……縛られてた、に近いな」
はやての声が、少し低くなる。
魔法陣の中に、細い鎖のような光の線が浮かび上がった。イリスの背中から伸び、もう存在しない衛星砲の方向へ向かって途切れている。
なのはがその線を見つめる。
「縛られてた……」
「だから、衛星砲を守ることしか言わなかったんでしょうか」
フェイトの問いに、イータが頷く。
「たぶん。命令の優先順位が、ずっと固定されてる。衛星砲保護。侵入者排除。衛星砲保護。侵入者排除……そればっかり」
「壊れたレコードみたいだったな」
「先生」
なのはが俺を見る。
「責めてるわけじゃない」
「……珍しく、言い方選んだな」
はやてが目を細める。
「気のせいだ」
俺はイリスへ視線を戻した。
壊れた砲身。焦げた装甲。動かない指。命令の残骸みたいな光の線。
あの時、俺が真正面から貫いていれば、それで終わっていた。早かったし、楽だった。誰にも文句は言われなかったかもしれない。
だが、ドリルの軌道は少しだけ逸れた。
その結果が、今ここに寝ている。
軽口を挟むには短すぎて、目を逸らすには長すぎる沈黙が落ちた。
先にそれを破ったのは、イータだった。
「待って……これ、変」
「どうしたん?」
「衛星砲が壊れる直前、この子の中から信号が出てる」
はやての表情が変わる。
「救難信号?」
フェイトが問いかける。
「分からない。でも、外へ送られてる」
「どこに?」
なのはの声が細くなる。
はやてが魔法陣を操作する。浮かび上がった光の線が、途中でぷつりと途切れた。
「追跡……あかん。途中で消えとる」
「つまり、誰かにバレたってこと?」
デルタが腕を組む。
「少なくとも、何かが送られたのは確かみたい」
ゼータの言葉に、部屋の空気がまた一段冷える。
外では、戦闘の煙がまだ細く昇っていた。窓の向こうで、灰色の雲が空を覆っている。雨は降っていないのに、光だけが鈍い。さっきまで宇宙で見た地球の青が、嘘みたいに遠く感じた。
「まだ終わりじゃないってことか」
俺が呟くと、なのはがこちらを見た。
「先生」
「安心しろ。今すぐ宇宙に戻るとは言ってない」
「言ったら全員で止めるところやった」
はやてが即座に返す。
俺は肩をすくめ、何気なく出口へ足を向けた。
「少し風に当たってくる」
「どこの風ですか?」
なのはの声が背中に刺さる。
「近場だ」
フェイトがいつの間にか出口側に立っていた。
「先生の言う近場に、宇宙は入りませんよ」
「今日は休む。これは指揮官命令や」
「俺はお前の部下になった覚えはない」
「ほな、友達命令で」
「便利な命令だな」
なのはが一歩前へ出る。
「駄目です」
「……まだ何も言ってないだろ」
「先生が何か言う前に止めています」
俺は出口へ向けていた爪先を、ゆっくり戻した。
誰も勝ち誇った顔はしない。はやては少しだけ顎を引き、フェイトは黙ってその場に立ち続けている。なのはの握っていた拳が、ほんの少し緩んだ。
「まったく」
俺は壁にもたれた。
「面倒な連中だ」
「それ、さっき宇宙でも言ってませんでした?」
なのはが首を傾げる。
「聞こえてたのか?」
「聞こえてません。でも、先生なら言いそうです」
「随分分かったようなことを言う」
「少しは分かるようになりました」
なのはの口元が、ほんの少しだけ緩む。
俺は返事をしなかった。
その時、解析スペースの警告音が小さく鳴った。
イータが振り返る。
「待って……反応が上がってる」
全員の視線がイリスへ向いた。
フェイトが一歩前に出る。なのはがレイジングハートを握り直す。はやての魔法陣が薄く広がり、デルタとゼータもそれぞれ構えた。
「全員、下がりすぎんように。けど、刺激もせんといて」
はやての声が室内を締める。
イリスの指先が、わずかに動いた。
壊れた人形に、糸が一本だけ戻ったような動きだった。次に、瞼が震える。水色の睫毛の下で、淡い光が灯った。
「イリス……?」
なのはが名前を呼ぶ。
「慌てるな」
俺は一歩前に出た。
「いや、慌てる場面じゃない?」
デルタが言う。
「でも、撃つ武器はもうない」
ゼータが低く返す。
イリスの瞳が開いた。
最初に映したのは天井だった。次に、魔法陣の光。そして最後に、俺の顔で止まる。
彼女の唇がわずかに動いた。
「……衛星砲」
「もうない」
俺が答えると、イリスの瞳の光が小さく揺れた。
「……私は」
その先が続かない。
壊れた砲身を失った少女は、天井ではなく俺の方を見ていた。命令を待つ機械の目ではない。けれど、自分で何かを選ぶ目にもまだなっていない。
外で、何かが流れた。
窓の端を、衛星砲の破片が燃え尽きる光がかすめていく。薄い青が、イリスの瞳に映った。
彼女は、掠れた声で言った。
「何を、守ればいいのですか」
誰も、すぐには答えなかった。
魔法陣の光だけが、静かに揺れていた。