イリスの声は、壊れた機械の軋みに似ていた。
「何を、守ればいいのですか」
誰もすぐには答えなかった。
解析スペースの中央で、淡い魔法陣だけが揺れている。そこに横たわるイリスは、折れた砲身を背負ったまま、こちらを見ていた。水色の髪は焦げて、片側だけ短く千切れている。指先は動かない。瞳の光だけが、消えかけの灯みたいに細く残っていた。
外では、衛星砲の破片が流星になって落ちている。
窓の端を、青白い光が一筋かすめた。さっきまで地球を撃とうとしていた兵器の欠片だ。燃え尽きるその光は、妙に綺麗で、だから余計に気に入らなかった。
守るもの。
衛星砲を失った門番が、空っぽの手で差し出してきた問い。
なのはが一歩前に出た。
「それは……」
そこで言葉が止まる。
レイジングハートを握る手に力が入る。白くなった指先が、少しだけ緩み、また握られる。なのははイリスを見て、次に俺を見た。言いたいことは山ほどある顔だった。けれど、そのどれもが、イリスの空っぽの目の前では形にならないらしい。
フェイトはなのはの隣に立ったまま、口を開かなかった。バルディッシュを下ろしてはいるが、完全には構えを解いていない。警戒と迷いが、足元の位置にそのまま出ていた。
はやては腕を組んだまま、魔法陣を見下ろしている。普段なら軽口の一つも挟むところだが、今は口元だけが少し硬い。
デルタが小さく舌打ちした。
「面倒な質問するわね、この子」
「デルタ」
ゼータが横目でたしなめる。
「何よ。本当のことでしょ。守るものなんて、はいこれですって渡されても困るじゃない」
イータは何も言わなかった。イリスの反応を見ていた端末から目を離さず、けれど指先だけが止まっている。
全員が、答えを探していた。
そういう空気は苦手だ。
正解を探す沈黙は、時々、戦場の爆音より重い。誰かが綺麗な言葉を選ぼうとするほど、空気が濁っていく。
俺は壁から背を離した。
「俺に聞くな」
イリスの瞳がこちらを向く。
「自分で決めろ」
なのはがこちらを見た。フェイトも、はやても、ほんの少しだけ目を動かした。
イリスは瞬きをしなかった。
「自分で……決める」
「ああ」
「判断基準がありません」
「なら探せ」
「命令が、ありません」
「なら待つな」
イリスの唇が動きかけて、止まる。
壊れた砲身を失った背中が、魔法陣の光に薄く浮かんでいた。衛星砲を守るために開いていた翼は、今はただの残骸だ。命令がなければ動けない、という言葉の方が、よほど自然に見える。
だが、自然だからといって、それをそのままにしてやる義理はない。
「分からないなら、しばらく見てろ」
「何を、ですか」
「こいつらを」
俺は顎で周りを示した。
なのはが目を丸くする。フェイトは少しだけ眉を上げた。はやては肩をすくめる。デルタは「は?」と声に出し、ゼータはその横でため息を吐き、イータは端末の陰からこちらを見た。
「先生?」
なのはの声が小さくなる。
「何だ」
「今、私達に丸投げしました?」
「教育的配慮だ」
「絶対違います」
はやてが咳をするみたいに笑った。
「ツカサ先生の教育方針、相変わらず雑やな」
「雑な方が覚えやすい」
「言い切ったわ、この人」
デルタが呆れたように言う。
ゼータはイリスを見てから、俺へ視線を戻した。
「でも、答えを押しつけるよりはマシかもね」
「ゼータがツカサ側についた」
「今のはたまたま」
イータが端末を抱え直しながら、ぽつりと言った。
「見てるだけなら……たぶん、できる。武装はほとんど死んでるし、出力も低い」
「イータ、監視は頼めるか?」
「うん。でもツカサ、勝手に連れ出したら駄目」
「俺がそんなことをするように見えるか」
イータは無言で俺を見た。
返事の代わりに、端末の画面をこちらへ向ける。そこには、ロケットドリルゴーバスターオーの損傷ログと、俺の戦闘後のバイタルらしき数値が並んでいた。
「……用意がいいな」
「ツカサが無茶するのは、データが証明してる」
「機械は嘘をつかないってわけか」
「ツカサはたまに誤魔化す」
デルタが横から笑う。
「イータにまで言われてるじゃない」
「身内に敵が多い」
「家族ってそういうものじゃない?」
デルタの何気ない一言に、なのは達が少しだけ静かになった。
家族。
その単語は、デルタの口から出ると軽い。けれど、軽いからこそ妙にまっすぐ刺さる時がある。
イリスは、デルタを見ていた。
「家族」
掠れた声で、その言葉を繰り返す。
デルタは一瞬だけ目を瞬かせた。
「何よ」
「それは、守る対象ですか」
「……知らないわよ、そんなの」
デルタはそっぽを向いた。だが、その足は一歩も離れない。
ゼータが小さく息を吐いた。
「少なくとも、命令で決めるものじゃない」
「命令では、ない」
イリスの瞳の光が微かに揺れる。
その様子を見ながら、なのはが膝をついた。イリスに近づきすぎない距離で、目線だけを合わせる。
「すぐに分からなくても、いいと思う」
なのはの声は、さっきより柔らかい。けれど、手はまだレイジングハートから離れていない。
「私も、最初から全部分かってたわけじゃないから」
イリスはなのはを見る。
「あなたは、何を守っていますか」
なのはの指が、レイジングハートの柄を撫でた。
答えはすぐ出なかった。
その代わり、彼女は少しだけ振り返る。フェイト、はやて、デルタ達、そして俺。視線が順番に移って、最後にもう一度イリスへ戻る。
「……今は、目の前にいる人を」
そう言ってから、なのはは小さく口を結んだ。
フェイトがその隣にしゃがむ。
「全部を一度に守ろうとすると、手からこぼれるから」
「こぼれる」
「だから、手を伸ばす順番を決めるんだと思う」
フェイトの声は静かだった。
イリスは自分の動かない指を見た。ほんの少し曲げようとして、失敗する。魔法陣の光が、彼女の指先で細く揺れた。
「私の手は、動きません」
「今はな」
俺が言うと、イリスがこちらを見た。
「動くようになった時に考えろ」
「それまで、待機ですか」
「観察だ」
「観察」
「そうだ。お前の得意分野だろ」
イリスは黙る。
その沈黙は、さっきとは少し違っていた。命令待ちの沈黙ではなく、何かを掴もうとしている間のように見えた。
はやてが魔法陣を操作し直す。
「ひとまず、イリスは隔離結界内で安静。武装系は封印、生命維持系と意識反応は維持。監視はイータ中心で、うちらが交代で見る。それでええか?」
「反対」
デルタが手を上げる。
「理由は?」
「私が退屈する」
「却下や」
「早っ」
ゼータがデルタの肩を軽く叩く。
「遊び相手じゃないんだから」
「分かってるわよ。ちょっと言っただけ」
デルタは口を尖らせるが、イリスへ向ける視線はさっきより鋭くない。
その時、イータの端末が短く鳴った。
軽い音だった。
だが、イータの指先が止まったせいで、室内の空気がすぐに変わった。
「……また?」
はやてが低く言う。
イータは端末を覗き込み、画面を拡大する。
「さっきの信号。完全には消えてなかった」
「追えるんか?」
「途中までは。でも、その先が……変」
「変?」
フェイトが問い返す。
「一回、どこかで反射してる。送信先に直行したんじゃなくて、別の中継点を通ってるみたい」
イータが画面を空中に投影する。
細い光の線が伸び、途中で折れ、不自然に途切れていた。その先は黒い空白になっている。地図にも、座標にも、既存の魔力反応にも重ならない場所。
「つまり、向こうはこっちを見た可能性がある」
ゼータの声が落ちる。
「それで、こっちは向こうを見失ってるわけね」
デルタが腕を組む。
「面白くないわ」
「面白がるな」
俺は画面を見た。
信号の残滓は細い。だが、消えていない。衛星砲を壊した直後に送られたものだ。戦闘記録か、救難か、報告か。どれにせよ、こちらに都合のいいものではない。
「まだ終わりじゃないってことか」
口にした瞬間、三つの視線が刺さった。
なのは、フェイト、はやて。
生徒三人が、まるで示し合わせたみたいにこちらを見ている。
「何だ」
「先生」
なのはが言う。
「今、どこか行こうとしましたよね」
「まだ足は動かしてない」
「心が動いてました」
「便利な読心術だな」
フェイトが出口側へ移動した。音もなく、しかしはっきりと退路を塞ぐ位置だ。
「ツカサ先生。今日は休んでください」
「俺はそこまで疲れてない」
はやてが魔法陣を閉じ、こちらへ向き直る。
「ツカサ先生、さっき着地で膝揺れとったやん」
「地面が悪い」
「地面のせいにした」
デルタが笑う。
「ツカサ、往生際悪いわよ」
「お前はどっちの味方だ」
「面白い方」
「最悪だな」
ゼータが淡々と続ける。
「ツカサ、今動いたら追いかける人数が増えるだけだよ」
「それは脅しか」
「事実」
イータが端末を抱えたまま、こちらを見上げる。
「ツカサ。今行っても、信号の先は見つからない。データが足りない」
「データが揃うまで待てと?」
「うん」
即答だった。
俺は出口を見る。
フェイトがいる。
なのはは正面。
はやては魔法陣をいつでも張れる位置。
デルタ、ゼータ、イータは、こちらを止めるというより、俺が何をするか最初から分かっている顔をしていた。
まったく。
面倒な連中だ。
俺は一歩、出口とは逆方向へ歩いた。
近くにあった椅子を引き、乱暴に座る。
「今日は負けておいてやる」
「勝ち負けの話じゃありません」
なのはが即座に返す。
「先生、座るならもっと普通に座ってください」
「座っただけありがたいと思え」
「それは、ちょっと思ってます」
なのははそう言ってから、慌てて口を閉じた。
フェイトが小さく笑う。はやては肩を震わせている。デルタは遠慮なく吹き出した。
「今のはなのはの負けね」
「負けてないよ!」
「ツカサが座ったから勝ちでいいんじゃない?」
ゼータが言う。
「勝ち負けの話じゃないって、なのはが言ったばかり」
イータが淡々と突っ込む。
部屋の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
イリスはそれを見ていた。
命令もないのに動く者達。止められて座る俺。出口を塞ぐ生徒。茶化すデルタ。呆れるゼータ。淡々と正論を刺すイータ。誰も同じ命令で動いていないのに、なぜか一つの場所に集まっている。
イリスの瞳が、ゆっくりとそれらを追っていた。
「自分で、決める……」
掠れた声が落ちる。
誰も聞き逃さなかった。
なのはが振り返る。フェイトが息を止める。はやての指が魔法陣の上で止まる。
イリスは天井ではなく、こちらを見ていた。
「観察を、継続します」
「そうしろ」
俺が答えると、イリスは一度だけ瞬きをした。
それが頷きだったのか、ただの反応だったのかは分からない。
だが、魔法陣の光の中で、彼女の瞳に映っていたのは、もう衛星砲ではなかった。
その数分後。
イータの端末の隅で、途切れたはずの信号が一瞬だけ青く点いた。
誰も声を上げなかった。
ただ、画面の中で小さな文字が浮かび、すぐに消えた。
――受信確認。
その信号がどこで読まれたのか、この時の俺達はまだ知らなかった。