端末の画面に浮かんだ文字は、ほんの一瞬だった。
――受信確認。
それだけだ。
たった四文字。
けれど、その文字が消えた後も、解析スペースの空気はしばらく元に戻らなかった。魔法陣の光が床の上で淡く揺れ、機械の低い駆動音だけが耳に残る。さっきまで誰かが喋っていたはずなのに、室内から声だけが切り取られたみたいだった。
イータの指先が、端末の上で止まっている。
はやては魔法陣を展開したまま、画面の消えた箇所を見つめていた。なのははレイジングハートを握ったまま、半歩だけ前に出ている。フェイトは出口側に立っていた。いつ移動したのか分からないくらい自然に、俺の退路を塞ぐ位置だ。
「……今の、見えた?」
イータがぽつりと言った。
声は小さい。けれど、部屋の全員に届いた。
「受信確認……やな」
はやてが短く答える。
魔法陣の上に、細い光の線が走る。信号の痕跡を追おうとしているのだろう。だが、光は途中でぷつりと切れ、そこから先は何も映らなかった。
なのはが眉を寄せる。
「場所は?」
「追えない。消えるのが速すぎる」
イータの指が何度か画面を叩く。投影された光の線が伸び、折れ、また途切れる。そのたびにイータの唇が少しずつ細くなっていった。
フェイトが出口側から言う。
「つまり、誰かがこちらを見ていた可能性があるんですね」
「見ていた、か。随分趣味が悪いな」
俺は椅子の背もたれから体を起こした。
途切れた信号の向こう。
そこに誰かがいる。衛星砲を失った直後に、イリスの中から送られた記録を受け取った何かが。
場所が分からないなら、探すしかない。
俺は立ち上がりかけた。
「なら、消えた先を――」
「先生」
なのはの声が、俺の足元に釘を打った。
動きが半分で止まる。
「まだ何も言ってないだろ」
「言う前に止めています」
なのはは俺の前に立った。小柄な体なのに、真正面に立たれると意外と邪魔だ。レイジングハートを握る手にはまだ力が残っている。けれど、さっきより指先の白さは少しだけ引いていた。
フェイトが出口側で静かに言う。
「ツカサ先生、駄目です」
「フェイトまでか」
「はい。先生は今、確実に外へ出ようとしていました」
「少し空気を吸いに行くだけだ」
「先生の言う“少し”は信用できません」
はやてが魔法陣を閉じて、こちらへ振り返る。
「ツカサ先生、座り直し」
「俺はお前の部下じゃない」
「ほな、生徒からのお願いです」
笑っているように見えるのに、はやての目は笑っていない。
デルタが横から椅子の背を叩いた。
「ツカサ、今立ったら面倒だから座りなさいよ」
「お前は命令する側だったか?」
「命令じゃないわよ。身内からの忠告」
ゼータが腕を組む。
「今の状態で動いても、足跡も掴めないよ」
「追わなければ消える」
「今追っても、ツカサが倒れるだけ」
イータが端末をこちらへ向けた。
そこには、俺の戦闘後のバイタルらしき数値と、ロケットドリルゴーバスターオーの損傷ログが並んでいる。赤い表示がやけに多い。
「ツカサ、データ不足。動く理由にならない」
「俺の状態まで監視してるのか」
「ツカサが誤魔化すから」
「信用がないな」
「積み重ね」
イータは即答した。
部屋の隅で、イリスがそれを見ていた。
隔離結界の中で横たわる彼女は、まだまともに動けない。壊れた背部ユニットは封じられ、武装系の反応も沈黙している。けれど、その瞳だけは、なのはからフェイトへ、フェイトからはやてへ、はやてからデルタ達へとゆっくり動いていた。
観察。
自分でそう言っていた通り、彼女は見ている。
命令もなしに動く連中を。
俺を止めるためだけに、妙に息の合った連中を。
「……命令系統が統一されていません」
イリスが掠れた声で言った。
デルタが肩をすくめる。
「そりゃそうでしょ。軍隊じゃないんだし」
「ですが、行動目標は一致しています」
「ツカサを休ませる、って意味なら一致してるね」
ゼータが淡々と言う。
「ツカサがまた無茶する前に止める。優先度高め」
イータが続ける。
「勝手に優先度を付けるな」
「必要です」
なのはが即座に言った。
「とても必要です」
フェイトも続く。
「最優先事項やな」
はやてまで乗る。
俺は全員を見回した。
「お前ら、こういう時だけ連携が良すぎるだろ」
「先生を止める時だけ、妙に噛み合うんです」
なのはがまっすぐ言う。
その言い方に、誰も笑わなかった。
イリスはまばたきを一つした。
「これは、防衛行動ですか」
「んー……身内の世話?」
デルタが軽く答えた。
「身内」
イリスがその言葉を繰り返す。
機械的に記録しただけの音に聞こえる。だが、その瞳はデルタの方で止まっていた。デルタは一瞬だけ口を開きかけ、何も言わずにそっぽを向く。
「分からないなら見てろ」
俺は椅子に腰を下ろした。
わざと音を立てて座ったのに、誰も勝ち誇った顔をしない。なのはの肩がほんの少しだけ下がり、フェイトが出口から一歩だけ離れる。はやては魔法陣を操作し直し、治療用の柔らかな光を床に広げた。
「命令じゃない動き方ってやつをな」
イリスは答えなかった。
ただ、視線だけが俺の方で止まった。
はやてが手を叩く。
「ほな、現状確認するで」
魔法陣の上に、今回の事件の項目が並ぶ。
衛星砲。
ミラージュ・アギト。
イリス。
謎の信号。
どれも、ここ数時間で嫌というほど関わった名前だ。
「衛星砲は破壊済み」
なのはが言う。
項目の一つが光になって消える。
「ミラージュ・アギトも消滅確認済み」
フェイトが続ける。
次の項目が消えた。
「イリスの武装系は沈黙。生命反応は微弱だけど安定」
イータの声に合わせ、イリスの項目だけが淡い青に変わる。消えはしない。監視継続ということだろう。
「謎の信号は受信確認のみ。追跡は不可」
ゼータが言う。
最後の項目は、赤いまま残った。
「つまり、今すぐ殴りに行く相手はいないってことね」
デルタが腕を組む。
「そういうことや」
はやてが頷く。
「随分と分かりやすくまとめたな」
俺が言うと、はやてはにっこり笑った。
「ツカサ先生が勝手に動かんように、分かりやすくしたんです」
「本当に信用がない」
「積み重ねです」
なのはが二度目の同じ言葉を返した。
完全に同じ声色だった。
俺は言い返す言葉を探して、やめた。
この場で何を言っても、三方向から撃ち返されるだけだ。なら黙って座っていた方が体力の節約になる。そう判断した俺は、椅子の背にもたれた。
その瞬間、はやての治療用結界が足元から立ち上がる。
「おい」
「逃げ防止も兼ねてます」
「治療用じゃないのか」
「治療用です。副次効果で逃げにくいだけです」
フェイトが近くの台に飲み物を置いた。
「ツカサ先生、飲んでください」
「毒は入ってないだろうな」
「入れる理由がありません」
「眠らせる薬くらいはありそうだ」
フェイトは一瞬だけ考える顔をした。
「その手がありましたね」
「今のは冗談だ。採用するな」
なのはが俺の前に立つ。
「先生、ここで休んでください」
「命令か?」
「お願いです。でも、断ったら命令にします」
「随分強くなったな」
「先生がそうさせたんです」
はやてが横から笑う。
「教育の成果やな」
「俺はそんな教育をした覚えはない」
「先生の背中から学びました」
なのはは真面目に言った。
俺は飲み物に手を伸ばし、途中で止める。
蓋が閉まっている。
逃げる隙を作らないためか、単にこぼさないためか。どちらとも取れる辺りがこの連中らしい。
デルタが椅子を引き寄せて座った。
「じゃあ私、見張り役ね」
「デルタだけだと、ツカサと一緒に抜け出しそう」
ゼータが即座に言う。
「失礼ね。面白そうなら止めるわよ」
「止める基準がおかしい」
イータが端末を見ながら呟く。
「完全包囲だな」
「はい」
なのはが頷く。
「勝てる気がしない」
「今日は負けといてください」
はやての言葉に、フェイトが小さく笑った。
負ける。
その言葉が、妙に軽かった。
戦闘で負けるわけじゃない。力でねじ伏せられたわけでもない。ただ、ここから動かないことを選ばされている。
少し前の俺なら、こんな包囲網は適当に抜けていた。言葉を濁して、煙に巻いて、気づいた時には一人で出ていたはずだ。
なのに今は、椅子に座ったまま蓋つきの飲み物を手にしている。
窓の外では、夕方の光が瓦礫の影を長く伸ばしていた。灰を含んだ風が窓を叩き、細かな粒がガラスに当たっては流れていく。昼間はあれだけ騒がしかった戦場が、今はゆっくり息を落としているようだった。
イリスの声がした。
「命令なしで、対象の損耗を抑制している」
イータが少しだけ顔を上げる。
「……たぶん、それは看病」
「看病」
「難しく言えば、面倒を見るってことよ」
デルタが言う。
「デルタが言うと急に雑になるね」
ゼータが肩をすくめる。
「分かりやすいでしょ」
「面倒を見る。守る、とは異なるのですか」
イリスの瞳がこちらへ向く。
「似たようなものだろ」
俺が答えると、なのはがすぐに突っ込んだ。
「先生、雑です」
「分からないなら、まずは雑に覚えろ」
「ツカサ先生らしい教え方ですね」
フェイトの声に、はやてが頷く。
「正確さは後から補足するわ」
イリスはそれを聞きながら、ゆっくり視線を動かした。
俺の前に立つなのは。
飲み物を置いたフェイト。
結界を調整するはやて。
椅子に座って見張るデルタ。
壁際で腕を組むゼータ。
端末を抱えて数字を追うイータ。
誰も命令されていない。誰も同じ役職で動いていない。だが、全員が同じものを囲んでいた。
面倒を見る。
守る。
止める。
それぞれの言葉は違っても、手の伸びる先は似ている。
イリスの瞳が、ほんの少しだけ遅く瞬いた。
夜になった。
戦闘区域の煙は薄くなり、遠くで応急処置の灯りがいくつも点っている。休憩室の窓から見える空には、衛星砲の破片が最後の流星になって流れていた。
白い線が一つ、夜の端を滑る。
なのはは窓際に立ち、それを見上げていた。レイジングハートを握る手は、昼間より少しだけ緩んでいる。
フェイトは出口近くから視線を戻し、俺がまだ椅子に座っていることを確認した。確認するな。逃げない。たぶん。
はやてが魔法陣の記録を閉じる。
「これで一旦、終わりやな」
「一旦、か」
俺は窓の外を見る。
流星はもう消えていた。あとには暗い空だけが残っている。
「まだ分からないことはあります。でも、今夜は終わりです」
フェイトが言う。
「先生も、今日は終わりです」
なのはが振り返る。
「はい、強制終了」
デルタが手をひらひら振る。
「再起動は明日以降」
ゼータが続ける。
「ツカサの活動制限、継続」
イータが端末に何かを入力する。
「俺は機械か」
「たまに機械より言うこと聞かないわよね」
デルタがあっさり言う。
「ひどい評価だ」
「でも、間違ってないです」
なのはが真顔で言った。
室内に小さな笑いが落ちる。
俺は飲み物を手に取り、ようやく蓋を開けた。中身はただの水だった。少しぬるい。だが、喉を通る感覚が、さっきまでの焦げた空気を洗い流していく。
イリスはまだ見ている。
彼女の瞳には、窓の外の夜空と、こちらの灯りが小さく映っていた。
「観察を、継続します」
「ああ。そうしろ」
俺が答えると、イリスは一度だけ瞬きをした。
それが返事なのか、ただの反応なのかは分からない。
だが、その目はもう衛星砲を探していなかった。
その頃。
どこか遠い、窓のない暗い部屋で。
いくつものモニターが、青白い光を放っていた。
画面の一つには、衛星砲を貫くロケットドリルゴーバスターオー。
別の画面には、壊れたイリスを抱えて地上へ戻る俺の姿。
さらに別の画面には、隔離結界の中で目覚めたイリスと、それを囲むなのは達が映っていた。
映像はそこで止まる。
声はない。
命令もない。
ただ、誰かの指先が、画面の端をなぞる。
次の瞬間、映像ファイルに短い文字が刻まれた。
――観測継続。
その文字だけが、暗闇の中で静かに点滅していた。