戦いが終わった後の空は、少しだけ嘘くさい。
衛星砲の破片はもう燃え尽き、夜を焦がしていた光も消えた。瓦礫の隙間を抜ける風は、昼間の熱を忘れたみたいに冷えている。遠くでは後始末の灯りがいくつも揺れ、地面に落ちた影だけが、まだ戦いの形を覚えていた。
俺はその中に立っていた。
目の前には、世界を繋ぐための門がある。
薄い光で縁取られた揺らぎ。向こう側には、こちらとは違う空が見えていた。どこかの校舎らしき影。夕暮れに近い色をした雲。緑谷と轟が帰るべき世界だ。
まったく、厄介なことだ。
迷子を拾って、戦わせて、教えるような真似をして、最後は元の場所へ返す。俺の旅にしては随分と面倒な寄り道だった。
だが、その寄り道の終わりに立つ二人は、最初に見た時よりも少しだけ背筋が伸びていた。
緑谷は手帳を持っていた。
ページの端は折れ、何度も開閉したせいで表紙が少し傷んでいる。こいつは戦いの合間にも、こちらの世界のこと、俺の戦い方、なのは達の連携、イリスのことまで書いていた。たぶん、俺が言った余計な一言も、律儀にどこかへ残しているのだろう。
今も、緑谷はその手帳を閉じたまま、親指で端をなぞっていた。
轟は隣に立っている。
いつも通り、言葉は少ない。だが、視線は門ではなく俺に向いていた。左手の指が、手袋の上から一度だけ握られ、すぐに開かれる。火も氷も出していないのに、その手元だけが妙に強く目に残った。
少し離れた場所には、なのは達がいる。
なのははレイジングハートを胸元に抱えたまま、二人を見ていた。フェイトはその隣で静かに立ち、はやては帽子を押さえながら、門の安定を確認している。デルタ、ゼータ、イータは少し後ろ。デルタは退屈そうに腕を組んでいるが、さっきから足元の小石を蹴る回数がやけに多い。ゼータはそれを横目で見て、イータは端末から顔を上げたり下げたりしていた。
イリスは隔離結界の中からこちらを見ている。
命令ではない別れ。
それを、彼女はどう記録するのだろうか。
「さて」
俺は門の方へ顎をしゃくった。
「迷子は帰る時間だ」
軽く言ったつもりだった。
だが、緑谷はすぐに返事をしなかった。
手帳の表紙に置いた親指が止まる。ほんの一拍。短い沈黙。けれど、その一拍の中に、こいつがここで見たもの全部が詰まっているように見えた。
「ツカサさん」
緑谷が顔を上げた。
「何だ」
「僕達は……ツカサさんみたいになれるでしょうか」
風が吹いた。
瓦礫の隙間に残っていた灰が、低く流れる。門の光が揺れ、緑谷の髪の影が頬に落ちた。なのは達のいる方からも、誰の声も聞こえない。
轟が緑谷を見た。
止めない。
同じことを聞きたかったのかもしれない。あるいは、緑谷が聞くなら自分は黙って受け止めるつもりだったのかもしれない。
俺は二人を見た。
随分と面倒な質問をする。
こいつらは十分に強い。だが、強さだけなら元の世界にもいくらでもいるのだろう。だからこそ、こんな聞き方になる。
何になるか。
誰を目指すか。
どこまで進めば、胸を張れるのか。
そういう問いは、だいたい本人より先に周りが押しつける。師匠だの、先生だの、憧れだの。便利な言葉で背中に荷物を乗せる。
俺は小さく息を吐いた。
「なるな」
緑谷の目が見開かれる。
轟の指先が止まった。
「俺みたいになるな」
俺は続けた。
「俺の真似をするな。俺の戦い方を追うな。俺の背中を目標にするな」
緑谷の手帳が、きしりと音を立てた。
強く握りすぎている。
俺は構わず言った。
「お前達には、お前達の世界がある。守る場所も、戦う相手も、隣に立つ奴も違う。なら、俺と同じになる必要はない」
緑谷の喉が小さく動いた。
言葉を飲み込んだのが分かった。
「でも……僕は、ツカサさんからたくさん学びました」
「なら、それを俺に返すな」
緑谷が瞬きをする。
「元の世界で使え。お前が立つ場所で、お前のやり方でな」
轟が一歩前に出た。
足音は小さかったが、全員がそちらを見た。
「俺は、まだ師匠みたいにはできません」
「だから、なるなと言っただろ」
「はい」
轟はまっすぐ俺を見た。
「でも、見ないふりはしません」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
轟の視線は揺れていない。以前のこいつなら、何かを背負う時、その重さごと自分の中に閉じ込めていただろう。今は違う。重さがあることを知った上で、隣にいる緑谷を見るだけの余白があった。
緑谷が手帳を閉じた。
ぱたん、と乾いた音がする。
その音が、やけにはっきり聞こえた。
「僕も、自分の足で立ちます」
緑谷は手帳を胸の前で抱えた。
「誰かを助けるために、まず自分が壊れないようにします。ツカサさんに言われたこと、すぐ全部できるとは思いません。でも――」
そこで一度、言葉が止まる。
緑谷は門の向こうを見た。
元の世界の空。戻るべき場所。待っている誰か。置いてきた日常。そういうものが、光の向こうで静かに揺れている。
「でも、次に会う時があるなら」
緑谷は俺に向き直った。
「今より、ちゃんと立っていたいです」
俺は肩をすくめた。
「次がある前提で話すな」
「す、すみません」
「謝るところじゃない」
緑谷が少しだけ目を泳がせる。
こいつは相変わらず忙しい顔をする。泣きそうで、笑いそうで、まだ何か言いたそうで、けれど全部を言葉にするには時間が足りない。
だから、俺は先に門を指した。
「行け」
緑谷は動かなかった。
轟も、まだ立っている。
仕方ないので、もう少しだけ言ってやることにした。
「誰かを守るなら、まず自分の足で立て。倒れるなとは言わない。だが、倒れたまま守れるものは少ない」
緑谷の肩がわずかに震えた。
轟の拳が静かに握られる。
「迷ったら、周りを見ろ。一人で全部抱えようとするな。お前達の世界には、お前達を止める奴も、支える奴もいるんだろ」
視界の端で、なのはが少しだけ俯いた。
フェイトがその隣に立ったまま、視線だけを俺へ向ける。はやては何も言わず、門の光を安定させている。デルタは口を尖らせ、ゼータは腕を組み直し、イータは端末を胸に抱えた。
支える奴。
止める奴。
そういう連中の顔が、嫌でも目に入る。
「だから、俺みたいになるな」
俺は二人を見た。
「お前達は、お前達の戦い方で強くなれ」
緑谷は深く頭を下げた。
背中が丸くなるほど深く。手帳を握る指が白くなるほど強く。何か言おうとして、何度か唇が動く。けれど、最後に出てきたのは短い言葉だった。
「ありがとうございました、ツカサさん」
轟も頭を下げる。
緑谷ほど大きな動きではない。けれど、その姿勢はまっすぐだった。
「ありがとうございました、師匠」
俺は答えなかった。
答えると、余計なものが混ざる。
だから、手も振らず、ただ門を指す。
「行け」
二人は顔を上げた。
緑谷が一歩進む。門の光が彼の頬を照らす。次に轟が続く。二人の背中が、こちらの世界の夜と、向こうの世界の夕暮れの間に立つ。
その直前、緑谷が振り返った。
目元が少し赤い。
だが、足は止まらない。
「ツカサさん」
「何だ」
「僕達、帰ります」
「ああ」
「行ってきます」
その言葉に、少しだけ呼吸が遅れた。
帰ります、ではなく。
行ってきます。
まったく、面倒な生徒だ。
「……ああ」
俺は短く返した。
「行ってこい」
緑谷が笑った。
涙をこぼす寸前の顔で、それでも笑った。轟は隣で小さく頷き、二人は門をくぐった。
光が二人を包む。
輪郭が揺れる。緑谷の手帳、轟の白と赤の髪、こちらを向いた最後の視線。それらが光の奥へ溶けていく。
やがて、門が閉じた。
残ったのは、夜風と、空になった場所だけだった。
誰もすぐには喋らなかった。
なのは達も、デルタ達も、少し離れた場所で黙っている。イリスだけが、結界の中から閉じた門の跡を見ていた。
俺は空になった場所を見ていた。
ほんの数秒。
たぶん、それくらいだ。
だが、なのはには見逃されなかったらしい。
「先生」
「何だ」
「さっきから、門の跡ばかり見ています」
「確認だ」
「もう閉じました」
「だから確認してたんだ」
「そうですか?」
「ああ」
俺は背を向ける。
背中に、なのはの視線が刺さる。フェイトも、はやても、たぶん同じような顔をしている。デルタあたりは笑っているかもしれない。
予想通り、後ろから声が飛んだ。
「ツカサ、素直じゃないわね」
「黙れ」
「ほら、やっぱり」
デルタが笑う。
ゼータが小さくため息を吐いた。
「でも、いい別れだったんじゃない?」
「評価するな」
イータが端末を見下ろしながら呟く。
「記録、残しておく?」
「消せ」
「保存しておく」
「聞く気がないなら聞くな」
はやてが肩を震わせる。
「ツカサ先生、ほんま先生しとったな」
「してない」
フェイトが静かに首を振る。
「してました」
「満場一致か」
「はい」
なのはが小さく笑う。
夜風が吹いた。
さっきまで門があった場所に、薄い光の粒が残っていた。蛍みたいに揺れ、やがて一つずつ消えていく。
緑谷と轟はもういない。
だが、二人が立っていた場所の空気だけが、しばらく残っていた。手帳の紙をめくる音。短い礼の声。門の前で踏み出した足音。
そういうものが、夜の中に薄く溶けていく。
イリスが結界の中で言った。
「帰還。別離。継続する関係性」
相変わらず、硬い言葉だ。
だが、その瞳は閉じた門の跡を追っていた。
「これは、守る対象の喪失ですか」
「違う」
俺は即答していた。
イリスがこちらを見る。
「違うのですか」
「あいつらは帰っただけだ」
「帰還した対象は、ここには存在しません」
「存在しなくても、消えたわけじゃない」
イリスは黙った。
なのはが、少しだけこちらを見る。
余計なことを言った気がした。
俺は歩き出す。
「行くぞ」
「どこへですか?」
なのはが聞く。
「休憩室だ。どうせ逃げるなと言うんだろ」
なのはの目が丸くなる。
フェイトとはやてが顔を見合わせ、デルタが口笛を吹いた。
「ツカサが自分から休むって」
「明日は雨かもね」
ゼータが言う。
「いや、槍かも」
デルタが重ねる。
「お前らな」
イータが端末を操作する。
「ツカサの自主休憩、記録」
「するな」
「重要データ」
全員が歩き出す。
なのはが俺の横に並ぶ。少し後ろにフェイトとはやて。デルタ達は好き勝手に話しながらついてくる。結界の中のイリスも、はやての魔法陣に包まれてゆっくり運ばれていた。
背後で、門の光が完全に消える。
俺は振り返らなかった。
振り返らなくても、二人が帰る場所へ進んだことは分かっている。
だから、それでいい。
夜空には、もう流星はなかった。
ただ、雲の切れ間から、遠い星が一つだけ見えていた。