卒業式の日の空は、妙に白かった。
雲が薄く伸び、春の光が校舎の窓に柔らかく反射している。数年前、あれほど空を睨んでいた衛星砲の影はもうどこにもない。焦げた地面も、砕けた瓦礫も、宇宙から降ってきた流星のような残骸も、この場所には残っていなかった。
ただ、風だけは少し似ていた。
あの戦いの後、煙の匂いを運んでいた風。今は桜の花びらを運んでいる。まったく、世界というやつは平然と顔を変える。こちらが覚えている痛みなど知らないふりで、季節だけを先へ進めていく。
俺は講堂の一番後ろに立っていた。
壁際の、ちょうど柱の影になる位置だ。目立つつもりはない。目立つ必要もない。今日の主役は俺ではなく、壇上に呼ばれる卒業生達だ。
手には卒業式の式次第。
別に欲しかったわけではない。受付で渡されたから持っているだけだ。受付の教師に「保護者の方ですか」と聞かれた時は、少しだけ返答に困った。
保護者。
教師。
先生。
どれも俺には似合わない。
だが、式次第の紙を折り畳むこともなく、そのまま手に持っている辺り、俺も大概だと思う。
「高町なのは」
壇上から名前が呼ばれた。
なのはが立ち上がる。
数年前より背が伸びた。歩き方も変わっている。昔なら、気持ちが先に出て少しだけ足が速くなっていた。今は違う。背筋を伸ばし、一歩ずつ壇上へ進んでいく。その手は、卒業証書を受け取る直前まで、制服の横で静かに握られていた。
証書を受け取る。
なのはは頭を下げた後、ほんの一瞬だけ会場の後ろへ視線を向けた。
俺は柱の影に半分隠れたまま、式次第で口元を隠す。
目が合ったかどうかは知らない。
ただ、なのはの口元がほんの少し緩んだ気がした。
「フェイト・テスタロッサ」
次にフェイトが呼ばれる。
彼女は静かに立ち上がった。動きに無駄がない。昔からそういうところはあったが、今はさらに磨かれている。証書を受け取った後、端を丁寧に揃える仕草がいかにもフェイトらしい。
壇上を降りる時、フェイトはなのはの方を一度だけ見た。
なのはは小さく頷く。
それだけで会話が成立している。
昔なら、どちらかが言葉にしなければ届かなかったものが、今は視線の端で渡されている。
「八神はやて」
はやては、名前を呼ばれる前から少し笑っていた。
壇上へ向かう足取りは軽い。だが、証書を受け取る瞬間だけ、彼女の背筋がすっと伸びる。いつもの調子で笑っていても、こういう節目を雑に扱わないところは変わらない。
はやては証書を受け取った後、会場の後方へ視線を滑らせた。
俺の手の中の式次第が、かさりと鳴った。
その音がやけに大きく聞こえて、俺は少しだけ眉をひそめた。
式は進む。
祝辞。拍手。卒業生の返事。どれも俺の旅にはあまり縁のないものだ。世界を渡っていると、別れはいつも唐突で、区切りなど用意されていない。気づけば誰かが消え、気づけば次の世界へ放り出される。
だから、こうして名前を呼ばれ、証書を受け取り、拍手で送り出される光景は、少し眩しかった。
式が終わる頃には、窓の外で桜が散り始めていた。
講堂を出る人の波に紛れ、俺は校門の外へ先に回る。カメラのストラップが肩に当たり、式次第が手の中で少し折れた。
校門前は賑やかだった。
卒業生達が写真を撮り合い、誰かが笑い、誰かが泣いている。花びらが制服の肩に乗り、卒業証書の筒が光を受ける。春というやつは、やたらと別れを綺麗に見せたがる。
俺は校門の脇に立った。
しばらくすると、三人が並んで出てきた。
なのは、フェイト、はやて。
三人とも卒業証書を持っている。なのはは胸の前で抱え、フェイトは両手で丁寧に持ち、はやては片手で軽く肩に乗せていた。
最初に俺に気づいたのは、なのはだった。
足が止まる。
その後ろでフェイトとはやても止まる。
なのはは何か言いかけて、少しだけ唇を閉じた。それから、昔より落ち着いた声で言った。
「……先生」
「卒業式に遅刻する先生がどこにいる」
俺が言うと、はやてがすぐに目を細めた。
「自分で先生って認めましたね」
「今のは言葉の綾だ」
「ツカサ先生、その手の式次第……」
フェイトが俺の手元を見る。
しまった。
隠すには遅い。
「拾った」
「会場でしか配ってません」
なのはが即答する。
「なら、会場の近くで拾った」
「つまり、最初から見てたんや」
「通りすがっただけだ」
はやては肩を震わせた。
フェイトは口元に手を当て、なのはは卒業証書を抱え直す。三人とも、追及する気はなさそうだった。昔のなのはなら、もう少し真っ直ぐ踏み込んできたかもしれない。今は、俺が逃げ道として差し出した言葉を、あえてそのまま置いておく顔をしている。
「先生らしいです」
なのはが言った。
「褒めてるのか?」
「はい」
「なら、悪くない」
三人の周りを、花びらが流れていく。
数年前の戦場で、なのははレイジングハートを握る手を震わせていた。フェイトは俺の退路を黙って塞ぎ、はやては軽口の奥で状況を全部見ていた。
今、三人は卒業証書を持って立っている。
もう、あの日の少女達ではない。
けれど、あの日の火種はちゃんと残っている。消えたわけじゃない。形を変えただけだ。
「先生」
なのはが一歩前に出た。
「私達、卒業しました」
「見れば分かる」
「でも、ちゃんと言いたかったんです」
なのはの声は揺れていない。昔のように勢いで押してくるのではなく、一つずつ言葉を選んで置いている。
フェイトが続いた。
「ツカサ先生に教わったこと、全部そのまま使えるわけじゃありません」
「俺の真似はするなと言った覚えはある」
「はい。だから、自分達の形にします」
フェイトの指が、卒業証書の端をそっと撫でた。
はやてが笑う。
「ツカサ先生がおらんでも、うちらは進めます」
「俺を追い出す気か」
「送り出すんです」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
送り出す。
普通は逆だろう。先生が生徒を送り出す。卒業式とはそういうもののはずだ。
だが、今ここで俺の前に立っている三人は、俺を引き止めるために立っているわけではなかった。
なのはは証書を胸に抱えたまま、こちらを見ている。フェイトは静かに頭を下げる準備をしている。はやては笑っているが、いつもの軽口だけでこの場を流すつもりはない顔だ。
俺は式次第を折り畳み、ポケットへ入れた。
「随分偉くなったな」
「卒業生ですから」
なのはが少しだけ胸を張る。
その仕草が、昔よりもずっと自然だった。
俺はカメラを持ち上げた。
「並べ」
「え?」
「写真を撮る」
はやてが目を輝かせる。
「おお、ツカサ先生が先生っぽいことを」
「写真屋の仕事だ」
「お願いします」
フェイトが静かに頭を下げる。
なのはは少しだけ笑った。
「先生、綺麗に撮ってくださいね」
「被写体次第だ」
「そこは腕で何とかしてください」
はやてが即座に返す。
「文句が多い卒業生だな」
「先生の生徒ですから」
なのはの言葉に、三人が並ぶ。
中央になのは。
右にフェイト。
左にはやて。
卒業証書を持ち、校門の前に立つ三人。背後には桜。風が吹き、花びらが一枚、なのはの髪に引っかかった。フェイトがそれを取ろうと手を伸ばしかけ、なのはが気づいて笑う。はやてはその横で、わざとらしく証書を掲げる。
「はやて、普通に」
「記念写真やで? ちょっとくらい遊び心があってもええやん」
「はやてちゃん、卒業写真だよ?」
「だからや」
フェイトが小さく笑う。
その瞬間だった。
ファインダー越しに、数年前の三人が重なった。
戦場で歯を食いしばるなのは。
出口を塞ぐように立つフェイト。
魔法陣の向こうで指揮を取るはやて。
それらが一瞬だけ揺れ、今の三人に戻る。
なのはは真っ直ぐ笑っている。
フェイトは控えめに、けれど視線を逸らさずにこちらを見ている。
はやてはいつもの調子で笑いながら、背筋だけはきちんと伸びている。
シャッターを切った。
軽い音がした。
たったそれだけで、数年分の時間が一枚の中に収まった気がした。
俺は撮った写真を確認する。
悪くない。
口には出さない。まだ早い。
「見せてください」
なのはが覗き込もうとする。
「後でな」
「今見たいです」
「卒業生はせっかちだな」
「先生が隠すからです」
俺がカメラを軽く持ち上げると、なのはは少しだけ頬を膨らませた。昔ならそのまま詰め寄ってきただろう。今は一歩で止まる。
フェイトがそれを見て、静かに笑う。
はやては俺の背後を見た。
「……来たみたいやな」
振り返るまでもない。
背後に、扉があった。
見慣れた扉だ。どこの世界にも不意に現れ、何食わぬ顔で次へ繋がる。光写真館へ戻る扉。旅の終わりではなく、次へ向かうための入口。
なのはが息を飲む音がした。
フェイトは手にした証書を少しだけ握り直す。
はやては笑顔のままだった。けれど、帽子を押さえる指に、ほんの少し力が入っている。
「……行くんですね」
なのはが言う。
「通りすがりだからな」
「ツカサ先生」
フェイトが一歩前へ出た。
「何だ」
「ありがとうございました」
フェイトは深く頭を下げた。
その動きは静かで、揺れがない。
「礼を言われるほど、まともな先生をした覚えはない」
「それでも、うちらの先生でした」
はやてが言った。
「物好きな生徒達だ」
「先生も、大概です」
なのはが返す。
「言うようになったな」
「卒業しましたから」
なのはの声は、もう震えていなかった。
俺はカメラを肩にかけ直す。
引き止められると思っていたわけではない。だが、三人が本当に一歩も踏み出してこないのを見ると、少しだけ調子が狂う。
昔なら、なのはが真っ先に走ってきただろう。フェイトがその後ろで静かに止めるか、あるいは一緒に来ただろう。はやては笑いながら、結局全員を巻き込んでいただろう。
今の三人は、校門の前に立ったまま俺を見ている。
追いかけるのではなく。
送り出す側として。
「じゃあな」
俺は扉へ手をかけた。
「はい」
なのはが頷く。
「また、どこかで」
フェイトが言う。
「通りすがるなら、今度は遅刻せんといてくださいね」
はやてが笑う。
「約束はしない」
「先生らしいです」
「それは褒めてるのか?」
「はい」
「なら、悪くない」
扉を開ける。
光が漏れる。
俺は一度だけ、撮った写真を見た。
画面の中で、三人が笑っている。
それを確認してから、扉の向こうへ足を踏み入れた。
閉じる直前、校門前に立つ三人が見えた。
なのはは証書を胸に抱え、フェイトは静かに手を下ろし、はやては帽子を押さえたままこちらを見ている。
三人とも、泣いてはいなかった。
扉が閉じた。
次に目に入ったのは、光写真館の壁だった。
見慣れた空間。見慣れた匂い。木の床が少し軋み、壁にはこれまでの旅の写真が並んでいる。
俺はカメラから写真を取り出した。
なのは、フェイト、はやての卒業写真。
壁の一角に、空いていた額があった。
別にそこへ入れると決めていたわけではない。たまたま空いていた。そういうことにしておく。
額を外し、写真を入れる。
ガラスの向こうで、三人が笑っている。
なのはは真っ直ぐに。
フェイトは少し控えめに。
はやてはいつもの調子で。
だが、三人とも背筋だけはきちんと伸びていた。
俺は額を壁へ戻す。
少し傾いた。
指先で直す。
まだ、わずかに傾いている気がした。もう一度直す。今度はまっすぐになった。
壁に、新しい世界の一枚が増えた。
俺はしばらくそれを見ていた。
長く見ていたつもりはない。ほんの数秒だ。たぶん。
写真の中の三人は、もうこちらを追いかけてこない。
それぞれの場所へ進んでいく。
俺は肩からカメラを下ろし、カウンターへ置いた。
「……悪くない」
声は、思ったより小さかった。
写真館の中で、誰も返事をしなかった。
壁の中の三人だけが、春の光の中で笑っていた。