悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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卒業式

 卒業式の日の空は、妙に白かった。

 

 雲が薄く伸び、春の光が校舎の窓に柔らかく反射している。数年前、あれほど空を睨んでいた衛星砲の影はもうどこにもない。焦げた地面も、砕けた瓦礫も、宇宙から降ってきた流星のような残骸も、この場所には残っていなかった。

 

 ただ、風だけは少し似ていた。

 

 あの戦いの後、煙の匂いを運んでいた風。今は桜の花びらを運んでいる。まったく、世界というやつは平然と顔を変える。こちらが覚えている痛みなど知らないふりで、季節だけを先へ進めていく。

 

 俺は講堂の一番後ろに立っていた。

 

 壁際の、ちょうど柱の影になる位置だ。目立つつもりはない。目立つ必要もない。今日の主役は俺ではなく、壇上に呼ばれる卒業生達だ。

 

 手には卒業式の式次第。

 

 別に欲しかったわけではない。受付で渡されたから持っているだけだ。受付の教師に「保護者の方ですか」と聞かれた時は、少しだけ返答に困った。

 

 保護者。

 

 教師。

 

 先生。

 

 どれも俺には似合わない。

 

 だが、式次第の紙を折り畳むこともなく、そのまま手に持っている辺り、俺も大概だと思う。

 

「高町なのは」

 

 壇上から名前が呼ばれた。

 

 なのはが立ち上がる。

 

 数年前より背が伸びた。歩き方も変わっている。昔なら、気持ちが先に出て少しだけ足が速くなっていた。今は違う。背筋を伸ばし、一歩ずつ壇上へ進んでいく。その手は、卒業証書を受け取る直前まで、制服の横で静かに握られていた。

 

 証書を受け取る。

 

 なのはは頭を下げた後、ほんの一瞬だけ会場の後ろへ視線を向けた。

 

 俺は柱の影に半分隠れたまま、式次第で口元を隠す。

 

 目が合ったかどうかは知らない。

 

 ただ、なのはの口元がほんの少し緩んだ気がした。

 

「フェイト・テスタロッサ」

 

 次にフェイトが呼ばれる。

 

 彼女は静かに立ち上がった。動きに無駄がない。昔からそういうところはあったが、今はさらに磨かれている。証書を受け取った後、端を丁寧に揃える仕草がいかにもフェイトらしい。

 

 壇上を降りる時、フェイトはなのはの方を一度だけ見た。

 

 なのはは小さく頷く。

 

 それだけで会話が成立している。

 

 昔なら、どちらかが言葉にしなければ届かなかったものが、今は視線の端で渡されている。

 

「八神はやて」

 

 はやては、名前を呼ばれる前から少し笑っていた。

 

 壇上へ向かう足取りは軽い。だが、証書を受け取る瞬間だけ、彼女の背筋がすっと伸びる。いつもの調子で笑っていても、こういう節目を雑に扱わないところは変わらない。

 

 はやては証書を受け取った後、会場の後方へ視線を滑らせた。

 

 俺の手の中の式次第が、かさりと鳴った。

 

 その音がやけに大きく聞こえて、俺は少しだけ眉をひそめた。

 

 式は進む。

 

 祝辞。拍手。卒業生の返事。どれも俺の旅にはあまり縁のないものだ。世界を渡っていると、別れはいつも唐突で、区切りなど用意されていない。気づけば誰かが消え、気づけば次の世界へ放り出される。

 

 だから、こうして名前を呼ばれ、証書を受け取り、拍手で送り出される光景は、少し眩しかった。

 

 式が終わる頃には、窓の外で桜が散り始めていた。

 

 講堂を出る人の波に紛れ、俺は校門の外へ先に回る。カメラのストラップが肩に当たり、式次第が手の中で少し折れた。

 

 校門前は賑やかだった。

 

 卒業生達が写真を撮り合い、誰かが笑い、誰かが泣いている。花びらが制服の肩に乗り、卒業証書の筒が光を受ける。春というやつは、やたらと別れを綺麗に見せたがる。

 

 俺は校門の脇に立った。

 

 しばらくすると、三人が並んで出てきた。

 

 なのは、フェイト、はやて。

 

 三人とも卒業証書を持っている。なのはは胸の前で抱え、フェイトは両手で丁寧に持ち、はやては片手で軽く肩に乗せていた。

 

 最初に俺に気づいたのは、なのはだった。

 

 足が止まる。

 

 その後ろでフェイトとはやても止まる。

 

 なのはは何か言いかけて、少しだけ唇を閉じた。それから、昔より落ち着いた声で言った。

 

「……先生」

 

「卒業式に遅刻する先生がどこにいる」

 

 俺が言うと、はやてがすぐに目を細めた。

 

「自分で先生って認めましたね」

 

「今のは言葉の綾だ」

 

「ツカサ先生、その手の式次第……」

 

 フェイトが俺の手元を見る。

 

 しまった。

 

 隠すには遅い。

 

「拾った」

 

「会場でしか配ってません」

 

 なのはが即答する。

 

「なら、会場の近くで拾った」

 

「つまり、最初から見てたんや」

 

「通りすがっただけだ」

 

 はやては肩を震わせた。

 

 フェイトは口元に手を当て、なのはは卒業証書を抱え直す。三人とも、追及する気はなさそうだった。昔のなのはなら、もう少し真っ直ぐ踏み込んできたかもしれない。今は、俺が逃げ道として差し出した言葉を、あえてそのまま置いておく顔をしている。

 

「先生らしいです」

 

 なのはが言った。

 

「褒めてるのか?」

 

「はい」

 

「なら、悪くない」

 

 三人の周りを、花びらが流れていく。

 

 数年前の戦場で、なのははレイジングハートを握る手を震わせていた。フェイトは俺の退路を黙って塞ぎ、はやては軽口の奥で状況を全部見ていた。

 

 今、三人は卒業証書を持って立っている。

 

 もう、あの日の少女達ではない。

 

 けれど、あの日の火種はちゃんと残っている。消えたわけじゃない。形を変えただけだ。

 

「先生」

 

 なのはが一歩前に出た。

 

「私達、卒業しました」

 

「見れば分かる」

 

「でも、ちゃんと言いたかったんです」

 

 なのはの声は揺れていない。昔のように勢いで押してくるのではなく、一つずつ言葉を選んで置いている。

 

 フェイトが続いた。

 

「ツカサ先生に教わったこと、全部そのまま使えるわけじゃありません」

 

「俺の真似はするなと言った覚えはある」

 

「はい。だから、自分達の形にします」

 

 フェイトの指が、卒業証書の端をそっと撫でた。

 

 はやてが笑う。

 

「ツカサ先生がおらんでも、うちらは進めます」

 

「俺を追い出す気か」

 

「送り出すんです」

 

 その言葉に、俺は少しだけ黙った。

 

 送り出す。

 

 普通は逆だろう。先生が生徒を送り出す。卒業式とはそういうもののはずだ。

 

 だが、今ここで俺の前に立っている三人は、俺を引き止めるために立っているわけではなかった。

 

 なのはは証書を胸に抱えたまま、こちらを見ている。フェイトは静かに頭を下げる準備をしている。はやては笑っているが、いつもの軽口だけでこの場を流すつもりはない顔だ。

 

 俺は式次第を折り畳み、ポケットへ入れた。

 

「随分偉くなったな」

 

「卒業生ですから」

 

 なのはが少しだけ胸を張る。

 

 その仕草が、昔よりもずっと自然だった。

 

 俺はカメラを持ち上げた。

 

「並べ」

 

「え?」

 

「写真を撮る」

 

 はやてが目を輝かせる。

 

「おお、ツカサ先生が先生っぽいことを」

 

「写真屋の仕事だ」

 

「お願いします」

 

 フェイトが静かに頭を下げる。

 

 なのはは少しだけ笑った。

 

「先生、綺麗に撮ってくださいね」

 

「被写体次第だ」

 

「そこは腕で何とかしてください」

 

 はやてが即座に返す。

 

「文句が多い卒業生だな」

 

「先生の生徒ですから」

 

 なのはの言葉に、三人が並ぶ。

 

 中央になのは。

 

 右にフェイト。

 

 左にはやて。

 

 卒業証書を持ち、校門の前に立つ三人。背後には桜。風が吹き、花びらが一枚、なのはの髪に引っかかった。フェイトがそれを取ろうと手を伸ばしかけ、なのはが気づいて笑う。はやてはその横で、わざとらしく証書を掲げる。

 

「はやて、普通に」

 

「記念写真やで? ちょっとくらい遊び心があってもええやん」

 

「はやてちゃん、卒業写真だよ?」

 

「だからや」

 

 フェイトが小さく笑う。

 

 その瞬間だった。

 

 ファインダー越しに、数年前の三人が重なった。

 

 戦場で歯を食いしばるなのは。

 出口を塞ぐように立つフェイト。

 魔法陣の向こうで指揮を取るはやて。

 

 それらが一瞬だけ揺れ、今の三人に戻る。

 

 なのはは真っ直ぐ笑っている。

 

 フェイトは控えめに、けれど視線を逸らさずにこちらを見ている。

 

 はやてはいつもの調子で笑いながら、背筋だけはきちんと伸びている。

 

 シャッターを切った。

 

 軽い音がした。

 

 たったそれだけで、数年分の時間が一枚の中に収まった気がした。

 

 俺は撮った写真を確認する。

 

 悪くない。

 

 口には出さない。まだ早い。

 

「見せてください」

 

 なのはが覗き込もうとする。

 

「後でな」

 

「今見たいです」

 

「卒業生はせっかちだな」

 

「先生が隠すからです」

 

 俺がカメラを軽く持ち上げると、なのはは少しだけ頬を膨らませた。昔ならそのまま詰め寄ってきただろう。今は一歩で止まる。

 

 フェイトがそれを見て、静かに笑う。

 

 はやては俺の背後を見た。

 

「……来たみたいやな」

 

 振り返るまでもない。

 

 背後に、扉があった。

 

 見慣れた扉だ。どこの世界にも不意に現れ、何食わぬ顔で次へ繋がる。光写真館へ戻る扉。旅の終わりではなく、次へ向かうための入口。

 

 なのはが息を飲む音がした。

 

 フェイトは手にした証書を少しだけ握り直す。

 

 はやては笑顔のままだった。けれど、帽子を押さえる指に、ほんの少し力が入っている。

 

「……行くんですね」

 

 なのはが言う。

 

「通りすがりだからな」

 

「ツカサ先生」

 

 フェイトが一歩前へ出た。

 

「何だ」

 

「ありがとうございました」

 

 フェイトは深く頭を下げた。

 

 その動きは静かで、揺れがない。

 

「礼を言われるほど、まともな先生をした覚えはない」

 

「それでも、うちらの先生でした」

 

 はやてが言った。

 

「物好きな生徒達だ」

 

「先生も、大概です」

 

 なのはが返す。

 

「言うようになったな」

 

「卒業しましたから」

 

 なのはの声は、もう震えていなかった。

 

 俺はカメラを肩にかけ直す。

 

 引き止められると思っていたわけではない。だが、三人が本当に一歩も踏み出してこないのを見ると、少しだけ調子が狂う。

 

 昔なら、なのはが真っ先に走ってきただろう。フェイトがその後ろで静かに止めるか、あるいは一緒に来ただろう。はやては笑いながら、結局全員を巻き込んでいただろう。

 

 今の三人は、校門の前に立ったまま俺を見ている。

 

 追いかけるのではなく。

 

 送り出す側として。

 

「じゃあな」

 

 俺は扉へ手をかけた。

 

「はい」

 

 なのはが頷く。

 

「また、どこかで」

 

 フェイトが言う。

 

「通りすがるなら、今度は遅刻せんといてくださいね」

 

 はやてが笑う。

 

「約束はしない」

 

「先生らしいです」

 

「それは褒めてるのか?」

 

「はい」

 

「なら、悪くない」

 

 扉を開ける。

 

 光が漏れる。

 

 俺は一度だけ、撮った写真を見た。

 

 画面の中で、三人が笑っている。

 

 それを確認してから、扉の向こうへ足を踏み入れた。

 

 閉じる直前、校門前に立つ三人が見えた。

 

 なのはは証書を胸に抱え、フェイトは静かに手を下ろし、はやては帽子を押さえたままこちらを見ている。

 

 三人とも、泣いてはいなかった。

 

 扉が閉じた。

 

 次に目に入ったのは、光写真館の壁だった。

 

 見慣れた空間。見慣れた匂い。木の床が少し軋み、壁にはこれまでの旅の写真が並んでいる。

 

 俺はカメラから写真を取り出した。

 

 なのは、フェイト、はやての卒業写真。

 

 壁の一角に、空いていた額があった。

 

 別にそこへ入れると決めていたわけではない。たまたま空いていた。そういうことにしておく。

 

 額を外し、写真を入れる。

 

 ガラスの向こうで、三人が笑っている。

 

 なのはは真っ直ぐに。

 

 フェイトは少し控えめに。

 

 はやてはいつもの調子で。

 

 だが、三人とも背筋だけはきちんと伸びていた。

 

 俺は額を壁へ戻す。

 

 少し傾いた。

 

 指先で直す。

 

 まだ、わずかに傾いている気がした。もう一度直す。今度はまっすぐになった。

 

 壁に、新しい世界の一枚が増えた。

 

 俺はしばらくそれを見ていた。

 

 長く見ていたつもりはない。ほんの数秒だ。たぶん。

 

 写真の中の三人は、もうこちらを追いかけてこない。

 

 それぞれの場所へ進んでいく。

 

 俺は肩からカメラを下ろし、カウンターへ置いた。

 

「……悪くない」

 

 声は、思ったより小さかった。

 

 写真館の中で、誰も返事をしなかった。

 

 壁の中の三人だけが、春の光の中で笑っていた。

 

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