光写真館の扉を開けると、そこには青空があった。
あまりにも普通の青だった。
雲は薄く、風はぬるく、道路には車が走っている。横断歩道の信号が変わるたびに、学生達が鞄を揺らして渡っていく。コンビニの自動ドアが開き、店員の声が漏れ、商店街のスピーカーから気の抜けた音楽が流れていた。
世界を渡った直後というのは、大抵もう少し分かりやすい違和感がある。
空が赤いとか、街が燃えているとか、空から巨大な何かが落ちてくるとか。
だが、この世界は違った。
ただの街だ。
俺はカメラを構えた。
「今回は随分普通だな」
シャッターを切る。
軽い音が、春めいた空気の中に落ちた。
デルタが俺の横で鼻を鳴らす。
「普通すぎて逆に嫌」
「お前は何でも嫌がるな」
「だって気持ち悪いじゃない。普通です、平和です、何もありませんって顔してる場所ほど、ろくでもないものが隠れてるのよ」
ゼータは道路の向こう側を見ていた。
通学中の学生達が、電柱の横を何の気なしに通り過ぎていく。そこには、白と黄色の標識が貼られていた。
――危険生物出没時は屋内へ退避。
俺はもう一度カメラを構えた。
信号。学生。コンビニ。標識。
同じ画面の中に全部が収まる。
「……危険生物ね」
ゼータが呟く。
「犬とか熊とか、そういう話じゃなさそう」
イータが端末を開いた。画面の光が彼女の顔を青く照らす。
「空気中に微弱な異常成分。生物由来っぽいけど、通常の生態系データと合わない」
「到着早々それか」
「ツカサの行く世界だから」
「俺のせいにするな」
イリスは少し離れた位置で、街を見ていた。
以前のように結界の中に寝かされてはいない。今は歩ける。壊れていた部分もだいぶ補修された。だが、その目だけは相変わらず、見たものを一つずつ記録していくように動く。
「住民の退避標識への反応が薄いです」
「慣れてるってことか」
「はい。危険表示が日常環境に組み込まれています」
彼女の言葉を聞きながら、俺は撮った写真を確認した。
普通の街並み。
そのはずだった。
画面の端に、黒い線が写っている。
路地の壁だ。
肉眼で見た時は気づかなかった。だが写真の中では、古い傷がはっきり残っている。爪で抉られたような跡が、コンクリートの壁を縦に裂いていた。
俺はカメラを下ろす。
「写真写りの悪い世界だな」
「何か写った?」
デルタが覗き込もうとする。
俺はカメラを少し上げた。
「後でな」
「またそれ?」
「写真屋の特権だ」
「都合のいい特権ね」
デルタが口を尖らせる。
その時、遠くで短い警報音が鳴った。
甲高い音が三回。
街の空気が、一瞬だけ止まる。
信号待ちの学生が足を止めた。店員が店の奥へ顔を向けた。商店街の人間が、反射のようにシャッターの紐へ手を伸ばす。
だが、誰も叫ばない。
誰も走り出さない。
ただ、決められた動きをなぞるように、静かに屋内へ入っていく。
コンビニの自動ドアが閉まる。商店のシャッターが半分下りる。バス停にいた老人が、近くの建物へゆっくり歩いていく。学生達は互いに顔を見合わせ、すぐに校舎とは逆方向の地下入口へ向かった。
慣れすぎている。
災害訓練ではない。
本物を何度も見た動きだ。
デルタの足音が止まった。
「……ねえ、ツカサ」
「ああ」
路地の奥から、湿った音がした。
ぴちゃり、と。
水たまりを踏むような音。
だが、今日は雨など降っていない。
ゼータが一歩下がり、イータが端末を抱え直す。イリスの瞳が路地の奥へ固定された。
影が動いた。
最初は、壁の染みが剥がれたように見えた。
次に、長い尾が見えた。
灰黒い鱗が、薄暗い路地の中で濡れたように光る。四肢は細長く、爪が壁に食い込んでいた。人間のように立つのではなく、壁と地面の両方に体を預けるように這ってくる。
蜥蜴のような怪物。
そう呼ぶしかないものが、路地裏から顔を出した。
裂けた口の隙間から、細い舌が揺れる。
一度。
二度。
周囲を味わうように。
その目は黄色く濁っていた。獲物を見つけたというより、ここにあるものを確認している目だった。
デルタが舌打ちする。
「出迎えにしては趣味が悪いわね」
「この世界の挨拶かもしれないよ」
ゼータが低く言う。
「なら、ずいぶん爪が長い挨拶だな」
怪物の首がこちらを向いた。
次の瞬間、壁が削れた。
灰黒い体が路地から弾けるように飛び出す。爪がアスファルトを引っ掻き、火花のように石片が散った。
「下がれ」
俺は一歩横へずれた。
怪物の爪が、さっきまで俺の首があった場所を裂く。風だけが頬を掠め、背後の標識が真っ二つに折れた。
――危険生物出没時は屋内へ退避。
折れた看板が地面を転がる。
随分と分かりやすい解説だ。
デルタ達は動いていた。
デルタが民間人の残りを建物の中へ押し込み、ゼータが通りの向こうを塞ぐ。イータは端末で周囲の動線を確認し、イリスは逃げ遅れた子供の前へ無言で立った。
怪物が喉を鳴らす。
低く、湿った音。
威嚇ではない。
腹の奥で機械が回っているような、不自然な鳴き声だった。
俺はカメラを首から下げ直した。
「普通の顔をした怪物の世界か」
怪物が身を沈める。
跳ぶ。
そう判断するより早く、爪が地面を抉った。
俺は腰に手を伸ばす。
ディケイドライバー。
ベルトが装着される音が、静まり返った通りに響いた。
怪物が壁を蹴る。
灰黒い影が青空を横切る。
俺はカードを取り出した。
卒業写真を撮った指とは違う形で、カードの端を挟む。
目の前に迫る爪。
裂けた口。
揺れる舌。
閉じたシャッターの隙間から、誰かの目がこちらを見ている。
「変身」
カードを装填する。
音声が鳴る。
装甲が展開し、視界にマゼンタの線が走った。
世界が一瞬、カードの裏側のように平たくなる。
そして次の瞬間、俺はディケイドとしてその場に立っていた。
怪物の爪が、目前まで迫る。
俺は片足を引き、構えた。
この世界の一枚目は、どうやら怪物の顔から始まるらしい。