悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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普通で歪な世界

 光写真館の扉を開けると、そこには青空があった。

 

 あまりにも普通の青だった。

 

 雲は薄く、風はぬるく、道路には車が走っている。横断歩道の信号が変わるたびに、学生達が鞄を揺らして渡っていく。コンビニの自動ドアが開き、店員の声が漏れ、商店街のスピーカーから気の抜けた音楽が流れていた。

 

 世界を渡った直後というのは、大抵もう少し分かりやすい違和感がある。

 

 空が赤いとか、街が燃えているとか、空から巨大な何かが落ちてくるとか。

 

 だが、この世界は違った。

 

 ただの街だ。

 

 俺はカメラを構えた。

 

「今回は随分普通だな」

 

 シャッターを切る。

 

 軽い音が、春めいた空気の中に落ちた。

 

 デルタが俺の横で鼻を鳴らす。

 

「普通すぎて逆に嫌」

 

「お前は何でも嫌がるな」

 

「だって気持ち悪いじゃない。普通です、平和です、何もありませんって顔してる場所ほど、ろくでもないものが隠れてるのよ」

 

 ゼータは道路の向こう側を見ていた。

 

 通学中の学生達が、電柱の横を何の気なしに通り過ぎていく。そこには、白と黄色の標識が貼られていた。

 

 ――危険生物出没時は屋内へ退避。

 

 俺はもう一度カメラを構えた。

 

 信号。学生。コンビニ。標識。

 

 同じ画面の中に全部が収まる。

 

「……危険生物ね」

 

 ゼータが呟く。

 

「犬とか熊とか、そういう話じゃなさそう」

 

 イータが端末を開いた。画面の光が彼女の顔を青く照らす。

 

「空気中に微弱な異常成分。生物由来っぽいけど、通常の生態系データと合わない」

 

「到着早々それか」

 

「ツカサの行く世界だから」

 

「俺のせいにするな」

 

 イリスは少し離れた位置で、街を見ていた。

 

 以前のように結界の中に寝かされてはいない。今は歩ける。壊れていた部分もだいぶ補修された。だが、その目だけは相変わらず、見たものを一つずつ記録していくように動く。

 

「住民の退避標識への反応が薄いです」

 

「慣れてるってことか」

 

「はい。危険表示が日常環境に組み込まれています」

 

 彼女の言葉を聞きながら、俺は撮った写真を確認した。

 

 普通の街並み。

 

 そのはずだった。

 

 画面の端に、黒い線が写っている。

 

 路地の壁だ。

 

 肉眼で見た時は気づかなかった。だが写真の中では、古い傷がはっきり残っている。爪で抉られたような跡が、コンクリートの壁を縦に裂いていた。

 

 俺はカメラを下ろす。

 

「写真写りの悪い世界だな」

 

「何か写った?」

 

 デルタが覗き込もうとする。

 

 俺はカメラを少し上げた。

 

「後でな」

 

「またそれ?」

 

「写真屋の特権だ」

 

「都合のいい特権ね」

 

 デルタが口を尖らせる。

 

 その時、遠くで短い警報音が鳴った。

 

 甲高い音が三回。

 

 街の空気が、一瞬だけ止まる。

 

 信号待ちの学生が足を止めた。店員が店の奥へ顔を向けた。商店街の人間が、反射のようにシャッターの紐へ手を伸ばす。

 

 だが、誰も叫ばない。

 

 誰も走り出さない。

 

 ただ、決められた動きをなぞるように、静かに屋内へ入っていく。

 

 コンビニの自動ドアが閉まる。商店のシャッターが半分下りる。バス停にいた老人が、近くの建物へゆっくり歩いていく。学生達は互いに顔を見合わせ、すぐに校舎とは逆方向の地下入口へ向かった。

 

 慣れすぎている。

 

 災害訓練ではない。

 

 本物を何度も見た動きだ。

 

 デルタの足音が止まった。

 

「……ねえ、ツカサ」

 

「ああ」

 

 路地の奥から、湿った音がした。

 

 ぴちゃり、と。

 

 水たまりを踏むような音。

 

 だが、今日は雨など降っていない。

 

 ゼータが一歩下がり、イータが端末を抱え直す。イリスの瞳が路地の奥へ固定された。

 

 影が動いた。

 

 最初は、壁の染みが剥がれたように見えた。

 

 次に、長い尾が見えた。

 

 灰黒い鱗が、薄暗い路地の中で濡れたように光る。四肢は細長く、爪が壁に食い込んでいた。人間のように立つのではなく、壁と地面の両方に体を預けるように這ってくる。

 

 蜥蜴のような怪物。

 

 そう呼ぶしかないものが、路地裏から顔を出した。

 

 裂けた口の隙間から、細い舌が揺れる。

 

 一度。

 

 二度。

 

 周囲を味わうように。

 

 その目は黄色く濁っていた。獲物を見つけたというより、ここにあるものを確認している目だった。

 

 デルタが舌打ちする。

 

「出迎えにしては趣味が悪いわね」

 

「この世界の挨拶かもしれないよ」

 

 ゼータが低く言う。

 

「なら、ずいぶん爪が長い挨拶だな」

 

 怪物の首がこちらを向いた。

 

 次の瞬間、壁が削れた。

 

 灰黒い体が路地から弾けるように飛び出す。爪がアスファルトを引っ掻き、火花のように石片が散った。

 

「下がれ」

 

 俺は一歩横へずれた。

 

 怪物の爪が、さっきまで俺の首があった場所を裂く。風だけが頬を掠め、背後の標識が真っ二つに折れた。

 

 ――危険生物出没時は屋内へ退避。

 

 折れた看板が地面を転がる。

 

 随分と分かりやすい解説だ。

 

 デルタ達は動いていた。

 

 デルタが民間人の残りを建物の中へ押し込み、ゼータが通りの向こうを塞ぐ。イータは端末で周囲の動線を確認し、イリスは逃げ遅れた子供の前へ無言で立った。

 

 怪物が喉を鳴らす。

 

 低く、湿った音。

 

 威嚇ではない。

 

 腹の奥で機械が回っているような、不自然な鳴き声だった。

 

 俺はカメラを首から下げ直した。

 

「普通の顔をした怪物の世界か」

 

 怪物が身を沈める。

 

 跳ぶ。

 

 そう判断するより早く、爪が地面を抉った。

 

 俺は腰に手を伸ばす。

 

 ディケイドライバー。

 

 ベルトが装着される音が、静まり返った通りに響いた。

 

 怪物が壁を蹴る。

 

 灰黒い影が青空を横切る。

 

 俺はカードを取り出した。

 

 卒業写真を撮った指とは違う形で、カードの端を挟む。

 

 目の前に迫る爪。

 

 裂けた口。

 

 揺れる舌。

 

 閉じたシャッターの隙間から、誰かの目がこちらを見ている。

 

「変身」

 

 カードを装填する。

 

 音声が鳴る。

 

 装甲が展開し、視界にマゼンタの線が走った。

 

 世界が一瞬、カードの裏側のように平たくなる。

 

 そして次の瞬間、俺はディケイドとしてその場に立っていた。

 

 怪物の爪が、目前まで迫る。

 

 俺は片足を引き、構えた。

 

 この世界の一枚目は、どうやら怪物の顔から始まるらしい。

 

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