怪物の爪が、目の前まで迫っていた。
閉じたシャッターの列。折れた標識。人気の消えた通り。さっきまで春の光に照らされていた街は、ほんの数秒で別の顔になっていた。
俺は一歩、足を引く。
爪が空を裂いた。
風が仮面の横を掠め、背後の電柱に深い傷を刻む。金属が嫌な音を立てて歪み、標識の残骸がアスファルトの上で跳ねた。
蜥蜴のような怪物は、俺より遥かに大きい。
灰黒い鱗。長い尾。壁に食い込む爪。裂けた口から揺れる細い舌。人間の形から遠いはずなのに、こちらを測る目だけは妙に生々しかった。
「一匹だけじゃなかったか」
路地の奥で、また影が動く。
一体。
二体。
三体。
壁を這い、地面を蹴り、濡れた音を立てながら通りへ出てくる。さっきまでコンビニの看板が揺れていた場所に、灰黒い巨体が並んでいく。
閉じたシャッターの向こうで、小さな息が漏れた。
誰かが見ている。
住民か。
それとも――。
「繁殖力の強そうな世界だな」
ライドブッカーを抜く。
剣形態。
正面の一体が低く沈んだ。
次の瞬間、巨体が弾丸みたいに飛び出す。爪は真っ直ぐ。速い。だが、動きは読みやすい。
俺はライドブッカーの刃を斜めに構えた。
衝撃。
腕に重さが乗る。力で受ければ押し潰される。だから受けない。刃を滑らせ、爪の軌道を横へ逃がす。
怪物の巨体が俺の横を流れた。
尾が遅れて襲ってくる。
低く潜る。
頭の上を尾が薙ぎ、シャッターを叩き潰した。鉄板が凹み、奥から押し殺した悲鳴が聞こえる。
「図体がでかい分、曲がるのは苦手らしい」
俺は身を起こしながら、ライドブッカーで怪物の脚を斬る。
浅い。
鱗が硬い。刃は通るが、決定打にはならない。
なら、削るより崩す。
横から別の一体が飛びかかってきた。
俺はライドブッカーを銃形態へ切り替え、足元へ撃つ。弾丸がアスファルトを抉り、細かな破片が怪物の爪の下へ散った。
滑る。
巨体がわずかに傾く。
そこへ最初の一体が突っ込み、二体の体がぶつかった。鱗と鱗が擦れ合い、耳障りな音が通りに響く。
その隙間を、俺は抜けた。
マゼンタの装甲が、灰黒い巨体の間を走る。
背後ではデルタ達が動いていた。
「ほら、そこ入って! 扉閉めて!」
デルタの声が通りに飛ぶ。
ゼータは逃げ遅れた学生を抱えるようにして、建物の陰へ押し込んでいる。イータは端末を片手に、開いている避難口を指差す。イリスは黙ったまま、子供と怪物の間へ立っていた。
命令もなしに、自然に分かれている。
数年前なら、少し違っただろうか。
いや、考えるのは後だ。
怪物が三方向から来る。
右から爪。
左から尾。
正面から裂けた口。
俺はライドブッカーを剣へ戻し、右の爪を弾く。反動を利用して体を回し、左の尾を紙一重で避ける。正面の口が迫る。
仮面の奥で、怪物の濁った瞳が見えた。
俺はライドブッカーを横に押し込み、牙と牙の間へ刃を噛ませる。
金属が軋む。
「近いな」
そのまま銃形態へ切り替え、口の中へ一発撃つ。
怪物が仰け反った。
だが倒れない。
喉の奥から、湿った音が漏れる。血なのか、体液なのか、黒いものがアスファルトに落ちた。
こいつらは硬い。
それに、数が多い。
時間をかければ住民の避難にも穴が出る。
なら、こっちも手札を変える。
「なら、軽くいくか」
ライドブッカーの中からカードを抜く。
怪物が一斉に動いた。
カードを抜く一瞬を狙ったのか、それともたまたまか。どちらでもいい。爪と尾と牙が、同時にこちらへ迫る。
俺はカードを指に挟んだまま、ライドブッカーで一体の爪を受け流す。足元を滑らせ、尾の下を潜る。背後の壁を蹴り、宙で体をひねった。
その間に、カードをドライバーへ装填する。
「噛み砕く相手を間違えたな」
ドライバーを閉じる。
『KAMEN RIDE KIVA!』
音声が通りに響いた。
マゼンタの装甲が揺らぎ、黒と銀、そして血のような赤を帯びた姿へ変わる。空気が一段低く沈む。閉じたシャッターの奥で、誰かの息が止まった。
仮面の視界が変わる。
街の匂いが濃くなる。灰。鉄。獣の粘液。シャッターの奥の人間の汗。路地の奥に立つ、別の気配。
銃を持つ誰か。
見ている。
怪物が吠えた。
いや、吠えたというより、喉の奥の泥を吐き出すような音だった。
一体目が正面から突っ込んでくる。
俺は地面を蹴った。
体が軽い。
跳躍。
空中で膝を引き、落下に合わせて蹴りを叩き込む。足裏が怪物の頭部にめり込んだ。鱗が割れ、巨体が地面に叩きつけられる。
着地。
振り向きざまに回し蹴り。
二体目の顎が跳ね上がる。牙が砕け、黒い破片が宙に散った。
三体目が壁を這って上から来る。
俺は逆に壁を蹴った。
上へ。
怪物の背中を踏みつけ、落下の勢いを乗せてかかとを叩き込む。巨体がアスファルトへ沈み、地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
残りが距離を取る。
さっきまで距離を測っていた舌が、今度は忙しなく揺れていた。
「どうした。挨拶はもう終わりか」
背後から尾が来る。
俺は振り返らずに身を沈める。尾が頭上を通過した瞬間、片足を軸に回転し、脚を振り抜いた。
蹴りが尾の根元に入る。
怪物の体勢が崩れる。
そこへ踏み込む。
一撃。
二撃。
三撃。
蹴りだけで押し込む。爪を出す暇を与えない。巨体が後退し、壁にぶつかる。コンクリートが砕け、粉塵が舞った。
別の一体が横から来た。
俺は壁を蹴り、宙で体を反転させる。二体の間に落ち、両足で連続して蹴りを入れた。
片方は腹へ。
片方は喉へ。
怪物達の体が左右へ吹き飛ぶ。閉じたシャッターの前で止まり、黒い粒子を散らしながら動かなくなった。
通りに静けさが戻っていく。
残った最後の一体が、路地の入口で身を低くしていた。
逃げるつもりか。
あるいは、まだ狙うつもりか。
その目が一瞬、シャッターの隙間へ向いた。
中には人がいる。
「そっちは駄目だ」
俺は地面を蹴った。
怪物も同時に動く。
シャッターへ向けて跳ぶ巨体。その横腹へ、俺は斜めから飛び込んだ。空中で体をひねり、蹴りを叩き込む。
衝撃で怪物の軌道が曲がる。
そのまま壁へ激突。
まだ終わらない。
俺は着地と同時に再び跳ぶ。
今度は真正面。
怪物が口を開く。
牙が見える。
俺はその牙の間へ、最後の蹴りを突き刺した。
鈍い音。
巨体が路地の奥へ吹き飛び、壁を砕いて止まった。
数秒。
動かない。
やがて、灰黒い体が崩れ、黒い粒子になって風に散っていった。
通りには、砕けたアスファルトと折れた標識だけが残った。
シャッターの向こうで、誰かが小さく息を吐く。
デルタがこちらへ歩いてくる。
「終わり?」
「見える範囲ではな」
ゼータが通りの奥を確認する。
「逃げた個体はいないみたい」
イータが端末を見下ろす。
「反応、消失。残留成分だけ残ってる」
イリスは子供を建物の中へ押し込んだ後、こちらへ視線を向けた。
「戦闘終了と判断します」
「ああ」
俺は変身を解かなかった。
理由は一つ。
ずっと見られていたからだ。
路地の奥。
壊れた非常階段の陰。
そこに、少女が立っていた。
白い上着。黒系のスカート。淡い髪が肩の辺りで揺れている。両手には銃。こちらへ向けてはいないが、下ろしきってもいない。
目が合った。
少女は動かない。
怪物を見ても、俺を見ても、足は一歩も退いていなかった。呼吸は乱れていない。銃を握る指だけが、引き金の手前で静かに止まっている。
この世界の住民ではない。
少なくとも、ただ隠れて震える側ではない。
俺は彼女の方へ歩き出した。
砕けたアスファルトを踏むたび、足元で小さな石が鳴る。少女の銃口が、ほんの少しだけ上がった。
警戒している。
当然だ。
怪物を蹴り倒した通りすがりの仮面ライダーなど、信用する方がどうかしている。
俺は数歩手前で止まった。
「見物料は取らない」
少女の目が細くなる。
俺は肩をすくめた。
「だが、説明くらいはしてもらうぞ」
少女は答えなかった。
代わりに、銃口がわずかにこちらへ向いた。
春の空は、さっきと同じように青い。
だが、その青の下で、この世界はもう普通の顔をしていなかった。