悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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シイナの家にて

 シイナの背中は、細い割に隙がなかった。

 

 銃を片手に下げている。けれど、手放してはいない。歩くたびに銃口は地面を向き、少しでも物音がすれば、すぐに持ち上がる角度にある。

 

 俺達は、蜥蜴のような怪物を倒した通りを離れ、住宅街へ入っていた。

 

 空は相変わらず青い。

 

 青すぎるくらいだ。

 

 それなのに、街のあちこちには似合わないものが混じっている。窓に打ちつけられた補強板。玄関脇の非常灯。電柱に巻かれた避難経路の矢印。塀に残る古い爪痕。

 

 普通の家々が並んでいる。

 

 だが、どの家もほんの少しだけ、外から何かが来ることを知っている顔をしていた。

 

「ずいぶん物騒な住宅街だな」

 

 俺が言うと、シイナは振り返らずに答えた。

 

「普通」

 

「この世界の普通は、なかなか面倒そうだ」

 

「慣れれば分かる」

 

「慣れる前に噛まれそうだが」

 

 シイナは立ち止まらない。

 

 ただ、肩越しに少しだけこちらを見た。

 

「噛まれる前に倒せばいい」

 

「お前の普通もなかなかだな」

 

 デルタが後ろで大きく息を吐いた。

 

「ねえ、ツカサ。私、帰っていい?」

 

「どこへだ」

 

「写真館」

 

「扉が出ればな」

 

「こういう時だけ出ないのよね、あれ」

 

 ゼータが補強板のついた窓を見上げる。

 

「日常が戦場に合わせて形を変えてる」

 

「詩人みたいなこと言うじゃない」

 

「見たまま言っただけ」

 

 イータは端末を見ながら歩いている。時折、画面にノイズが走るたび、指先が止まった。

 

「微弱な残留反応。さっきの侵略種と似てる」

 

 その言葉に、シイナの足が止まった。

 

 銃口が、音もなく横へ向く。

 

 俺も同じ方向を見た。

 

 住宅街の奥。曲がり角の向こう。

 

 風が、乾いた葉を一枚転がしてきた。

 

 それだけだった。

 

 シイナは数秒待った後、銃口を下げる。

 

「……古い痕跡」

 

「よくあるのか」

 

「よくあったら困る」

 

「なら、たまにはあるんだな」

 

 返事はない。

 

 代わりに、シイナは再び歩き出した。

 

 その背中を見て、イリスが低く呟く。

 

「周囲確認の頻度が高いです」

 

「そういう世界なんだろ」

 

「危険の常在が、生活動作に組み込まれています」

 

「難しく言うな」

 

「では、いつも警戒しています」

 

「それでいい」

 

 シイナの家は、住宅街の外れにあった。

 

 二階建ての小さな家。庭には手入れされた鉢植えが並び、玄関先には子供用の靴が一足置かれている。だが、門には補強金具。窓には内側から閉められる厚い雨戸。家の脇には、鍵のかかった金属製の箱があった。

 

 生活と戦いが、同じ敷地に並んでいる。

 

 シイナは玄関に入る前、周囲を一度見回した。空。屋根。路地。排水溝。俺達。最後に、玄関扉。

 

 鍵を開ける。

 

「入って」

 

「監視するだけじゃなかったのか」

 

「外で話すよりは安全」

 

「客扱いは期待しない方がよさそうだな」

 

「期待しないで」

 

 即答だった。

 

 中へ入ると、まず薬品の匂いがした。

 

 それから、油の匂い。

 

 玄関の横には傘立てではなく、細長い金属ケースが置かれている。廊下の壁には家族写真の代わりに、地図と連絡用のメモ。食卓の上には、カップと弾倉と工具が同じ顔で並んでいた。

 

 デルタが眉をひそめる。

 

「ここ、本当に家?」

 

「家」

 

 シイナが靴を脱ぎながら答える。

 

「銃の手入れ場じゃなくて?」

 

「それも兼ねてる」

 

「兼ねちゃ駄目でしょ」

 

 ゼータがテーブルの端に置かれた地図を覗く。

 

 赤い印がいくつも付いていた。海岸線、道路沿い、山へ向かう道。どれも人が通る場所に近い。

 

 俺はカメラを構えかけて、やめた。

 

 他人の家だ。

 

 写真屋にも、最低限の遠慮はある。

 

「侵略種は、どこから来る」

 

 俺が聞くと、シイナは銃をテーブルに置いた。

 

 ただし、手の届く位置に。

 

「決まってない。森から来ることもある。海から上がることもある。地下に潜むこともある。人の生活圏に入り込んで、巣を作って、増える」

 

「災害みたいなものか」

 

「災害なら、通り過ぎる」

 

 シイナはカップを手に取った。

 

 けれど、飲まない。

 

 指先だけが縁をなぞる。

 

「侵略種は残る。増える。学ぶ個体もいる。だから、見つけたら駆除する」

 

「怪物じゃなくて、生き物なんだな」

 

 シイナの目がこちらへ向いた。

 

「生き物だから厄介」

 

「生き物扱いする割には、ずいぶん物騒な呼び方だ」

 

「呼び方を柔らかくしても、死ぬ人は減らない」

 

 短い言葉だった。

 

 その後、カップがテーブルへ戻される。中身は少しも減っていない。

 

 イータが端末を操作する。

 

「侵略種の分類、記録していい?」

 

「外に流さないなら」

 

「流す先がない」

 

「ならいい」

 

 デルタが椅子に腰かける。

 

「増える、学ぶ、襲う。最悪ね」

 

「最悪で済めばいい」

 

 シイナの声は平らだった。

 

 その平らさが、かえってテーブルの上の弾倉を重く見せる。

 

 俺は壁の地図を見た。

 

 赤い印の横に、小さな日付が書かれている。数日前。数週間前。古いものは数ヶ月前。印の間隔は、ばらばらのようでいて、どれも人の暮らしへ寄っていた。

 

 この世界では、怪物が山奥にいるのではない。

 

 家の隣まで来るのだ。

 

 その時、奥の扉が開いた。

 

「お姉ちゃん?」

 

 柔らかい声だった。

 

 シイナの手が、テーブルの上で止まる。

 

 部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 

 奥から少女が出てきた。

 

 シイナより幼く見える。小柄で、足音が軽い。こちらを見た瞬間に少しだけ目を丸くし、それから丁寧に頭を下げた。

 

「おかえりなさい」

 

「ただいま、セツナ」

 

 シイナの声が、さっきまでと違った。

 

 音量は変わらない。

 

 けれど、銃の金属音が消えた後みたいに、角が一つ取れていた。

 

 セツナ。

 

 それが彼女の名前らしい。

 

 セツナは俺達を見回した。

 

 デルタを見て、ゼータを見て、イータを見て、イリスで少し止まり、最後に俺を見た。

 

「お客さん?」

 

「一応」

 

 シイナが答える。

 

「一応って何よ」

 

 デルタが不満そうに言う。

 

「監視対象でもある」

 

「ほら、やっぱり客扱いされてない」

 

 セツナが小さく笑った。

 

 その笑い方は普通だった。

 

 普通の妹が、姉の連れてきた変な客を見て笑うような。

 

 だが、その直後。

 

 セツナの視線が、窓へ向いた。

 

 外では風が鳴っただけだ。

 

 けれど、彼女はまるで何かの匂いを拾ったように、ほんの少しだけ顔を上げた。

 

 イリスも同じ方向を見る。

 

 イータの端末が、小さくノイズを吐いた。

 

 ピ、と短く。

 

 シイナがそちらへ目を向けるより早く、俺はカメラを持ち上げた。

 

「いい家だな」

 

 全員の視線が俺へ向く。

 

 デルタが露骨に顔をしかめた。

 

「急に何?」

 

「写真を撮るには悪くない」

 

「他人の家で?」

 

「許可は取る」

 

 セツナが首を傾げる。

 

「写真屋さんなんですか?」

 

「通りすがりの写真屋だ」

 

「通りすがりが多いね、ツカサ」

 

 ゼータが横から言う。

 

「便利な言葉だからな」

 

 イータは端末を閉じた。

 

 イリスはまだセツナを見ている。

 

 セツナはそれに気づいているのか、いないのか、静かに微笑んだままだった。

 

「あなた、変わった匂いがします」

 

 セツナが言った。

 

 俺に向けて。

 

「よく言われる」

 

「いろんな場所の匂い」

 

「鼻がいいな」

 

「たぶん」

 

 たぶん。

 

 妙な答えだった。

 

 自分の感覚に、確信があるようでない。あるいは、確信があることを隠している。

 

 シイナが半歩、セツナの前に出た。

 

 自然な動きだ。

 

 邪魔をするほど大きくはない。けれど、俺とセツナの間に、細い線が引かれる。

 

 シイナの手は銃へ伸びていない。

 

 だが、銃の位置を忘れてもいない。

 

 セツナはその背中を見た。

 

 ほんの一瞬。

 

 それから、何も気づいていない顔で食卓の方へ歩く。

 

「お茶、淹れるね」

 

「いい。私がやる」

 

「お姉ちゃん、さっき帰ってきたばかり」

 

「大丈夫」

 

「じゃあ、一緒に」

 

 二人は台所へ向かう。

 

 シイナはセツナを先に行かせ、自分は最後までこちらへ視線を残した。扉の向こうへ消える寸前、俺と目が合う。

 

 何も言うな。

 

 そういう目だった。

 

 俺はカメラを下ろした。

 

 撮らない。

 

 今は。

 

 デルタが小声で言う。

 

「ねえ、今の子……」

 

「後だ」

 

 俺が遮ると、デルタは口を閉じた。

 

 ゼータも何も言わない。イータは端末を抱えたまま、画面を開かない。イリスだけが、台所の方を見つめていた。

 

「人間反応に、一部不一致がありました」

 

「聞こえる声で言うな」

 

「了解しました」

 

 イリスは素直に黙った。

 

 素直すぎて逆に困る。

 

 台所から、水の音が聞こえる。

 

 カップが触れ合う軽い音。セツナの小さな声。シイナの短い返事。先ほどまで侵略種の話をしていた同じ家の中で、普通の姉妹の時間が流れている。

 

 普通。

 

 この世界に来てから、何度もその言葉が頭をよぎる。

 

 普通の街。

 

 普通の家。

 

 普通の姉妹。

 

 だが、窓には補強板があり、食卓には弾倉があり、妹の気配には説明しづらいずれがある。

 

 シイナはそれを守っている。

 

 セツナはそれを知っているのか、知らないふりをしているのか。

 

 今、踏み込めば答えは出るかもしれない。

 

 だが、答えを急いで壊れるものもある。

 

 俺はカメラをポケットへしまった。

 

 写真はまだ撮らない。

 

 この家には、光を当てる角度を間違えてはいけないものがある。

 

 しばらくして、シイナとセツナが戻ってきた。

 

 セツナはトレイにカップを並べている。歩幅は小さいが、手元は安定していた。カップの一つを俺の前に置く時、彼女の指が一瞬だけ止まった。

 

 俺を見上げる。

 

「熱いので、気をつけてください」

 

「ああ」

 

 カップから湯気が上がる。

 

 その向こうで、シイナが椅子に座った。

 

 今度は、カップに口をつける。

 

 ほんの少しだけ。

 

 セツナが隣に座っているからかもしれない。

 

「侵略種の話を続ける」

 

 シイナが言った。

 

「その前に」

 

 俺はカップを手に取り、まだ飲まずに聞く。

 

「この家、よく襲われるのか」

 

 シイナは一拍置いた。

 

「ここだけじゃない」

 

「答えになってるようで、なってないな」

 

「この街全部が、いつでも襲われる可能性がある」

 

「なら、お前は何のために戦ってる」

 

 シイナの指がカップの縁で止まる。

 

 セツナは下を向いていた。

 

 湯気が二人の間に細く立ち上がる。窓の外では、夕方の光が補強板の隙間から差し込んでいた。部屋の中に伸びる光は細く、まるで檻の影みたいだった。

 

「ここで暮らすため」

 

 シイナは言った。

 

 その声は短い。

 

 けれど、セツナの膝の上で握られた手が、少しだけ緩んだ。

 

「なるほど」

 

 俺はカップを口へ運ぶ。

 

 少し熱い。

 

 味は普通のお茶だった。

 

 普通のお茶が、妙にこの家に似合っていなかった。

 

 遠くで、警報が一度だけ鳴った。

 

 短く。

 

 シイナの手が、テーブルの上の銃へ伸びる。

 

 セツナは目を伏せた。

 

 デルタ達の空気が変わる。

 

 俺もカップを置いた。

 

 だが、二度目の警報は鳴らない。

 

 シイナは数秒待ち、銃から手を離した。

 

「誤報?」

 

 デルタが聞く。

 

「確認中の合図」

 

 シイナは窓の外を見たまま答えた。

 

「この世界は、茶もゆっくり飲ませてくれないらしい」

 

「慣れて」

 

「努力はする」

 

 俺はセツナを見た。

 

 彼女は顔を上げていた。

 

 窓の外ではなく、俺を見ている。

 

 その目は、さっきより少しだけ静かだった。

 

 この家には、まだ聞くことが多い。

 

 侵略種のこと。

 

 シイナのこと。

 

 そして、セツナのこと。

 

 だが、今すぐではない。

 

 俺はカップを置き、肩をすくめた。

 

「話の続きだ。まずは、この世界の常識から教えてもらおうか」

 

 シイナは銃をテーブルの端へ戻した。

 

 セツナは、冷めかけたお茶に両手を添える。

 

 夕方の光が、少しずつ部屋の奥へ沈んでいった。

 

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