シイナの背中は、細い割に隙がなかった。
銃を片手に下げている。けれど、手放してはいない。歩くたびに銃口は地面を向き、少しでも物音がすれば、すぐに持ち上がる角度にある。
俺達は、蜥蜴のような怪物を倒した通りを離れ、住宅街へ入っていた。
空は相変わらず青い。
青すぎるくらいだ。
それなのに、街のあちこちには似合わないものが混じっている。窓に打ちつけられた補強板。玄関脇の非常灯。電柱に巻かれた避難経路の矢印。塀に残る古い爪痕。
普通の家々が並んでいる。
だが、どの家もほんの少しだけ、外から何かが来ることを知っている顔をしていた。
「ずいぶん物騒な住宅街だな」
俺が言うと、シイナは振り返らずに答えた。
「普通」
「この世界の普通は、なかなか面倒そうだ」
「慣れれば分かる」
「慣れる前に噛まれそうだが」
シイナは立ち止まらない。
ただ、肩越しに少しだけこちらを見た。
「噛まれる前に倒せばいい」
「お前の普通もなかなかだな」
デルタが後ろで大きく息を吐いた。
「ねえ、ツカサ。私、帰っていい?」
「どこへだ」
「写真館」
「扉が出ればな」
「こういう時だけ出ないのよね、あれ」
ゼータが補強板のついた窓を見上げる。
「日常が戦場に合わせて形を変えてる」
「詩人みたいなこと言うじゃない」
「見たまま言っただけ」
イータは端末を見ながら歩いている。時折、画面にノイズが走るたび、指先が止まった。
「微弱な残留反応。さっきの侵略種と似てる」
その言葉に、シイナの足が止まった。
銃口が、音もなく横へ向く。
俺も同じ方向を見た。
住宅街の奥。曲がり角の向こう。
風が、乾いた葉を一枚転がしてきた。
それだけだった。
シイナは数秒待った後、銃口を下げる。
「……古い痕跡」
「よくあるのか」
「よくあったら困る」
「なら、たまにはあるんだな」
返事はない。
代わりに、シイナは再び歩き出した。
その背中を見て、イリスが低く呟く。
「周囲確認の頻度が高いです」
「そういう世界なんだろ」
「危険の常在が、生活動作に組み込まれています」
「難しく言うな」
「では、いつも警戒しています」
「それでいい」
シイナの家は、住宅街の外れにあった。
二階建ての小さな家。庭には手入れされた鉢植えが並び、玄関先には子供用の靴が一足置かれている。だが、門には補強金具。窓には内側から閉められる厚い雨戸。家の脇には、鍵のかかった金属製の箱があった。
生活と戦いが、同じ敷地に並んでいる。
シイナは玄関に入る前、周囲を一度見回した。空。屋根。路地。排水溝。俺達。最後に、玄関扉。
鍵を開ける。
「入って」
「監視するだけじゃなかったのか」
「外で話すよりは安全」
「客扱いは期待しない方がよさそうだな」
「期待しないで」
即答だった。
中へ入ると、まず薬品の匂いがした。
それから、油の匂い。
玄関の横には傘立てではなく、細長い金属ケースが置かれている。廊下の壁には家族写真の代わりに、地図と連絡用のメモ。食卓の上には、カップと弾倉と工具が同じ顔で並んでいた。
デルタが眉をひそめる。
「ここ、本当に家?」
「家」
シイナが靴を脱ぎながら答える。
「銃の手入れ場じゃなくて?」
「それも兼ねてる」
「兼ねちゃ駄目でしょ」
ゼータがテーブルの端に置かれた地図を覗く。
赤い印がいくつも付いていた。海岸線、道路沿い、山へ向かう道。どれも人が通る場所に近い。
俺はカメラを構えかけて、やめた。
他人の家だ。
写真屋にも、最低限の遠慮はある。
「侵略種は、どこから来る」
俺が聞くと、シイナは銃をテーブルに置いた。
ただし、手の届く位置に。
「決まってない。森から来ることもある。海から上がることもある。地下に潜むこともある。人の生活圏に入り込んで、巣を作って、増える」
「災害みたいなものか」
「災害なら、通り過ぎる」
シイナはカップを手に取った。
けれど、飲まない。
指先だけが縁をなぞる。
「侵略種は残る。増える。学ぶ個体もいる。だから、見つけたら駆除する」
「怪物じゃなくて、生き物なんだな」
シイナの目がこちらへ向いた。
「生き物だから厄介」
「生き物扱いする割には、ずいぶん物騒な呼び方だ」
「呼び方を柔らかくしても、死ぬ人は減らない」
短い言葉だった。
その後、カップがテーブルへ戻される。中身は少しも減っていない。
イータが端末を操作する。
「侵略種の分類、記録していい?」
「外に流さないなら」
「流す先がない」
「ならいい」
デルタが椅子に腰かける。
「増える、学ぶ、襲う。最悪ね」
「最悪で済めばいい」
シイナの声は平らだった。
その平らさが、かえってテーブルの上の弾倉を重く見せる。
俺は壁の地図を見た。
赤い印の横に、小さな日付が書かれている。数日前。数週間前。古いものは数ヶ月前。印の間隔は、ばらばらのようでいて、どれも人の暮らしへ寄っていた。
この世界では、怪物が山奥にいるのではない。
家の隣まで来るのだ。
その時、奥の扉が開いた。
「お姉ちゃん?」
柔らかい声だった。
シイナの手が、テーブルの上で止まる。
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。
奥から少女が出てきた。
シイナより幼く見える。小柄で、足音が軽い。こちらを見た瞬間に少しだけ目を丸くし、それから丁寧に頭を下げた。
「おかえりなさい」
「ただいま、セツナ」
シイナの声が、さっきまでと違った。
音量は変わらない。
けれど、銃の金属音が消えた後みたいに、角が一つ取れていた。
セツナ。
それが彼女の名前らしい。
セツナは俺達を見回した。
デルタを見て、ゼータを見て、イータを見て、イリスで少し止まり、最後に俺を見た。
「お客さん?」
「一応」
シイナが答える。
「一応って何よ」
デルタが不満そうに言う。
「監視対象でもある」
「ほら、やっぱり客扱いされてない」
セツナが小さく笑った。
その笑い方は普通だった。
普通の妹が、姉の連れてきた変な客を見て笑うような。
だが、その直後。
セツナの視線が、窓へ向いた。
外では風が鳴っただけだ。
けれど、彼女はまるで何かの匂いを拾ったように、ほんの少しだけ顔を上げた。
イリスも同じ方向を見る。
イータの端末が、小さくノイズを吐いた。
ピ、と短く。
シイナがそちらへ目を向けるより早く、俺はカメラを持ち上げた。
「いい家だな」
全員の視線が俺へ向く。
デルタが露骨に顔をしかめた。
「急に何?」
「写真を撮るには悪くない」
「他人の家で?」
「許可は取る」
セツナが首を傾げる。
「写真屋さんなんですか?」
「通りすがりの写真屋だ」
「通りすがりが多いね、ツカサ」
ゼータが横から言う。
「便利な言葉だからな」
イータは端末を閉じた。
イリスはまだセツナを見ている。
セツナはそれに気づいているのか、いないのか、静かに微笑んだままだった。
「あなた、変わった匂いがします」
セツナが言った。
俺に向けて。
「よく言われる」
「いろんな場所の匂い」
「鼻がいいな」
「たぶん」
たぶん。
妙な答えだった。
自分の感覚に、確信があるようでない。あるいは、確信があることを隠している。
シイナが半歩、セツナの前に出た。
自然な動きだ。
邪魔をするほど大きくはない。けれど、俺とセツナの間に、細い線が引かれる。
シイナの手は銃へ伸びていない。
だが、銃の位置を忘れてもいない。
セツナはその背中を見た。
ほんの一瞬。
それから、何も気づいていない顔で食卓の方へ歩く。
「お茶、淹れるね」
「いい。私がやる」
「お姉ちゃん、さっき帰ってきたばかり」
「大丈夫」
「じゃあ、一緒に」
二人は台所へ向かう。
シイナはセツナを先に行かせ、自分は最後までこちらへ視線を残した。扉の向こうへ消える寸前、俺と目が合う。
何も言うな。
そういう目だった。
俺はカメラを下ろした。
撮らない。
今は。
デルタが小声で言う。
「ねえ、今の子……」
「後だ」
俺が遮ると、デルタは口を閉じた。
ゼータも何も言わない。イータは端末を抱えたまま、画面を開かない。イリスだけが、台所の方を見つめていた。
「人間反応に、一部不一致がありました」
「聞こえる声で言うな」
「了解しました」
イリスは素直に黙った。
素直すぎて逆に困る。
台所から、水の音が聞こえる。
カップが触れ合う軽い音。セツナの小さな声。シイナの短い返事。先ほどまで侵略種の話をしていた同じ家の中で、普通の姉妹の時間が流れている。
普通。
この世界に来てから、何度もその言葉が頭をよぎる。
普通の街。
普通の家。
普通の姉妹。
だが、窓には補強板があり、食卓には弾倉があり、妹の気配には説明しづらいずれがある。
シイナはそれを守っている。
セツナはそれを知っているのか、知らないふりをしているのか。
今、踏み込めば答えは出るかもしれない。
だが、答えを急いで壊れるものもある。
俺はカメラをポケットへしまった。
写真はまだ撮らない。
この家には、光を当てる角度を間違えてはいけないものがある。
しばらくして、シイナとセツナが戻ってきた。
セツナはトレイにカップを並べている。歩幅は小さいが、手元は安定していた。カップの一つを俺の前に置く時、彼女の指が一瞬だけ止まった。
俺を見上げる。
「熱いので、気をつけてください」
「ああ」
カップから湯気が上がる。
その向こうで、シイナが椅子に座った。
今度は、カップに口をつける。
ほんの少しだけ。
セツナが隣に座っているからかもしれない。
「侵略種の話を続ける」
シイナが言った。
「その前に」
俺はカップを手に取り、まだ飲まずに聞く。
「この家、よく襲われるのか」
シイナは一拍置いた。
「ここだけじゃない」
「答えになってるようで、なってないな」
「この街全部が、いつでも襲われる可能性がある」
「なら、お前は何のために戦ってる」
シイナの指がカップの縁で止まる。
セツナは下を向いていた。
湯気が二人の間に細く立ち上がる。窓の外では、夕方の光が補強板の隙間から差し込んでいた。部屋の中に伸びる光は細く、まるで檻の影みたいだった。
「ここで暮らすため」
シイナは言った。
その声は短い。
けれど、セツナの膝の上で握られた手が、少しだけ緩んだ。
「なるほど」
俺はカップを口へ運ぶ。
少し熱い。
味は普通のお茶だった。
普通のお茶が、妙にこの家に似合っていなかった。
遠くで、警報が一度だけ鳴った。
短く。
シイナの手が、テーブルの上の銃へ伸びる。
セツナは目を伏せた。
デルタ達の空気が変わる。
俺もカップを置いた。
だが、二度目の警報は鳴らない。
シイナは数秒待ち、銃から手を離した。
「誤報?」
デルタが聞く。
「確認中の合図」
シイナは窓の外を見たまま答えた。
「この世界は、茶もゆっくり飲ませてくれないらしい」
「慣れて」
「努力はする」
俺はセツナを見た。
彼女は顔を上げていた。
窓の外ではなく、俺を見ている。
その目は、さっきより少しだけ静かだった。
この家には、まだ聞くことが多い。
侵略種のこと。
シイナのこと。
そして、セツナのこと。
だが、今すぐではない。
俺はカップを置き、肩をすくめた。
「話の続きだ。まずは、この世界の常識から教えてもらおうか」
シイナは銃をテーブルの端へ戻した。
セツナは、冷めかけたお茶に両手を添える。
夕方の光が、少しずつ部屋の奥へ沈んでいった。