食卓には飲みかけの茶椀が並び、その隣には弾薬箱が無造作に置かれていた。散弾と狙撃用の弾が、仕切り板で区切られている。シイナは片づけをしながらも、時折その箱に目をやっていた。明日の準備はもうできている、という顔だ。
「ニュースでも見る?」
セツナが茶椀を下げながら、リモコンを手に取った。シイナが「そうだね」と頷くより先に、画面が点く。
最初は天気予報だった。週明けの離島周辺は晴れ、風やや強し。そんな当たり障りのない情報が、女性アナウンサーの穏やかな声で流れていく。デルタはすでに畳の上で寛いでいて、尾をだらりと投げ出していた。ゼータは壁際で膝を抱え、イータは端末の画面を眺めている。
「――ここで臨時ニュースです」
画面が切り替わった。アナウンサーの表情が硬くなる。デルタの耳が、わずかに動いた。
「本日未明、国連危険生物調査機関・通称EXCEEDSが、瑞穂国内における正式な活動を開始したと発表しました」
俺は手にしていた茶椀を置き、画面へ目を向けた。
EXCEEDS。
画面には、記者会見らしき映像が映し出されている。長テーブルの向こうに、数人の人影。その中央で、茶色の髪を短く切りそろえた若い女性が、落ち着いた表情でマイクに向かっていた。
「同機関は、侵略性外来生物による被害が拡大する中、国際的な連携のもとで対策を強化するため設立されたとしています。国内における活動拠点は明らかにされておりませんが――」
アナウンサーの声が続く。画面の隅には「国連調査機関EXCEEDS、活動開始」の文字。
「EXCEEDS、か」
俺は小さく呟いた。
「知ってるのか、ツカサ」
ゼータが顔をこちらへ向ける。猫のような瞳が、テレビの青白い光を反射していた。
「いいや。ただ、名前だけは覚えておいた方が良さそうだ」
「組織名に反応した」
イータが端末から顔を上げずに言う。画面にはニュースの内容を記録したメモが、淡々と打ち込まれている。
「反応というほどでもない。世界を渡ってりゃ、こういう組織には何度か出くわす」
俺は再び画面を見た。会見場の中央に座る女性は、若い。二十代半ばといったところか。肩書きは「EXCEEDS総督」。こんな若さで総督とは、よほどの才覚か、あるいはよほどの事情があるかだ。
テレビの青白い光が、窓に取り付けられた補強板を照らしている。壁に立てかけられた散弾銃の銃身にも、同じ光が細く反射していた。
「活動内容は不明だけど、この地域にも来るのかな」
シイナが茶椀を手にしたまま、画面を見つめている。その声には、期待よりも警戒が混じっていた。ハンターとしての本能だろう。他所から来た組織が、自分たちの生活圏に何を持ち込むか、計りかねている。
「来るなら来るで、話を聞けばいい」
俺は肩をすくめた。
「面倒事でなければな」
「ツカサはすぐ面倒事に巻き込まれる」
ゼータがぼそりと言った。
「俺のせいじゃない。向こうから来るんだ」
「いつもそう言う」
「事実だ」
イータは黙って端末を操作している。ニュース映像を解析しているのか、画面には波形やら数値やらが並んでいた。時計の針だけが、かちり、かちりと夜の静けさを刻んでいる。
ニュースは次の話題に移った。どこかの地域で確認された新種の侵略種についてだ。映像には、ぼやけた監視カメラの映像が映っている。大型の四足獣のような影が、夜の街を横切っていた。
「これ、隣の島のだ」
シイナの声が低くなる。茶椀を置く手が、一瞬止まった。
「まだ駆除されてないんだ。こっちに来なきゃいいけど」
「来たら、あたしが倒す」
デルタが顔を上げ、尾を一度大きく振った。どうやら眠ってはいなかったらしい。画面の影に映る獣を見て、口元がわずかに緩んでいる。
「倒すのはいいが、周りを見ろよ」
「わかってる。ツカサがうるさいから」
「うるさくて結構」
俺は茶椀の底に残った茶を一口で飲み干した。
画面の中では、アナウンサーが「引き続き警戒を呼びかけています」と締めくくっている。会見場にいた女性の顔が、もう一度映し出された。茶色の髪。落ち着いた視線。口元は微笑んでいるようにも、何かを耐えているようにも見える。
EXCEEDS総督。
この世界で、何を知っていて、何をしようとしているのか。まだわからない。わからないが、覚えておくに越したことはない。
「明日も早いし、そろそろ休もうか」
シイナが腰を上げた。セツナがリモコンを手に取り、テレビの電源を切る。青白い光が消え、部屋には暖色の小さな照明だけが残った。
弾薬箱はまだ食卓の上にある。明日の準備は、もうできている。
外は静かな夜だった。風の音さえも、補強板に遮られて届かない。家の中では、時計の針だけがかちり、かちりと音を重ねている。
リモコンが、手の中でかすかに滑った。
画面が記者会見場に切り替わる。長テーブル、マイクの束、無数のフラッシュ。そして、その後ろに掲げられた巨大な紋章――国連危険生物調査機関、EXCEEDS。
中央に立ったのは、白いコートをまとった一人の女性だった。
茶色の髪を短く切りそろえ、背筋を伸ばしてマイクの前に立つ。大人びた顔立ちには見覚えがある。いや、見覚えどころじゃない。俺はその顔を知っている。声を知っている。笑い方を知っている。無茶をしようとして、俺に止められた時の、あの困ったような顔も。
「――八神はやてです」
聞き慣れた関西弁が、スピーカーを通して部屋に流れた。
デルタが椅子から身を乗り出す。耳が前方へ向き、尾がぴんと立ったまま動かない。ゼータはいつもの無表情のままだったが、膝の上に置いた尾の先が、ぴたりと静止していた。
「EXCEEDSは、侵略種による脅威に対し、国際的な連携のもとで対策を強化するために設立されました。本日より、瑞穂国内での正式な活動を開始します」
はやては落ち着いていた。大勢の記者を前にして、声は少しも揺れていない。白いコートの肩には、総督を示す徽章が光っている。
はやて、総督になったのか。
俺が最後に見たはやては、まだあんなに大人びてはいなかった。なのはやフェイトと三人で並んで、俺に敬礼してみせたあの日。あれから、どれだけ経った。
「ツカサ」
イータが端末を手にしたまま、小さく呟いた。
「年齢差を計算――」
「数えるな」
俺は短く遮った。
「でも」
「今はいい」
イータは端末を置いた。計算をやめたわけじゃない。ただ、今はやらない。俺の声が、そう判断させたのだろう。
画面の中では、記者からの質問が飛んでいる。侵略種の分類基準について、活動拠点について、世界各国との連携について。はやては一つひとつに、淀みなく答えていく。
ああ、そういうことか。
俺は茶椀を置いて、背もたれに体重を預けた。シイナは画面を見つめたまま、何かを考えているようだった。セツナはシイナの隣で、不安げに姉の袖をつまんでいる。
「知ってる人?」
シイナが振り返らずに尋ねた。
「昔の教え子だ」
俺は短く答えた。それ以上、何を言う必要がある。教え子が、世界を救おうとしている。ただそれだけの話だ。
記者会見はまだ続いている。はやては一瞬だけ、カメラの奥を見たような気がした。もちろん、俺たちが見えているわけじゃない。けれど、その目は何かを探しているようにも、誰かに報告しているようにも見えた。
「大きくなったな」
俺の呟きに、デルタが尾を一度だけ揺らした。
「ツカサ、嬉しそうじゃない」
「別に」
「声が、ちょっとだけ」
「気のせいだ」
画面の中のはやては、次の質問に答えながら、ほんの少しだけ口元を緩めていた。あれは、何かを決意した人間の笑い方だ。誰かに教えられたことを、今度は自分がやる番だと、そう思っている顔だ。
お前なら大丈夫だとは、言わない。言う必要がない。もう、あの頃の子供じゃない。
外では風が少しだけ強くなって、補強板をかすかに震わせていた。時計の針だけが、いつもと変わらず夜の時間を刻んでいる。