廊下を戻る足が、止まった。
イータの端末が、かすかに震えている。着信でも警告でもない。これは、もっと原始的な反応だ。未知の魔力、あるいはそれに似た何かを探知した時の、予備動作。
「ツカサ」
イータの声は眠そうなままだったが、指だけは端末の上で高速に動いていた。
「反応、一。人間じゃない。侵略種でもない。未分類」
「数は」
「一つ。距離、近い。庭――」
言葉の終わりを待たずに、空気が裂けた。
窓ガラスが砕け、補強板を貫いて黒い何かが室内へ突き刺さる。テーブルをかすめ、床をえぐり、壁際に並べられた鉢植えを粉々に砕いた。土と陶器の破片が、月明かりに照らされて舞い上がる。
「セツナ!」
シイナの声が、爆発のような破壊音を切り裂いた。彼女は自分の足に飛んできたガラスの破片も構わず、食卓の上にあった二つのカップを身体で庇う。姉妹が夕食の後に使っていた、揃いの湯飲みだ。
セツナは壁際に立ちすくんでいた。差し出しかけた手が、自分の胸元へ引き戻される。何かをしようとして、思いとどまった。その一瞬の動きを、俺は見逃さない。
「デルタ、ゼータ、イータ」
俺は三人の名を短く呼んだ。
「家の出入口を固めろ。誰も入れるな」
デルタはすでに低く身をかがめ、尾を逆立てている。ゼータは無言で玄関の方へ走り、イータは端末を構えたまま廊下の奥へ下がった。それぞれが動くべき場所を知っている。
砕けた窓の向こう、月明かりの下に、人影があった。
黒い外套。顔は隠している。右手からは、さっき室内を貫いたものと同じ、黒い杭のようなものが、まだ何本も伸びていた。あれが武器か、あるいは体の一部か。
「シイナ」
俺はセツナの前へ立った。腰のライドブッカーに手をかける。
「お前はセツナを頼む。あいつは俺が止める」
「でも――」
「散弾銃なら、あの外套に効かないかもしれない。試す価値はあるが、今はまだ早い」
シイナは一瞬、唇を噛んだ。けれど次の瞬間には、壁に立てかけてあった散弾銃を手に取り、セツナを背中にかばう位置へ移動している。判断が早い。さすがはハンターだ。
庭の男は、まだ動かない。ただ、顔の隠れた闇の奥から、こちらを見ている。
月明かりが、砕けた窓枠を通して刃のように差し込んでいた。床に散ったガラスの破片が、無数の小さな星のように光っている。穏やかだった夜は、もうどこにもない。
「お前の用件はなんだ」
俺はライドブッカーを抜き、剣形態のまま構えた。
男は答えない。代わりに、右手の黒い杭が、さらに一本、伸びた。
夜の静けさは破られた。時計の針だけが、まだかちり、かちりと、この家の時間を刻み続けている。
庭の影が、増えていく。
男の右手から伸びた黒い杭が、月光を背に三本、四本と数を増やしていた。どれも先端は鋭く尖り、表面には生物的な脈動すら感じられる。侵略種とも違う、あるいは魔人とも違う。俺の知らない何かだ。
「目的は」
俺はライドブッカーを構えたまま、もう一度問うた。
男の顔は外套の奥で見えない。けれど、その闇の向こうから、かすかに笑った気配がした。
「確認だ」
声は低く、平坦だった。感情を押し殺しているというより、最初からそこに感情がないような、奇妙な響き。
「何を確認する」
「お前ではない。その女の中にあるものだ」
外套の奥の顔が、わずかに動いた。シイナの方を見たのだ。
俺の後ろで、シイナが散弾銃を構え直す気配がした。装填された弾が、かちりと薬室に送り込まれる音。彼女は一歩も退いていない。セツナを背中に庇ったまま、銃口を庭の男へ向けている。
「あたしの中に、何があるって言うの」
シイナの声は震えていなかった。ハンターとしての顔だ。質問の答えを待っているのではなく、その間に次の手を考えている声。
男は答えない。
代わりに、右手の黒い杭が一斉に射出された。
「シイナ!」
俺は叫ぶより早く、ライドブッカーを振るった。剣形態の刃が、先頭の杭を弾き飛ばす。衝撃が手首にまで響く。普通の金属じゃない。密度が違う。二本目が俺の肩すれすれを抜け、三本目がシイナの目前まで迫った。
散弾が炸裂した。
シイナは引き金を引いた後だった。散弾が黒い杭を削り、破片と火花が夜の庭へ降り注ぐ。完全には破壊できない。だが、軌道を逸らすには十分だ。杭はシイナの髪をかすめて、壁に突き刺さった。
「外皮、硬い。散弾じゃ一発じゃ無理か」
シイナは舌打ちもせず、淡々と状況を口にした。次の装填はもう終わっている。背後のセツナを振り返らないのは、信頼か、それとも戦闘中の隙を見せない訓練の結果か。
家の明かりが、先ほどの衝撃で消えていた。月明かりと、発砲の閃光だけが、姉妹の顔を断続的に照らす。シイナの青緑の瞳は、暗がりの中で鋭く光っている。セツナは壁際で、両手を胸の前で握りしめていた。
俺はセツナの手が、わずかに動くのを見た。
右手が、何かを掴もうとするように開かれる。指先がかすかに震え、空気が歪む。俺の目には見える。あれは力を使おうとしている。人間ではない何かの力を。
俺は半歩下がり、セツナの手を上から押さえた。冷たい指だった。十一歳の体温じゃない。
「今は使うな」
声はシイナに聞こえないよう、セツナの耳元だけで。
セツナがはっと顔を上げる。琥珀色の瞳が、驚きに見開かれた。
「でも、しーちゃんが――」
「あいつはまだ戦える。お前が正体を晒すのは、本当にどうしようもなくなってからでいい」
セツナの唇が、何かを言おうと動いて、止まった。指から力が抜けていく。空気の歪みが消えた。
昼間までと同じ妹でいられなくなる。その未来が、今この瞬間に始まるかもしれない。そう思ったら、指が止まったのだろう。自分で選んだのか、俺に止められたからか。どちらでもいい。今はまだ、その時じゃない。
俺はセツナの手を離し、男へ向き直った。
「確認だけなら、もう十分だろ」
「まだだ。まだ確認できていない」
男の右手に、さらに黒い杭が生まれる。今度は五本。庭の影が、杭の数だけ増えていく。月明かりさえも、その黒さには吸い込まれて消える。
俺はライドブッカーを腰のネオディケイドライバーの横に戻し、代わりにカードを一枚、指で抜き取った。
「なら、こっちも確認させてもらう」
カードをドライバーへ装填する。閉じたバックルが、かちりと音を立てた。
『KAMEN RIDE DECADE!』
マゼンタの光が、夜の庭を塗り替える。装甲が全身を覆い、視界がクリアになる。男の姿が、さっきよりもはっきり見える。外套の奥の顔は、やはり闇のままだ。
「仮面ライダー……この世界のものではないな」
男の声に、初めて感情が混じった。興味だ。
「…仮面ライダーを知っているだと」
ライドブッカーを剣形態で構え直す。シイナは俺の横で、散弾銃の銃口を下げていない。セツナは壁際で、まだ両手を胸に握ったままだ。庭には砕けた鉢植えと、黒い杭の破片と、無数のガラスの破片が散らばっている。
時計の針は、もう夜中の二時を回ろうとしていた。この家の時間は、まだ止まっていない。