湖面は、鏡みたいに凪いでいた。
朝霧が水面を覆い、対岸の輪郭すら暧昧になっている。静かだ。鳥の声も、虫の音もしない。ただ、湿った空気が肺にへばりつくような、重苦しい沈黙だけがある。
俺は湖畔の茂みに身を潛め、息を殺していた。右隣にはゼータが、さらにその先にはシイナがうずくまっている。シイナは散弾銃を抱き込み、左手のエンゲージリングを胸元で握りしめていた。緊張しているのが、背中の筋肉の硬さだけでわかる。
対岸。
霧の向こうに、そいつは立っていた。
いや、立っているという表現は正しくない。あれは、木だ。
高さは優に五十メートルを超えているだろう。太い幹が水面から隆起し、無数の枝を空へ向けて伸ばしている。一見すれば、ただの巨木だ。だが、よく見ればわかる。樹皮の表面が不規則に脈打ち、枝の先端が蛇のようにうねっている。根が湖底を掻き回し、水面を波立たせている。
植物型の侵略種。いや、植物そのものを食らい尽くし、その姿を奪ったような冒涜的な擬態。
「…あれが、原種」
シイナが、絞り出すような声で呟いた。
俺は頷かない。頷く余裕なんてない。ただ、忌々しいものを見る目で、あの巨体を睨みつけていた。
「まだ動かない方がいい」
ゼータが、俺の袖を軽く引いた。彼女の金色の瞳が、原種の枝の先を凝視している。
「枝の先、見て。胞子が出てる」
言われて目を凝らすと、枝の節々から、薄緑色の霧のようなものが噴き出しているのが見えた。胞子だ。風に乗って湖面を這うように広がっていく。霧と混ざり合い、視界をより悪くしていく。
そして、湖面の下。
胞子が落ちた水面から、無数の気泡が沸き上がっていた。ボコボコと、まるで湖全体が煮え立っているみたいに。
「大繁殖の前触れ、か」
はやての言葉が脳裏をよぎる。原種は親だ。そして親は、子を産む。このまま放置すれば、あの胞子が周辺一帯を侵食し、この湖を侵略種の巣窟に変えてしまう。
俺はカメラを構えなかった。こんな光景、写真に収めたところで何になる。ただの悪夢だ。それも、現実に起きている最悪の悪夢。
「シイナ」
俺は小声で呼びかけた。彼女が顔を上げる。青緑色の瞳が、不安と決意の色で揺れている。
「あいつの懐に飛び込むぞ。針は研げたな?」
シイナは、一瞬だけ左手を見て、それから俺を真っ直ぐに見返した。
「…うん。やるよ」
強い言葉だった。二ヶ月前の、ただ守られるだけだった少女の声じゃない。
俺は腰のネオディケイドライバーに手をかけた。冷たい金属の感触が、火照った指先を冷静にしてくれる。
「よし。なら、行くぞ」
湖面の気泡が、いっそう激しく沸き上がった。始まる。