朝日が、湖面を金色に染めていく。
原種が消えた後、あとに残ったのは無数の黒い粒子だけだった。風に乗って舞い上がり、朝霧と混ざり合いながら消えていく。湖は静かだった。さっきまでの戦闘が嘘みたいに、波ひとつ立っていない。
シイナは、湖岸に膝をついていた。肩で息をし、額には汗が浮かんでいる。けれど、その顔に苦しさはない。むしろ、何かを確かめるような、真剣な目をしていた。
彼女の左手で、エンゲージリングが光っている。これまでにないほど、強く。炎のような赤橙の光が、リングの宝石から溢れ出し、シイナの手全体を包み込んでいた。原種を倒した直後、彼女の身体が自動的に吸収したのだ。あの巨体が持っていた莫大な生命力、再生力、そして繁殖力。その欠片が、今はシイナの中にある。
「大丈夫か」
俺は変身を解除し、彼女のそばに歩み寄った。心配はしていない。ただ、確認するだけだ。
「…うん、大丈夫。すごい力。でも、ちゃんと制御できてる」
シイナは自分の手を見つめながら言った。その声は、どこか遠くを見ているようでもあり、自分の内側を見つめているようでもあった。
驚くほど、彼女は落ち着いている。原種の力だ。普通なら、制御不能になるほどのマナの奔流に襲われてもおかしくない。セツナという存在が、あるいは彼女自身の素質が、それを安定させているのだろう。シイナの瞳の奥で、かすかに紫電のような光が過ぎったが、すぐに収まった。
「これだけの力があれば、セツナともう一度…」
彼女は立ち上がり、右手を空へかざした。指先に炎が灯る。それは、彼女が今日、俺と一緒に放ったあの羽のような炎の再現だった。彼女はそれを、無数の火の粉として拡散させようとする。
だが、炎はまとまらずに散ってしまう。彼女の顔に、少しだけ悔しさが浮かんだ。
「いまいち、か」
俺は口元をほんの少しだけ緩めた。彼女はまだ不完全だ。だが、旅は始まったばかりだ。完璧である必要はない。
「焦るな。お前はもう、岩を穿つ針じゃない。だからといって、いきなり空を覆う翼になる必要もない。お前はお前の燃やし方を覚えればいい。例えば、最初はもっと不格好な『羽ばたき』から始めるんだな」
俺の皮肉めいた言い方に、シイナは「むぅ…」と少しだけ頬を膨らませる。彼女がそんな子供っぽい表情を見せるのは珍しい。余裕が出てきた証拠だ。
「はーい、お疲れ様、二人とも!」
背後から、明るい声が飛んできた。振り返ると、なのはがレイジングハートを杖だけの姿に戻し、手を振りながら歩いてくる。彼女の後ろには、バルディッシュを構えたフェイトと、尻尾をゆらゆらさせているデルタ。そして、いつの間にかすぐ近くの木陰に立っていたゼータも、静かに合流してきた。
「シイナさん、最後のあれ、すごかったです! まるで花火みたいで、綺麗で、それに、とっても熱くて!」
なのはが目を輝かせる。純粋な賞賛だ。隣のフェイトも、柔らかな笑みを浮かべて何度も頷いている。
「ええ。短い間に、見違えるような成長だった。原種の力を、あそこまで綺麗に吸収するなんて」
「シイナ、すごい! あたしも混ざりたかった!」
デルタは、まだ興奮冷めやらぬ様子でピョンピョン跳ねている。原種の足止めだけでなく、彼女は彼女で大暴れしていたはずだ。ゼータは無言でシイナの側に歩み寄り、その手にあるリングをじっと見つめた。
「乱れはない。安定してる。でも、まだ起動しきっていない感じ?」
「うん…。さっきツカサさんが言ったみたいに、翼にはまだ遠いみたい」
シイナが苦笑いしながら答える。ゼータはその答えに満足したのか、小さく頷いて一歩下がった。
「なにはともあれ、です」
なのはが、場をまとめるようにパン、と手を叩いた。
「これで国内の原種はあと二体。今日のデータがあれば、残りの二体も、きっと倒せます!」
その言葉に、シイナが力強く頷く。フェイトも、デルタも。皆、今日の勝利が大きな一歩だと理解している。
「とりあえず、だ」
俺は皆の顔を見回してから、背を向けた。
「腹が減った。飯にするぞ」
「えー、先生、またそうやって話を終わらせる! もっとこう、感動的なまとめとか!」
なのはが後ろから抗議の声を上げる。フェイトがクスクスと笑い、デルタが「肉! 肉がいい!」と叫ぶ。シイナも、どこか呆れたように、でも確かに笑って言った。
「ツカサさんって、ほんと、そういう人だよね」
俺は振り返らない。ただ、右手を軽く挙げて応えるだけだ。
湖には、穏やかな朝が訪れていた。恐怖の象徴だった原種は消え、静かな水鏡だけが残されている。まるで、世界が少しだけ、深呼吸をしたみたいに。
シイナが呟く。その声は、湖面を渡るそよ風に乗って、俺の耳にも届いた。
「これでちょっとは、セツナに良い報告ができるかな。お姉ちゃん、ちょっとはカッコよくなれたって。…でも、叱られるかもね。『また無茶したの?』って」
俺は足を止めない。だが、口元に浮かんだ笑みは、誰にも見られてはいないだろう。
「ああ、らしいな。実に、お前たち姉妹らしい」
今日は、勝った。だから、それでいい。