夜の街は、昼間とはまた違う顔を見せる。
人通りは消え、ネオンサインだけが毒々しい色を水面に落としている。運河沿いの遊歩道は、海風が通り抜けるたびに生温い潮の匂いを運んできた。俺は指定された場所――古びた倉庫の影で、ゼータと合流した。
「遅かった」
彼女は壁に背を預けるでもなく、自然に俺の隣へ並んだ。気配はほぼゼロだ。街灯の光が彼女の輪郭だけを白く浮かび上がらせている。猫科獣人の彼女には、夜の街の方がむしろ馴染む。
「先に回ってたのか」
「一応。周囲に敵影はない。少なくとも、私たちを探ってる気配は」
ゼータは淡々と告げる。その声には、いつもの理知的な冷たさがあった。だが、どこか普段より硬い。緊張しているというより、面倒なものを見つけてしまった時の面持ちだ。
「それで?」
俺は単刀直入に促した。長い前置きは要らない。
ゼータは袖から小さな記憶媒体を取り出し、俺の手に押し込んだ。冷たい感触が掌に残る。指定された通信端末か、デバイスか。この世界ではまだ、紙や口頭より確実な媒体が使える。
「蔵木製薬。創業は三十年ほど前。表向きは一般的な医薬品メーカー。ただ、裏では少し話が違う」
「裏社会か」
「魔人化薬の最大手。製造、流通、販売、どれを取ってもトップクラス。表向きのオーナーは蔵木エイジ。でも顔を出さない。役員会にも極秘の代理人だけ」
俺は記憶媒体を握りしめたまま、曇った月を見上げた。雲の切れ間から、ぼんやりと白い光が漏れている。あの光の下で、この街はいつも通りの夜を演じている。
「魔人化薬で得た利益は、単なる金儲けに使ってない。レシピの横流し、人身売買、人体実験、テロ支援。金を回して影響力を買い、事件をもみ消してる」
ゼータは抑揚を抑えた声で、単語を並べる。それが彼女のやり方だ――感情を挟まず、事実だけを伝える。
「証拠は?」
「ない。少なくとも、表の司法が動かせる形では。施設の噂はある。研究所、製造プラント、隔離区画。どれも噂止まり」
「面倒だな」
俺は短く呟いた。表の組織ならまだしも、裏社会に根を張った企業は、潰すにしても手数がいる。金と力を持ち、証拠を残さない。三十年も続けてきた老舗の悪だ。汚職も、隠蔽も、組織ぐるみで完備されてる。
「蔵木エイジ本人の情報は?」
「ない。年齢、経歴、肉親。どれも不自然なまでに消えてる。確かなのは、名前と企業の存在だけ」
「篠宮マナはどうだ」
「彼女もまだ。名前が一度だけ、魔人関係の取引記録に浮上した。だが、辿ると消える。蔵木エイジ以上に、空白が多い」
また、だ。
<仮面ライダーディケイド>の世界でも、情報の空白はいつも敵の存在を示していた。名前だけが残って、輪郭がない。けれど、そういう相手ほど確実に、この夜の奥で蠢いている。
「シイナには?」
ゼータが短く尋ねた。彼女なりに、俺の判断を窺っている。
「まだ話すな。あいつは今、自分の力と向き合ってる。戻ってすぐ、裏社会の汚泥を聞かせる必要はない」
「わかった。ただ、危険は近い。彼女が標的になる可能性も、もう無視できない」
ああ、わかってる。わかってるさ。
俺は目を閉じて、夜風の音を聞いた。運河の水が重たげに波打つ音、ネオンの唸り、遠くを走る車の音。そのすべてが、この街の血の流れのように思えた。汚れきった血が、静かに、誰にも気づかれずに流れている。
「情報の出所は?」
「捕まえた密売人の一人。重症だったから、適当に応急手当して話してもらった。そのあと、はやてに引き渡した」
「ご苦労だった」
「相変わらず、真顔で無茶をする」
「無茶はしてない」
「してるよ」
「いいや、してない。地面が悪い」
「また、それか」
ゼータの呆れ声が、ほんの少しだけ夜の空気に溶けていった。
俺は指先で記憶媒体を弄びながら、もう一度月を見た。厚い雲が、今にも光を食い潰そうとしている。
蔵木製薬。魔人化薬。消えた創始者。空白だらけの篠宮マナ。点と点は浮かんでいる。線はまだ、見えない。
「どこまで追えるか。可能な限り、裏から手を進めてくれ」