俺は机の上に広げた資料と向き合っていた。
正確には、イータから受け取った端末に表示された次の原種に関するデータだ。二体目。湖に現れた植物型とは異なり、こちらは山岳地帯の奥深くで休眠状態にあるらしい。定期的に周辺の生態系をごっそり食い荒らす以外は、ほとんど動かない。動かない分、過去に送り込まれた討伐隊は「動かない壁」に殲滅された、と報告書にはある。
壁、ね。
俺は端末を指でなぞりながら、地形図と過去の被害記録を頭に叩き込んでいた。脊椎が重い。昨夜はほとんど寝ていない。眠たさよりも、まだ輪郭を掴めない敵の姿が脳裏にチリチリと張り付いている。
「ボス」
と、突然、背後のドアが勢いよく開いた。
振り返るより先に、耳を劈くような声が部屋中に響く。
「ねえ! あたしも行く!」
バン、と床を蹴って飛び込んできたのは、長い黒髪を揺らした獣人の少女、デルタだった。犬耳がぴんと立ち、ふさふさの尻尾が背後で機嫌良さそうにぶんぶん振れている。目はきらきら輝いていて、さっきまで俺が一人で資料と睨めっこしていた空気は、一瞬で粉々に吹き飛んだ。
「また、お前か……」
俺はため息を飲み込んで言う。軽い皮肉を込めて。端末から目を離さずに、もう一度地図を睨む。
「またって何さ! デルタは本気だよ」
デルタは両手を腰に当て、胸を張る。
「ボス、次の原種、あたしも連れてってよ。ねえ、絶対役に立つって。あの木の奴のときだって、根っこ喰いちぎったのあたしだし」
「足止めをしただけだろ。仕留めたのはシイナだ」
「だから! 今度はあたしも仕留めたいの!」
彼女は一歩も引かない。口を尖らせ、長い黒髪を揺らして、まるで餌を前にした猟犬みたいに俺の正面へ回り込む。その姿に気圧されそうになりながらも、俺は視線を端末に落とす。画面の中の等高線が、ペンを走らせたように静かに並んでいる。
「デルタ、てめえは次の作戦には入ってるよ。支援と追撃と護衛。何も留守番だとは言ってない」
「でも、ボスがやってるのって、そういう調べ物ばっかじゃん。あたし、紙とか見てても全然わかんない。こう、身体動かしたい感じっていうか、もっとバーン!ってしたいの」
語彙が死んでいる。まあ、らしいと言えばらしい。俺は小さく息をついた。このまま放っておくと、部屋の中で暴れ出しかねない。イータの作った精密なモニターも、デルタの爪にかかれば十秒でスクラップだ。
「デルタ」
俺はゆっくりと端末を机に置き、彼女と向き合った。
「次の原種は動かねえ。動かないから、こっちが接近するまで何が起きるかわからねえ。お前が先走ったら、全員が岩の下敷きだ」
彼女の尻尾が、ぴくりと跳ねる。それでもまだ口を結んで、不服そうに俺を睨んでくる。目は語っていた。行くまで引かない、と。
「それでも、行くんだよ、あたしは」
「お前はそう言うと思った」
俺は肩をすくめた。苛立ちはしていない。むしろ、こいつのこういう愚直なまでの真っ直ぐさがなければ、ずっと前にどこかで心が折れていたのかもしれない。そう思うから、強い口調にはならない。
「いいか、デルタ。お前が暴れる場所は、ちゃんと用意してある。ただ、作戦の間、一番槍ばかりよこしてちゃ、山そのものを崩すぞ。今回はそういう相手だ。わかるか、馬鹿」
「馬鹿じゃない!」
「耳、動いてるぞ」
「これは普通! 犬耳だもん、動くの普通!」
喋るたびに、雰囲気が段々といつもの調子に戻っていく。机の向こう側で、デルタが唇を尖らせたかと思うと、結局は「もう、わかったよー」と脱力するように肩を落とす。尻尾がゆっくり、二度ばかり揺れる。これは諦めた時の合図だ。
「それじゃ、あたし、外周の警戒してくる。走ってくる!」
「あんまり遠くへ行くなよ」
「はーい。いい匂いの虫がいたら、食べていい?」
「連中を食うな。腹壊すぞ」
「平気だし!」
言い捨てて、デルタは風のように部屋を飛び出していった。ばたばたと廊下を走る足音が遠ざかっていく。嵐が過ぎ去った後の静けさが、机の上の資料と一緒に部屋へ戻ってくる。
俺はしばし天井を見て、小さく息を吐いた。
あいつが駄々をこねるたびに、こっちの作戦の甘さを思い知らされる。いや、ありゃ完全に俺の仕事だ。情報を集めて、動きを決めて、あいつらが暴れやすいように道を整える。それができるのは俺だけだ。
黙って端末を手に取る。画面には、二体目の原種が眠る山岳地帯。尾根の形を指でくる。倒すべき「壁」の前で、まるで壁すら見えていない。
「次は、山か」
どこまでも普通の朝だ。だが、山の向こうの空は、薄曇り。島の暮らしは変わらず、時間だけが静かに流れていく。それを守るためなら、また面倒事に首を突っ込むまでだ。
俺は、山岳地帯の等高線を、じっと見つめていた。