デルタの足音が遠ざかってやっと静かになった部屋で、俺はふうと深く息を吐き出した。肩の力が抜ける。あいつと顔を合わせるだけで体力を持っていかれる。まあ、悪い気はしないが。
さて。俺は再び端末を手に取った。画面には山岳地帯の地図。だが今度は、その中腹に鎮座する異物のデータだ。
「次は、工場か」
俺は指先で画面をスワイプし映像を拡大する。古びた製鉄所か化学プラントか。廃業した工場の敷地に、そいつはいた。
「トリケラトプス…だと」
思わず口に出した。映像の中央に鎮座する原種は、どう見てもあの恐竜に似ていた。ただしサイズが違う。工場の建屋を軽く凌駕する巨大な頭部。前方へ鋭く張り出した二本の角。そして後頭部を覆うフリル状の甲殻。まるで城壁だ。あれで頭部を守られたら、正面からの攻撃は通らない。
胴体も重量級だ。のっしのっしと動くというよりは、動かないこと自体が兵器のような質量を持っている。陸生の生物を思わせるその姿は、湖の原種とはまた違った厄介さを匂わせていた。
「動かない壁、か。湖の奴と同じだな」
だが質が違う。湖の原種は再生と繁殖が脅威だった。こいつは「硬さ」と「質量」だ。あのフリルと角、そして分厚い皮膚。真正面から挑めば弾かれる。その上、廃工場というロケーションがまた面倒だ。遮蔽物が多い。瓦礫が足場を悪くし、視界を奪う。
「シイナの炎で焼くにしても、まずはあの装甲をどうにかしないと」
俺は顎を指で摩った。 いや、あの質量だ。フィールドごと踏み抜くかもしれない。カブトのクロックアップで死角を突く? フリルの隙間を狙えばいけるか。だが、一撃で仕留め損ねれば角でのカウンターが来る。あのサイズで突かれたら、ただじゃ済まない。
「やることは、まず装甲を剥ぐことか」
俺は端末を机に放り出し、天井を仰いだ。装甲を剥ぐ。あるいは剥がす隙間を作る。そのためには?
答えはまだ出ない。だが方法はあるはずだ。俺の手札の中に、必ず。
「さて、どう動くか」
俺はもう一度地図を見た。山岳地帯、廃工場、そしてトリケラトプスの城。面倒な場所に面倒な相手がいる。だが、倒せない壁じゃない。
端末の画面を切り替えた瞬間、背後で空気が変わった。
いや、空気じゃない。気配だ。
「……それ、なに?」
声がしたかと思うと、デルタが俺の肩越しに画面を覗き込んでいた。いつの間に背後へ回っていたのか。足音ひとつ立てず、気配もろくに残さず。こういう時のこいつは、本当に獣だ。
「トリケラトプスに似てる。デカい。硬そう。角、二本ある」
デルタの声は、まるで獲物の形を確かめるように、ゆっくりと言葉を刻む。尻尾が、ゆらりと大きく揺れた。それから、ぶわりと毛を逆立てるみたいに膨らんだ。
「なあ、ツカサ。これ、デルタが行く奴だよな?」
期待に満ちた声。いや、期待なんてものじゃない。もう、行く気でいる。目がきらきらしている。口元が笑っている。獣耳がぴんと立ち、尻尾が左右に激しく振れている。全身の筋肉が、今にも画面の中へ飛び込まんばかりに、弾んでいた。
俺は端末を机に置き、背もたれに深く寄りかかった。こいつのこの顔は知っている。一回火が点いたら、水をかけても消えない。なら、逆に風向きを読ませるしかない。
「行くぞ。お前もな」
「っしゃあ!」
デルタが飛び上がった。文字通り、床を蹴って天井近くまで跳ねる。着地と同時に、机の前でくるっと一回転して俺へ詰め寄ってくる。顔が近い。息が荒い。もう戦闘前のテンションだ。
「なあ、あの角折ったら、飾りにしていい?」
「好きにしろ。ただ、フリルが邪魔だ。正面から頭突きしても弾かれるぞ」
「じゃあ、横から回る。デルタ、ああいうの何回か見たことある。でっかい図体は、横が遅い」
「ほう。ちゃんと頭に入ってるじゃないか」
「当たり前だし! バカにしないで!」
デルタはむっとしたように鼻を鳴らしたが、すぐにまた尻尾を振り始めた。完全に戦闘モードだ。こいつは「知っている」と「できる」が別の生き物だが、今回は珍しく、ちゃんと相手の形を見ている。
「いいか。お前は俺の指示で動け。一撃目はお前にやらせる。ただし、深追いするな。一発当てたら離れろ。フリルの内側から反撃が来る」
「わかってる! 一撃離脱だろ?」
物覚えは悪くない。悪いのは堪え性だけだ。まあ、今回は「一撃目を任せる」という餌を与えた。あとは、どれだけ噛み切らずに遊べるか。
デルタは身を屈め、両手の指をわきわきと動かした。爪が伸びる。鋭い。あの爪が、トリケラトプスの装甲をどこまで裂けるか。正直、俺も見てみたい。
「早く行こうぜ、ボス。デルタ、もう待てない」
「焦るな。夜明け前に出る。それまでに、体でも温めておけ」
「もう温まってる! ずっと温まってる!」
「なら、一回外で走ってこい。ただし、山には近づくなよ」
「わかってるって!」
デルタは再び床を蹴り、今度は本気で部屋を飛び出していった。廊下が、少しだけ震えた気がする。壁に掛かった時計が、かたん、と音を立てた。
俺は置き去りにされた端末を手に取る。画面には、山岳地帯に鎮座する原種の姿。トリケラトプスに似た巨体。あの装甲を剥がす手立ては、まだ見つかっていない。
だが、あいつの爪なら、あるいは。そう思い始めている自分がいる。
こいつは、戦場で一番危険な存在だが、同時に一番、敵の形を素直に読み取れる。理屈では辿り着けない場所へ、勘だけで飛び込める。それが、デルタという獣だ。
「せいぜい、角をへし折って来い」
俺は画面を閉じた。山の向こうに、朝が来る。だが、その前にもう一暴れだ。