夜明け前の山道は、凍えるように冷たかった。
息を吐くと白い霧が形を作っては消えていく。標高が高い分、空気は薄く、肌を刺す風が頬を削るように冷たい。山の稜線が夜の藍色から薄紫へと滲み始めていた。朝が来る。だが、この山には朝日が届かない場所がある。廃工場の跡地だ。巨大な原種が鎮座するそこは、山影に飲み込まれて、まだ深い闇の中にある。
俺たちは稜線の手前で足を止めた。そこから廃工場が見下ろせる。崩れた煙突、錆びついた配管、砕けたコンクリートの壁。そのすべてを、一つの巨大な影が押し潰すように覆っていた。
トリケラトプスに似た頭部。前方へ張り出した二本の角。後頭部を覆うフリル状の甲殻。月光が届かない場所にありながら、その輪郭だけが黒く重く存在していた。動かない。呼吸するように甲殻が微かに起伏している以外は、まるで岩石の彫像だ。だがあれは生きている。そしてこちらの接近を知っているかもしれない。
「ボス」
デルタが隣で低く唸った。尻尾が、ぴんと水平に伸びている。戦闘態勢だ。普段の落ち着きのない様子はどこへやら、身体が低く沈み、両手の指がわずかに地面を掴むように開いている。獲物へ飛びかかる直前の姿勢だ。鼻先が微かに震えている。匂いを捉えているのだろう。獣の勘が、あの巨体から立ち昇る殺気を感知している。
「あいつ、寝てるのか?」
「寝てはいない。動いてないだけだ。湖の原種と同じ。必要がない限り、動かない」
「じゃあ起こしてやるよ」
デルタは爪を伸ばした。鋭い刃が夜明け前の薄明かりを反射して白く光る。十本の爪が一斉に抜き放たれる音は、微かだが鋭く、冷たい空気を切り裂いた。
「待て」
俺はデルタの肩を掴んだ。彼女が振り返る。目が燃えている。獲物を前にした獣の目だ。瞳孔が収縮し、金色の虹彩が闇の中でぎらりと光っている。
「一撃だ。角へ一撃加えて離脱しろ。硬さを測る。深追いするな」
「わかってる。一撃だけ」
デルタは短く答えると、俺の手を振り払って稜線を飛び越えた。
速い。
山の斜面を駆け下りる速さは、文字通り風だ。岩を踏み込むたびに砂礫が弾け飛び、廃工場の瓦礫を足場に跳び移り、一息で原種の正面へ迫る。俺はその動きを上から見下ろしていた。美しい動きだ。無駄がない。獣としての本能が最短距離を正確に選んでいる。黒い戦闘衣が風に煽られて翻り、長い黒髪が尾のように後方へ流れている。
原種が反応した。
微かに動いた。甲殻の起伏が大きくなる。気配が変わる。目覚めたのだ。だが遅い。デルタの速度には追いつかない。
デルタは原種の右角の付け根へ飛びついた。爪を振りかぶり全力で叩きつける。
その音は山に響いた。
金属を打つような硬質な音。いや金属以上だ。岩でも鉄でもないもっと密度の高い何かに爪が弾かれた音だ。反動でデルタの身体が空中で大きく仰け反ったのが、稜線上からでも見えた。
俺はその瞬間異変に気づいた。
デルタの手が弾かれた。爪が砕ける音が風に乗って聞こえた。いや聞こえなくてもわかった。デルタの身体が衝撃で吹き飛ばされたからだ。瓦礫の山へ叩きつけられ砂煙が舞い上がる。
「デルタ!」
原種が動いた。ゆっくりとしかし確実に頭部をデルタの方へ向けた。角の先端が瓦礫を削りながら旋回する。あの角で突かれたらデルタごと瓦礫ごと砕かれる。
俺は稜線を飛び越えた。
崖を蹴って降下する。風が顔を叩く。地面が迫る。だが俺の指はすでにカードを挟んでいた。
「変身」
『KAMEN RIDE DECADE!』
マゼンタの装甲が空中で展開する。着地と同時に次のカードを抜く。ディケイドのままでは間に合わない。あの角の速度は見た目より速い。デルタを回収して離脱するには時間を止めるしかない。
『KAMEN RIDE KABUTO!』
赤い装甲が全身を覆う。視界がクリアになり世界が遅くなる。
『ATTACK RIDE CLOCK UP!』
世界が止まった。
瓦礫の砂煙が空中に浮かんでいる。一粒一粒の塵が月光を浴びて白く光りながら静止している。原種の角がデルタのいる瓦礫の山へ向かってゆっくりと伸びている。クロックアップの中ではあの巨大な角の動きもまるで水中を漂うみたいにゆっくりに見える。
俺は走った。赤い影が止まった時間の中を滑るように進む。
瓦礫の山の中でデルタがうずくまっていた。右手を押さえている。爪が砕けたのだ。指の先から血が滲んでいるのが見える。三本の爪のうち二本が根元から折れ、断面が白く露出している。顔を歪めているが意識はある。目が俺を捉えた。驚きと悔しさが混じった目だ。唇がわななき、何かを言おうとして声にならない。
俺はデルタの身体を抱き上げた。軽い。獣人の少女は見た目以上に小さい。腕の中でデルタが短く息を呑み、砕けた右手を胸元へ引き寄せた。
「デルタの爪……」
「あとで見る。今は離れるぞ」
俺はクロックアップの加速を維持したまま廃工場を離れた。原種の角がデルタのいた瓦礫の山をゆっくりと粉砕していくのが背後で見えた。あと一秒遅ければデルタごと押し潰されていた。
安全な距離まで離れクロックアップを解除した。
時間が動き出す。風が戻り音が戻る。背後で原種が瓦礫を砕く轟音が響いた。地面を揺らす振動が足の裏を伝わってくる。
俺はデルタを地面へ降ろした。彼女は膝をついたまま砕けた右手を眺めている。爪が根元から折れていた。三本の爪のうち二本が半ばから欠損している。
「硬い……デルタの爪が、折れた」
デルタの声は震えていた。痛みのせいか、それとも自分の爪が砕けたという事実への衝撃か。おそらく後者だ。こいつの爪は今まで折られたことがなかったはずだ。
「あの装甲は、お前の爪じゃ砕けない。湖の原種とは質が違う」
俺はデルタの前にしゃがみ砕けた爪を確認した。再生は始まっている。獣人の身体能力は折れた爪も時間があれば戻る。だが今の戦闘では使えない。
「ボスデルタ……」
「責任を感じるな。お前のおかげで硬さがわかった。あの装甲は正面から砕くのは無理だ。角もフリルも全身が一つの甲殻で覆われている」
デルタは唇を噛んだ。目が潤んでいる。悔しさを押し殺している顔だ。
「次はデルタがやられる番だった」
「だから俺が来た。約束しただろ。お前が暴走したら俺が止めると」
「暴走してないもん……一撃だけって言われた通りにやったのに……」
「知ってる。お前は指示通りに動いた。だからこそ次は俺がやる」
俺は立ち上がり廃工場の方を振り返った。原種は再び動きを止めている。先ほどの威嚇が終わればまた岩のように静止している。だが今度はこちらの接近を許さないだろう。一撃加えられたのだ敵と認識した。
「シイナになのはフェイトに連絡しろ。正面からの物理攻撃は通じない。あの装甲を剥がすか隙間を探すか別の手段を取るか作戦を変える」
デルタは小さく頷いた。尻尾が力なく垂れ下がっている。
俺はカブトの装甲を解きディケイドへ戻った。朝日がようやく山の稜線を越えて廃工場を照らし始めていた。赤い光が原種の甲殻に当たり鈍く反射する。
硬い壁だ。だが壁には必ず継ぎ目がある。
俺はライドブッカーを握りしめた。