夜の街は、前回と同じ匂いがした。
潮風とネオンと、どこかで腐った甘い香り。運河沿いの路地裏を歩く俺たちの足音だけが、湿ったアスファルトに吸い込まれていく。ゼータは半歩後ろをついてきている。気配はほぼゼロ。街灯の光が彼女の金色の尾だけをかすかに浮かび上がらせていた。
「ゼータ。あの件、蔵木製薬の末端について何か変わったか」
「末端の売人が三人消えた。魔人狩りが動いた形跡がある」
「消えた、か。死体は」
「ない。いつも通り」
いつも通り。魔人狩りが手を下した現場には死体が残らない。残るのは黒い粒子と切り刻まれた何かの残骸だけだ。掃除屋としての仕事がきれいすぎる。
「場所は」
「この先の倉庫街。三件目」
俺は足を止めた。路地の先、倉庫の並ぶ一角が見える。前回、魔人化したヤクザどもと遭遇した場所だ。また同じ場所か。偶然にしてはできすぎる。
「罠か」
「かもしれない。でも罠なら、張った側の意図が知りたい」
ゼータの声は淡々としているが、その目は路地の奥を凝視していた。猫の耳が微かに動く。何かを拾っている。
「気配は」
「一つ。いや二つ。一つは魔人。もう一つは…」
ゼータが言葉を切った。耳が止まる。尾がぴんと張る。
「知ってる匂い」
俺はライドブッカーに手をかけた。まだ抜かない。ただ、いつでも抜けるように指先を柄に掛けておく。冷たい金属の感触が、夜の空気の中でより鋭く伝わってくる。
倉庫街へ足を踏み入れる。街灯は前回よりも少なかった。二つの光源が壊されている。ガラスの破片が地面に散らばっていて、踏むとかすかに音を立てた。意図的に暗くしたのか、あるいはさっきの戦闘で壊れたのか。どちらにせよ、俺たちにとっては不利だ。
暗闇の中で、音がした。
刃が肉を断つ音。湿った、重い音。
「あっち」
ゼータが低く指す。倉庫と倉庫の間、荷捌き場の暗がり。そこに、二つの影が重なっているのが見えた。一つは大きな影。魔人だ。もう一つは小さい影。黒い制服。ポニーテール。
彼女だった。
魔人狩りの少女が刀を振るっていた。
刀身が弧を描き、魔人の腕が肘から先が切り落とされる。黒い粒子が舞う。魔人は断末魔の咆哮を上げようとしたが、次の一撃で喉を裂かれ、声は音にならなかった。
速い。前回見た時と同じだ。いや同じじゃない。前回は魔人が数体いた。今回は一体。一体相手なら彼女の動きはもっと余裕がある。刀を振った後の間合いが、前回より半歩広い。余裕があるからこそ間合いを取りすぎている。まだ本気じゃない。
「ツカサもう一つの気配」
「わかってる」
魔人の気配は一つ。だがゼータは二つと言った。もう一つはどこだ。
俺は視線を走らせた。倉庫の屋根。配管の陰。トラックの荷台。
いた。
倉庫の屋根にもう一人いた。黒い制服。マスクで顔の下半分を覆っている。手には細い何か。刀ではない。鎖のような、あるいはワイヤーのようなもの。月光を浴びて金属だけがかすかに光っている。
「もう一人いる。屋根の上」
「見えてる。伏せてたんだねずっと」
ゼータの声にかすかに皮肉が混じる。ずっと潛んでいた。俺たちが来る前からこの場所にいたのだ。
魔人の残骸が黒い粒子となって霧散する。少女は刀を振って血を払い、ゆっくりとこちらを向いた。
鬼の面。表情は読めない。だが、視線は確かに俺たちを捉えていた。面の隙間から覗く瞳が、暗闇の中で冷たく光っている。
「また会ったね」
俺は壁にもたれたまま言った。ライドブッカーには手をかけたまま。抜かない。まだ抜かない。
少女は答えない。刀を納め、じっとこちらを見ている。隣の倉庫の屋根にいるもう一人も動かない。
「前は逃げた。今回はどうだ」
「逃げたんじゃない。用がなかったから去っただけ」
声がした。少女じゃない。屋根の上のもう一人だ。声は低い。男だ。いや男とも限らない。声を変えている可能性もある。だが低い声で、平坦に言い放った。
「用があったらこうやって顔を出すってことか」
「そう。今回は用がある」
少女が一歩前に出た。鬼の面の隙間から覗く瞳が俺を真っ直ぐに見る。
「あんたの連れ。赤い髪の女の子」
心臓が、一拍だけ速くなった。
シイナのことだ。
俺は表情を変えなかった。少なくとも変えたつもりはない。だがゼータが背後でわずかに気配を変えたのを感じた。彼女も気づいている。
「何が知りたい」
「彼女の力。あれは何だ」
少女の声は静かだった。敵意はない。だが質問の意味は重い。
「あれは魔人の力と同じ種類のものだ。違うか?」
俺は答えなかった。答えを保留する時間を稼ぐため、ゼータに視線を送る。ゼータは微かに首を振った。まだ動くな、という合図だ。
「答えたくないなら、答えなくていい。でもあたしたちは見てる。彼女が原種を倒した時の炎。あれは、あたしたちが狩ってる連中と同じ匂いがする」
あたしたち。少女は自分を複数形で呼んだ。組織の一員としての発言だ。
「同じ匂い、か」
俺は壁から背を離した。一歩前に出る。少女が刀の柄に手をかける。反応速度は速い。指先が柄に触れた瞬間、空気が変わった。だが抜かない。まだ話せる。
「お前たちが狩ってるのは魔人だ。魔人は侵略種の因子を持った人間だ。シイナの炎がそれと同じ匂いをする。だから気になるのか」
「気になる。あたしたちは魔人を狩る者だ。でも彼女は魔人じゃない。少なくともあたしたちが知ってる魔人とは違う」
少女の声に、かすかな迷いが混じった。迷いというより、確信がないのだ。シイナの力が魔人と同じなのか、それとも別の何かなのか。彼女たちにもわからない。
「だったら聞けばいい。直接な」
「聞いていいの?」
「俺に聞くな。あいつ本人に聞け。ただし」
俺は人差し指を立てた。
「あいつに手を出すな。問いただすだけなら許す。だが刀を向けるなら、俺が相手だ」
少女は黙った。鬼の面の奥で瞳が揺れている。屋根の上のもう一人も動かない。風が配管の隙間を吹き抜けて、二人の間の沈黙を運んでいく。
「あんた、彼女の何だ」
「通りすがりの仮面ライダーだ」
「答えてない」
「答えてる。お前が聞き方を間違えてるだけだ」
少女の肩がわずかに下がった。緊張が解けたのか、それとも呆れたのか。面の奥から覗く瞳が少しだけ細められた気がした。
「あたしはトワ。あっちのがシオリ」
名前を名乗った。初めてだ。少女がトワ。屋根の上のもう一人がシオリ。
「名前を教えていいのか。魔人狩りが名前を明かすなんて、珍しいな」
「あんたが彼女の味方なら、知っておいて損はない。それに」
トワは刀の柄から手を離した。指先が離れると、柄の金属が夜風の中でかすかに冷える音がしたような気がした。
「あんたの顔。どこかで見たことがある気がするから」
俺の顔を知っている。どこで。いつ。この世界でか、それとも別の世界でか。どちらにせよ、俺自身の記憶にはない。
「ゼータ」
「何」
「二人の名前、覚えたか」
「トワとシオリ。忘れない」
ゼータの声は平坦だった。だが「忘れない」という言葉には、記憶するという意味だけではない響きがあった。次に会った時に備える、という意味だ。
トワは背を向けた。去る気だ。屋根の上のシオリも、音もなく姿を消す気配がした。
「待て」
俺は呼び止めた。トワが振り返る。鬼の面の隙間から覗く瞳が、もう一度俺を捉える。
「一つ聞く。お前たちが魔人を狩るのは魔人が人を食うからか。それとも別の理由があるのか」
トワは一瞬、黙った。面の奥で瞳がわずかに揺れた。
「人を食うから。それが一番の理由」
「一番、ということは二番がある」
「…ある。でも今は言わない」
トワは踵を返し、闇の中へ消えていった。足音は一度も響かなかった。シオリの気配も消える。後に残されたのは、魔人の残骸の黒い粒子と、俺たち二人だけ。
「ツカサ」
ゼータが隣に並んだ。
「シイナに伝える?」
「伝える。名前だけな。トワとシオリ。それ以上はまだ早い」
「彼女シイナの力を魔人と同じ種類だと言った」
「ああ。間違っちゃいない。だがあいつはシイナが魔人じゃないことも感じ取ってる。少なくとも殺す対象とは見てない」
「今のところは」
「今のところはな」
俺は倉庫街を見回した。暗い。静かだ。さっきまでの戦闘など最初からなかったみたいに。ただ運河の匂いだけが残っている。
「蔵木製薬の末端がまた消えた。トワたちが潰した。三方抗争みたいになってきたな。俺たち、蔵木、そして魔人狩り」
「複雑。味方と敵の線が曖昧すぎる」
「曖昧な線なら引けばいい。俺たちの線は、シイナを守るか守らないか。それだけだ」
ゼータは短く頷いた。
俺は来た道を戻り始めた。夜風が冷たい。頬を撫でる風に運河の湿気と鉄錆の匂いが混じっている。
魔人狩りがシイナの力に気づいている。いつか、彼女たちはシイナの前に現れる。その時に、トワは刀を向けるのか、それとも別の何かを見せるのか。
答えはまだ出ない。だが一つだけ確かなことがある。俺たちがシイナの隣にいる限り、誰も彼女に勝手な判断はさせない。
「戻るぞ。報告がある」
「了解」
ゼータの気配が消える。俺の隣から、夜の闇へ。彼女はもう次の行動を始めている。
俺も歩を速めた。夜は長い。だが、やるべきことは明確だ。