雨が降り始めた。
コンクリートの壁を叩く雨音が、夜の路地に単調なリズムを作っている。俺は倉庫街の外れ、廃業したガソリンスタンドの屋根の下にしゃがみ込み、濡れたアスファルトに映るネオンを眺めていた。ゼータは隣の給油機の陰に身を潛めている。気配は消えているが、金色の尾の先だけが雨に濡れているのが見える。
「来たか」
ゼータが短く言った。
俺は顔を上げなかった。来るのはわかっていた。ここ三日夜の街を歩くたびに、必ず誰かがついてくる。最初は一人。次は二人。昨夜は三人。今夜はまだ見えないが気配はある。距離を保ち、こっちの動きに合わせて位置を変える。素人じゃない。訓練された尾行だ。
「数は」
「四。前にいた三人より動きがいい。それと新しい匂い」
「新しい匂い」
「薬。今までのより濃い」
俺は眉間を押さえた。魔人化薬だ。今まで街で見てきたのは粗製濫造の劣化版だったが、今夜の連中が纏っている匂いは別物だ。改良版か。あるいは本来のレシピに近い完成度のものか。
蔵木製薬が動いている。
シイナが原種を倒したあの夜、金色の炎が空を焼いた。あの光は遠くまで届いた。届いた先に、欲しいものを探している目があった。あの炎を生み出した存在を、最高の被検体として見る目が。
「ゼータ、こっちの動きは気づかれてるか」
「気づかれてる。でも攻撃してこない。様子を見てる」
「偵察か。それとも誘いか」
「両方だと思う。こっちが出方を待ってる」
誘い出すつもりなら、餌が必要だ。シイナがいれば餌になる。だが今夜はシイナを出していない。なのはたちと合流してEXCEEDSの施設で訓練中だ。俺とゼータだけの行動に、あえて探りを入れてくるということは、シイナ以外にも関心がある対象がいるということだ。
俺か。それとも俺たちの動きそのものか。
「ツカサ」
ゼータの声が一段低くなった。
「あいつら動いた」
雨の向こうから足音が聞こえた。一つじゃない。複数。だが走ってはいない。歩いている。堂々とこちらへ向かってきている。隠れるつもりがないということだ。
俺は立ち上がりライドブッカーに手をかけた。まだ抜かない。相手が何者かを確認してからでも遅くはない。
ガソリンスタンドの崩れた入口から、四つの影が現れた。
雨に濡れたスーツ。いや、スーツじゃない。作業着に近い機能的な服装。フードを深く被り顔は見えない。だが体格がいい。どいつも俺より頭一つ分は大きい。
匂いが強くなった。ゼータの言った通りだ。今までの魔人とは濃度が違う。空気が粘つくみたいに重い。
「おい」
俺は声をかけた。四つの影が足を止める。フードの奥からこちらを見ている。目が光った。いや光ってない。目そのものが変わっている。瞳孔が収縮し虹彩が濁っている。すでに薬が効いているのだ。
「用があるなら言え。通りすがりだが、時間はある」
「……あんたが、仮面ライダー」
声は低く歪んでいた。喉の奥で何かが詰まっているような、湿った響き。四人のうち一番手前の男が一歩前に出た。首の筋肉が不自然に隆起している。血管が皮膚の下で黒く浮き上がっていた。
「そうだ。名乗るならお前からだ」
「名前はない。番号もない。あるのは指令だけだ」
指令。誰の指令だ。蔵木か。それとも蔵木の下で動いている別の誰かか。
「指令の内容は」
「確認。あんたの連れの女の子。赤い髪の。あの炎を生み出した子。どこにいる」
やはりシイナを探している。あの夜の炎を見た。あるいは炎のデータを何らかの方法で採取した。それを解析した結果、シイナを被検体として狙うことに決めたのだ。
「知らんな」
「嘘はやめろ。あんたと一緒にいた。原種を倒した時も、その前も。あの子のデータはもう取ってる。残るは本人の回収だけだ」
データはもう取ってる。あの夜、遠くから見ていたのは偵察だけじゃない。計測器を持った人間もいたのか。あるいは魔人狩りがいた場所とは別の位置に、蔵木の監視班が配置されていたのか。
「回収、ね。人間を物みたいに言うな」
「人間じゃないだろ。あの子は。あの炎は魔人の因子を超えてる。うちの博士が言ってた。完成体に近いって」
完成体。蔵木製薬の研究者がシイナの炎を見てそう判断した。魔人化薬で作り出す存在の、完成形。それがシイナだと思っている。違う。シイナは魔人じゃない。セツナが残した力は、蔵木が作り出しているものとは根本から違う。だがあいつらにはそうは見えない。同じ種類の力に見える。だから欲しい。
「博士の名前は」
「言う必要がない」
「蔵木エイジか」
男が一瞬反応した。ほんのわずかだが肩が動いた。名前に反応したのだ。やはり蔵木の指示だ。
「篠宮マナは知ってるか」
今度は反応しなかった。名前を知らないのか、それとも知っていて隠しているのか。どちらにせよ、今の俺には判別できない。
「帰れ」
俺は短く言った。ライドブッカーから手を離す。まだ戦う必要はない。こいつらは戦闘員だ。指令に従って動く手足でしかない。手足を潰しても本体は何も変わらない。それにこいつらの背後に何が控えているかまだわからない。
「帰らない」
男が言った。残りの三人が一歩ずつ前に出る。フードの奥から覗く目が一斉に俺を捉えた。瞳孔がさらに収縮している。薬の効果が強くなっているのか、それとも戦闘態勢に入ったのか。
「確認だけなら終わりだ。あんたの連れの居場所は聞けなかった。報告して戻ればいい」
「確認は終わりだ。でも指令はもう一つある」
「何だ」
「あんたの力の測定。仮面ライダーとやらの戦闘データ。それも取ってこいって」
測定。こいつらは俺のデータも取るつもりだ。シイナだけじゃない。俺たち全体を調査している。蔵木製薬は、魔人化薬の改良に俺たちの戦闘データを利用しようとしている。
「測定ならしてやる。ただし、お前らが倒れても文句は言うな」
俺はライドブッカーを抜いた。剣形態。刃が雨に濡れて細い光を反射する。
男が笑った。喉の奥で何かが潰れるような湿った笑い声。残りの三人も笑った。四人が同時に身体を変異させ始めた。皮膚が裂け筋肉が膨張し爪が伸びる。さっきのヤクザどもとは違う。変異の速度が速い。そして変異後の体型が均一だ。同じ薬を使い同じ訓練を受けた戦闘員。量産型の魔人兵だ。
「ゼータ」
「わかってる。右の二匹あたしがやる」
「左の二匹は俺だ。殺すな。一人は生け捕りにする」
「了解」
ゼータの気配が消えた。同時に俺は地面を蹴った。
一番手前の魔人が右腕を振り下ろしてくる。速い。今までの魔人より速い。爪が空気を裂く音が耳元を掠めた。だが見えている。俺は半身でかわしライドブッカーを横薙ぎに振る。刃が魔人の脇腹を浅く裂く。深くはない。傷つける必要はない。動きを封じる。
二体目が背後から迫る。俺は振り返らずに肘で顎を打ち上げ体勢を崩す。すかさずライドブッカーの柄で膝の裏を突き倒した。崩れ落ちたところを足で押さえる。
右側ではゼータが二体の魔人と交戦中だった。彼女の姿は見えない。ただ金色の閃光が雨の中を走り、魔人の身体に細い斬撃が刻まれていくのが見える。ゼータは殺さない。殺す必要がない相手なら殺さない。それが俺たちのやり方だ。
「ツカサ、こっち一人抑えた」
「こっちもだ」
俺は足で押さえていた魔人の腕をライドブッカーの柄で固定した。もう一体は脇腹を抑えて動けない。改良版の薬を使っていても関節を挫かれれば動けない。
「さて、指令の内容をもう一度聞くぞ。お前らの指令が終わったら、次は誰が来る」
押さえ込んだ魔人が呻いた。フードがずれて顔が見える。若い。二十代前後。目は濁っているが意識はある。薬の効果が切れつつあるのか、それとも最初から会話できる程度の理性が残っていたのか。
「次は…本人が来る」
「本人」
「蔵木…いや指令は直接来ない。来るのは…あの女」
あの女。蔵木エイジ本人ではなく、別の誰か。篠宮マナか。それとも別の人物か。
「名前は」
「聞かされてない。ただ…今までの指令とは格が違う。あの女が動く時は、もう偵察じゃない」
「攻め込みってことか」
魔人は答えなかった。代わりに口元が歪んだ。笑みとも苦痛ともつかない表情だった。
俺は魔人の腕から力を抜いた。逃げる様子はない。いや逃げる力も残っていないのだろう。改良版の薬を使っていても、ゼータと俺に同時に制圧されればこの程度だ。だがこれが量産型だとしたら、数が揃えば面倒だ。十人、二十人と送られてくれば、流石に時間がかかる。
「ゼータ、こいつらはどうする」
「はやてに引き渡す? 聞きたいことはいっぱいある」
「そうだな。ただ、蔵木製薬の戦闘員が夜の街で動いていた事実は、表には出せない。EXCEEDS経由で処理する」
俺は立ち上がり雨空を仰いだ。雲は低い。雨は強くなる一方だ。
蔵木製薬がシイナを被検体として認識した。改良版の魔人化薬で戦闘員を量産し始めている。そして次は、偵察ではなく攻め込みのために別の誰かを送ってくる。
シイナの力が目立ちすぎた。あの金色の炎は、遠くまで届いてしまった。届かなかったことにするにはもう遅い。
「ゼータ。シイナの周辺警護を強化するぞ」
「なのはたちに伝える?」
「伝える。それとはやてにも。蔵木製薬が動き出した。もう隠れてるだけの段階じゃない」
「わかった」
ゼータが雨の中へ消えていく。俺は動けない魔人たちをその場に残しガソリンスタンドを後にした。雨が背中を叩く。冷たい。だが内側は熱かった。怒りだ。シイナを物として見る連中に対する怒りが、腹の底でじわりと膨らんでいる。
あいつらはシイナを回収するつもりだ。被検体として。完成体として。蔵木製薬の実験材料として。
させるか。
俺は雨の中を歩きながらポケットのカードを指で弾いた。冷たい卡片の感触が、指先から伝わってくる。
シイナは俺たちの仲間だ。物じゃない。データでもない。あいつが自分の力と向き合い、セツナと再会するために歩いている道を、誰にも邪魔はさせない。
たとえその先に何が待っていようと。
雨音だけが夜の街を埋めていた。俺の足音と、遠くで鳴り始めた雷鳴だけが、冷たい暗闇に響いていた。