悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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傍観者

風下へ走るほど、匂いははっきりしていった。焦げと鉄、濡れた土の甘さ。それに、人が慌てて動くとき特有の、汗と恐怖の混ざった生臭さ。デルタは鼻先を小刻みに動かしながら、言葉より先に身体が答えを出していた。フェンス沿いの道を抜け、住宅街の角を曲がった瞬間、ツカサの耳に予告どおりの音が届く。サッカーの歓声とは別物の、遠慮のない切迫したサイレン――救急車だ。

 

路地の入口には規制テープが張られ、半開きのシャッターの向こうから白い担架が運ばれてくる。灯りに照らされた地面には、泥と何かの樹液みたいな粘りが散り、壁には裂けたような擦過痕が残っていた。事故と言えば事故だが、普通の事故の匂いじゃない。ツカサは立ち止まらず、警戒だけを深めて周囲を見回した。野次馬の輪は大きく、声はうるさいのに核心に触れる言葉はひとつもない。そういう“無関心の群れ”は、どの世界でも同じだ。

 

「ボス、あそこ。匂い、濃いのです」

 

デルタが指した先、規制テープの外側に、ぽつんと立つ影があった。救急隊員が走り回る中で、そこだけ時間がズレている。紙コップを片手に、まるで映画のラストシーンでも見ているような顔で、雑賀蛍がこちらを見ていた。

 

ツカサは一歩、踏み出す。近づくほど、腹の底にさっきの言葉が戻ってくる。「もうすぐ救急車が鳴る」。縁起でもない戯れ言。そう切り捨てたはずの台詞が、今は耳の奥で金属音みたいに鳴っていた。

 

「……やっぱり、お前か」

 

蛍は驚いたふりもせず、肩を軽く上げる。

 

「おや。追ってきたんだ。ご苦労さま」

 

「ここで何してた」

 

「見てただけ。知ってただけ」

 

言い方が軽い。軽いのに、救急車のサイレンと同じくらい胸に刺さる。蛍は規制テープの向こうをちらりと見て、それからツカサに視線を戻した。

 

「私は無害だよ。ほら、手も出してない。怪我人も増やしてない。むしろ、増やさないために“何もしない”こともあるでしょ?」

 

「言い訳が上手いな」

 

「言い訳じゃないよ。説明。君、説明と暴力の区別がつかないタイプ?」

 

挑発めいた口調なのに、表情は愉快そうだった。救急隊員が担架を押して通り過ぎる。担架の上の小柄な身体が揺れ、家族らしい大人の声が震える。ツカサはその一瞬を見て、蛍の紙コップの温度が無性に腹立たしくなる。

 

デルタが一歩前に出た。背中の翼ユニットが微かに鳴り、鼻がまた動く。獲物の匂いじゃない。嫌な匂い。嫌いな匂い。

 

「ボス!こいつ、悪い奴!というか気に入らない!」

 

蛍は目を丸くして、それから笑った。笑いは短く、すぐに言葉遊びの形に変わる。

 

「悪い、って何?法律?道徳?それとも君の好み?“気に入らない”って言っちゃってる時点で、もう答え出てるよね。つまり君は、私が悪いから殴りたいんじゃなくて、殴りたいから悪いって言ってる」

 

「……うるさいのです」

 

デルタの返事は短かった。理屈を食べる気がない。蛍はさらに続けようとする。勝ち筋が見えるときの人間の口は止まらない――それも、ツカサは何度も見てきた。

 

「ほら。君が“気に入らない”って感じるのは自由。自由だけど、それは君の中の話だよ。君の感情を理由に、私を悪にするのは――」

 

「同じだ」

 

ツカサが言葉を切った。声は低く、短い。蛍の舌が一瞬止まる。

 

「お前みたいなの、何度も見た。観客気取りで、悲劇が転がるのを眺める奴。『自分は何もしない』『知ってるだけ』って言いながら、都合よく“知らない顔”で逃げる奴。そういうのは大抵、次の火種を育ててる」

 

蛍は肩をすくめたが、さっきより少しだけ目が細くなる。面白がっているのは変わらない。でも、刺さっている。刺さっていないなら、反応は出ない。

 

「刺すね、先生。……でも、誤解してる。私は火種を育ててない。火種が育つのを“見てる”だけ。育つか消えるか、私は選ばない」

 

「選ばないのが悪だって、分からないなら――」

 

ツカサは言いかけて、わざと止めた。説教は簡単だ。だが、この手合いは説教を“物語”として消費する。言葉で殴れば殴るほど、相手は美味しくなる。ツカサは視線を規制テープの向こうへ投げ、担架が救急車に収まるのを見届ける。救急隊員の靴が泥を踏み、樹液みたいな粘りが伸びる。その異様さに、ツカサの確信が固まる。蛍は“知っていた”。知っていて、ここに立っていた。

 

「お前、最初からここにいたな」

 

「うん。いたよ」

 

「通報は?」

 

「したら、もっと早く“人が集まる”でしょ。混ざると面倒じゃない? 面倒って、君も嫌いでしょ」

 

蛍の言葉が、あまりにも自然に出た。正しさの皮を被った怠慢。管理された無関心。世界を渡るたびに、ツカサが嫌になるほど見てきた種類のもの。

 

デルタがツカサの袖を引く。

 

「ボス。こいつ、悪いのです。デルタ、殴りたいのです」

 

「……ああ」

 

ツカサは頷いた。蛍に向けて、ゆっくりと視線を上げる。

 

「デルタの言い方は雑だ。だけど結論は合ってる。お前は“無害”じゃない。お前が面白がって見てるだけで、誰かの一歩が遅れる。誰かの判断が鈍る。そういうのを、俺は世界中で潰してきた」

 

蛍は一瞬だけ沈黙した。救急車のサイレンが遠ざかり、代わりに夜の虫の音が戻る。その静けさの中で、蛍は紙コップをテープ際に置いた。まるで「もう飲まない」と宣言するみたいに。

 

「……分かった。言葉は通じないね。通じないふりをしてるだけかもしれないけど」

 

「どっちでも同じだ」

 

「うん。同じ。じゃあ、次は“見てるだけ”をやめる」

 

蛍の指が、腰のあたりへ滑る。布の下から覗いたのは、銃の輪郭だった。玩具みたいな軽さじゃない。金属の重みと、使い込まれた道具の冷たさ。デルタの目が光り、足が地面を掴む。翼ユニットが小さく鳴って、獣が狩りに入る前の緊張が空気を変えた。

 

「ボス。狩っていいのです?」

 

「……周りに被害出すな。あくまで、最短で終わらせろ」

 

「はいなのです!」

 

蛍は銃を抜きながら、微笑んだ。諦めた顔ではない。むしろ、待っていた顔だ。自分が“物語の外”にいられなくなった瞬間を、喜んでいる。

 

「じゃあ、先生。見せて。君が壊したって言う“似た奴ら”の続きを。私は、ちゃんと見届けるから」

 

ツカサは返事をしない。返事をしたら、それすら娯楽にされる。

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