市街地までの移動は、表面上は何事もなかったかのように静かだった。
防護シャッターが下りた住宅街を通り抜ける。各家の壁面には避難経路を示す緑色の矢印が塗られていて、角の電柱には「避難時は西側地下通路へ」の表示板が錆びた金具で固定されている。日常の風景に、非常時の指示が溶け込んでいる。三十年の間に、この国は恐怖をインフラに埋め込むことを覚えたのだ。
空は薄曇り。風が、潮の匂いと何か焦げたような匂いを混ぜて運んでくる。
ゼータが俺の左斜め後ろを歩いている。足音はほとんどしない。猫科の獣人は、歩くというよりは滑るように移動する。時々、耳がピクリと動く。遠くの音を拾っているのだろう。
「ツカサ」
「なんだ」
「匂いが変わった」
俺は足を止めなかったが、視線だけを左に逸らした。ゼータの横顔が、薄曇りの空の下で引き締まっている。鼻先がわずかに動いている。
「どう変わった」
「金属と、塵。あと、湿気。地下の空気だね」
ゼータが言った瞬間、俺も気づいた。道路の脇に、地下への階段があった。避難入口の表示灯が、まだ点いている。本来は避難完了後に消灯するはずだ。点いているということは、誰かがまだ中にいる。あるいは、システムが稼働したままで放置されているか。
俺は階段の前に立った。鉄製の扉は半開きで、中から冷気が這い出している。手すらに微細な振動が伝わってくる。地下換気システムが動いている証拠だ。
「はやて」
俺は通信端末を取り出した。
「聞こえるか」
『聞こえとる。現在地は?』
はやての声が、少し雑音混じりで返ってきた。
「市街地の西側、地下避難入口の前だ。お前の分析班に確認してほしいことがある。このエリアの避難信号、まだ点いてる」
『…待ってや。確認する』
数秒の沈黙。向こう側でキーボードを叩く音がかすかに聞こえた。
『該当エリアの避難完了報告が出とらん。他の区画は全部完了になってるんやが、この一区画だけ未完了のまま残っとる』
「未完了か。逃げ遅れたのか、それとも避難所に入ったまま出られなくなってるのか」
『どっちともつかん。最後の通信記録は三十一分前。区画担当の誘導員が「住民の避難を誘導中」と送ったきり途絶えとる』
三十一分前。あいつが出現して二分後だ。その時間帯なら、まだ地上で避難誘導が行われていたはずだ。誘導員が通信を絶った。住民がまだ地下にいる。二つの事実が、あまり綺麗に繋がらない。
「ゼータ」
「行くよ」
俺が言う前に、ゼータが答えた。猫耳が低く伏せている。匂いを嗅ぎ分けているのだ。彼女の判断は、俺の言葉より速い時がある。
「地下の空気の中に、人の匂いがある。複数。五人以上。それと、血の匂いが微かに混じってる」
血。
俺は扉の隙間から中を覗いた。階段が地下へと続いている。照明は非常灯の青白い光だけだ。壁に避難誘導の矢印が並んでいる。三段目の階段に、何かがこびりついている。泥ではない。暗い色の、粘度の高い液体だ。
触れない。触る必要もない。匂いでわかる。
「はやて、状況が変わった」
『どうなっとる』
「地下に人がまだいる。五人以上。負傷者もいる可能性がある。誘導員の通信途絶から三十一分。このまま放置すれば、あの個体がまた動いた時に地下ごとやられる」
通信の向こうで、はやての呼吸が一拍だけ止まった。
『分かった。EXCEEDSの救助班を手配する。ただ、あの個体の半径五百メートル以内への立ち入りは危険指令が出とる。救助班が到着するまで最低でも二十分はかかる』
二十分。
俺は階段の奥を睨んだ。青白い非常灯の光が、暗い廊下の向こうで揺れている。空気の流れが変わったのか、それとも何かが動いたのか。光が一瞬だけ揺らいだ。
二十分は長い。あの個体が三十分以上動かなかったからといって、次の三十分も動かない保証はない。ゼータが言った通りだ。停止は準備の可能性がある。準備が終わった時、あいつがどう動くか、誰にも予測できない。
「二十分待ってる余裕はない」
『ツカサ——』
「俺が入る。ゼータと二人で地下の状況を確認して、市民を回収する。あの個体が動く前に終わらせる」
『前提として、あの個体と地下は関係あるんか?あいつが地下に反応してるとしたら、お前が近づくことで刺激する可能性もあるんや』
「だから確認する。あいつが地下の何かに反応してるのか、それとも無関係に停止してるだけなのか。それを判別するために、まず地下を見る」
はやてが沈黙した。三秒。長い三秒だった。総督が判断を下すのに必要な時間だ。部下の命と市民の命を天秤にかける時間。俺にはその重さを預かるつもりはない。だが、彼女が乗せるべきものを俺の皿に置く時間ではある。
『…分かった。ただし条件がある。あくまで確認と救助のみ。あの個体への交戦は、あたしの許可が出るまで禁止や』
「わかってる」
『それと、EXCEEDSの救助班到着次第、現場の指揮はあたしがとる。ツカサ先生が勝手に突っ込んだらあたしが困るんや』
「お前が困るのは俺の責任じゃない」
『責任やない。信頼の問題や』
その言葉に、俺は少しだけ口を閉じた。信頼。そう言ってくれる相手に、いつも俺は素直に返事をしない。返事の代わりに皮肉を言う。それが俺のやり方だからだ。だが、皮肉の下で、その言葉を受け取っていることを、相手がわかってくれていると良いと思う。まあ、はやてならわかっているだろう。
「助けに行く。それだけだ」
『うん。頼んだで』
通信が切れた。
俺は端末をしまい、ゼータに向き直った。
「聞いた通りだ。行くぞ」
「うん」
ゼータが先に階段へ降りた。音はない。影が伸び縮むように、暗闇の中に溶け込んでいく。俺が後に続く。非常灯の青白い光が、壁に等間隔に並んだ避難標識を照らしている。「地下避難区域 B-7」「収容人数 120名」「水・非常食備蓄庫あり」。整然とした案内表示が、平時に備えられた秩序の痕跡を示している。
階段を降りきると、短い廊下に出た。天井が低い。大人が立って歩けるギリギリの高さだ。壁はコンクリート打ちっぱなし。空気が重い。湿気と、鉄の匂いと、さっきゼータが言った血の匂いが、混ざり合って鼻腔に張り付く。
廊下の突き当たりに、分岐があった。左と右。左の通路の非常灯が点いている。右の通路は、消えている。
「右だね」
ゼータが左の通路を見据えたまま、右を指した。
「なんで左じゃない」
「左の通路からは何も感じない。空気の流れも止まってる。右は、風がある。地下の奥に空気が流れてるってことは、右の先がまだ開いてる。人がいるなら右だ」
論理的だ。俺は反論しなかった。ゼータの感覚は、この手の場面で外れたことがない。猫科の獣人が「匂い」と言う時、それは鼻だけの話ではない。気圧の変化、空気中の湿度の差、微かな振動、それら全部をまとめて「匂い」と呼んでいるのだ。
右の通路へ入る。非常灯がない。俺の端末のライトが、コンクリートの壁を白く照らす。床に何かが散乱している。瓦礫ではない。破片だ。プラスチックの破片。避難誘導の表示板が壁から剥がされて、床に砕かれている。故意に壊した跡だ。爪のような深い傷が、表示板の表面に刻まれている。
「侵略種か」
「違うね」
ゼータが、砕かれた表示板の前にしゃがみ込んだ。指先で傷をなぞる。爪を伸ばした手つきが、専門家のそれだった。
「爪痕の幅が狭い。あの市街地の個体の爪なら、これくらいの表示板ごと壁ごと砕く。これは、もっと小さい個体の爪だ。あるいは、人間サイズの何かだ」
「人間サイズ」
「人間とは言ってない。人間サイズの何か、だよ」
ゼータが立ち上がり、暗い通路の奥を見据えた。猫耳が、前方に向けられている。警戒モードだ。
「ツカサ。気をつけて。地下にいるのは、市民だけじゃないかもしれない」
俺はライドブッカーに手をかけた。ホルダーの革が軋む音が、静かな通路に小さく響いた。
暗闇の奥で、何かが動く音がした。