地下通路のさらに奥、二十メートルほど進んだところで、俺たちの足が止まった。
行き止まりではない。だが、通路が大きく変形していた。天井のコンクリートがひび割れ、鉄筋がむき出しになって内側に湾曲している。右側の壁が、外側へ押し出されるように膨らんでいる。まるで、巨大な何かが壁の外側から圧力をかけたかのような変形だ。
「構造体の損傷だ。でも、これは上からの圧力じゃない」
ゼータが壁に手を当てた。掌を壁面に押し付けて、振動を読んでいる。
「横からの圧力。地下の壁の外側、つまり土の中から、何かが押してる。今も」
俺も壁に触れた。コンクリートの冷たさの下に、確かに微かな振動がある。断続的だ。脈動のように。何かが、壁の向こうで動いている。
「あの市街地の個体とは関係があるのか」
「わからない。でも、この振動のリズムは、あの個体の頭部回転の周期と同じだね。三秒ごとの脈動。あいつが動いている時と同じ周期で、この壁の向こうの何かも動いてる」
三秒ごと。画面の中で、緑色の巨体が頭を回していた時の間隔。右、左、右、左。三秒ごと。そして今、地下の壁の向こうで、同じ周期で何かが脈動している。
俺の背筋に、冷たいものが走った。目のない敵が頭を回していたのは、地上の探索だけじゃなかったのかもしれない。地下の何かと、同期していたのか。あるいは、地下の何かが地上のあいつを動かしているのか。
「先へ進む」
「待って」
ゼータが俺の腕を掴んだ。静かだが、強い力だった。
「先に、匂いを確認させて。人の匂いが近づいてる。でも、それと一緒に別の匂いも強くなってる」
ゼータが俺の腕を離し、通路の奥へ一歩だけ踏み出した。鼻先をわずかに上げ、空気を吸い込む。猫耳が回転する。三秒。五秒。彼女の瞳が、闇の中で細く光った。
「市民はいる。通路の先、広い空間があるはずだ。そこに五人から七人。うちは子供の匂いもする。でも」
ゼータが、一歩退がった。
「その広い空間に、人じゃないものがもう一ついる。市民と同じ場所に、同じ空間に」
「数は」
「一つ。だけど」
ゼータの瞳が、俺を真っ直ぐに見た。
「あの市街地の個体と同じ匂いだよ、ツカサ。同じ種類の個体が、地下にもう一体いる」
言葉が、一瞬で筋肉に伝わった。右手がライドブッカーを握る。左手がネオディケイドライバーの縁を指先でなぞる。変身の準備。体が勝手に動く。三十年分の戦いが染み付いた反射だ。
だが、変身はしない。
はやての条件がある。交戦は許可が出るまで禁止。確認と救助のみ。市民と同じ空間に、もう一体の個体がいる。戦えば市民が巻き込まれる。戦わなければ、いつあいつが動くかわからない。
「ゼータ」
「うん」
「市民の位置と、個体の位置。どこに何がいるか、正確に把握できるか」
「広い空間の左手に市民が固まってる。個体は右手側。距離は、およそ十五メートル。市民のすぐ近くに、負傷者が一人在いる。動けない匂いがする」
「動けない匂いってのはなんだ」
「血の匂いが濃いんだ。出血量が多い。放っておけば持たないよ」
持たない。時間がない。
俺は暗い通路の奥を睨んだ。壁の脈動が、三秒ごとに伝わってくる。地下のもう一体が、今も動いている。地上の個体と同じリズムで。
やはり、こいつらは連動している。
俺の勘が、一つの形を取り始めていた。まだ確信ではない。だが、輪郭は見えつつある。地上の個体は目を持たない。代わりに何か別の感覚で周囲を探知している。その探知の対象が、地下にもう一体いる。地上と地下で、二つの個体が同じリズムで同期している。地上の個体が動かないのは、地下の個体がまだ何かを終えていないからかもしれない。あるいはその逆か。どちらが主でどちらが従なのか、まだわからない。
だが、わからなくてもやることは決まっている。
市民を助ける。あの空間にいる五人から七人のうち、一人は重傷だ。残りの人数は動けるかもしれない。だとすれば、あの狭い通路を通って脱出させればいい。問題は、脱出中に個体が動くかどうかだ。
「作戦を立てる。時間は五分だ」
俺は通路の壁に背を預け、端末を取り出した。はやてへの通信を繋ぐ。同時に、ゼータに向かって顎をしゃくる。ゼータが頷き、音もなく通路の奥へと消えていった。偵察だ。市民の正確な位置、個体の正確な位置、空間の形状。ゼータの目と鼻で、地図を作らせる。
『ツカサ先生、状況は?』
「地下にもう一体いる。市民と同じ空間だ。距離十五メートル。重傷者一名」
通信の向こうで、はやての息を呑む音が聞こえた。
『もう一体…二体目がおったんか』
「確認できたのは今のところ一体だけだ。だが、あるかもしれんと言っておく。ゼータが今詳細を確認してる。五分で戻る」
『救助班はまだ十五分かかる。間に合わんかもしれん』
「間に合わせるのは俺だ。お前は救助班を最短経路で誘導しろ。西側地下避難入口から入って右通路。突き当たりの手前で変形した区画がある。そこが現場だ」
『了解した。一つ聞かせてや。交戦は?』
「しない」
短く答えた。
「市民が同じ空間にいる以上、俺が変身して暴れれば崩れる。まずは回収が優先だ。あいつが手を出してこなければ、そのまま通過する。手を出してきたら、その時は俺が判断する」
『…わかった。無理せんでな』
通信を切る。端末の画面に、地下避難区域の構造図が表示された。この区画は元々地下駐車場を改装した避難区域だ。広い空間は駐車場の本体部分。通路は車両出入口を人間用に狭めたもの。空間の大きさは、概算で縦三十メートル、横二十メートル。天井高は三メートル前後。駐車場だから柱が並んでいるはずだ。
柱があれば、遮蔽物になる。
ゼータが戻ってきた。三足分の時間しかかかっていない。速い。
「報告する」
ゼータがしゃがみ込み、床の塵を指先でなぞりながら図を描き始めた。簡潔な線。空間の形。柱の位置。市民の位置。個体の位置。
「空間は概ね矩形。入口から見て左手奥に市民が六名。うち一名が床に伏せていて動かない。成人女性、おそらく誘導員。残り五名は市民。大人三名、子供二名。全員、壁際の隅に固まってる」
「個体は」
「右手側。入口から見て右奥。柱の一本に背を預けるように立ってる。動かない。でも、三秒ごとに体表が脈動してる。呼吸に近いリズムだね。全身が微かに収縮と膨張を繰り返してる」
「体格は」
「人間サイズ。地上の個体よりずっと小さい。でも、外形は似てる。緑色、人型、顔がない。ミニチュア版みたいな存在だ」
地上の個体と同じ形で、人間サイズ。壁の向こうの脈動と同じリズムで呼吸している。二体が連動している可能性は、ほぼ確実だ。
「市民の感情状態は」
「恐怖。静かな恐怖だね。声を出してパニックになってるわけじゃない。身動きが取れずに、ただ待ってる。子供二人は成人に抱えられてる。声は出てない。抑えてるんだよ」
静かな恐怖。声を殺して、個体が動かないのを祈りながら、壁際で固まっている。十五メートル先に、顔のない緑色の何かが立っていて、それが動かない。動かないからこそ、いつ動くかわからない。それが一番怖い。
「ゼータ、お前の速度なら、市民の元まで何秒で行ける」
「全力で三秒。ただし、子供を抱えた大人の移動速度に合わせるなら、往復に一分以上はかかる」
「個体の反応速度は見て取れたか」
「動いてないから測れない。でも、体表の脈動の間に一瞬の弛緩がある。その間なら、私の気配は消せる」
「いい目だ」
ゼータの瞳がわずかに細くなった。褒め言葉として受け取ったのか、呆れられたのか。おそらく後者だ。だが報告は続ける。
「作戦を決める」
俺はゼータが描いた床の図を見下ろした。柱が六本。入口から奥へ向かって二列三段。市民は左奥。個体は右奥。中央は柱が並ぶだけの空き空間。遮蔽は柱だけだ。
「ゼータが先に入る。市民の位置まで接近して、動ける五名に脱出指示を出す。重傷の誘導員はお前が運ぶ。子供二人は成人に抱えさせて、お前が先導して通路まで出す」
「個体が動いたら」
「俺が止める」