地下へ続く階段は、思ったよりも長い。
光はとっくに消えている。避難通路の非常灯すらここでは機能していないらしい。壁に手を触れると、ひんやりとしたコンクリートの感触が指先に残った。空気が重い。地上とは違う。湿った土と錆びた鉄と、もっと別の……何かの匂いが混ざっている。
「三秒」
ゼータの声が、空気を震わせるか震わせないかの音量で耳に届く。
「三秒ごとに、あれは呼吸みたいに脈打ってる。その間は少し鈍る」
俺は頷いた。ゼータはすでに気配を消している。暗がりの中で猫科の彼女は頼もしい。足音ひとつ立てずに階段を降りていく。
俺も続く。ライドブッカーを腰に携えたまま、壁伝いに半歩ずつ下りていく。一段ごとに空気が濃くなっていくのがわかる。地上の常識が通じる場所じゃない。
最下段に着くとゼータが片膝をついて待っていた。瞳が微かに光っている。獲物を前にした猫の目じゃない。仲間を見つけた時の、落ち着いた目だ。
「見えた。柱の向こう」
俺も姿勢を低くして、目を凝らす。
地下空間は、想像よりは広い。旧い地下駐車場かあるいは防空のための中継施設か。柱が等間隔に並び天井が低い。非常口を示す壁のプレートだけが、かろうじて輪郭を浮かべている。
奥の方に、人影が見えた。
六人じゃない。五、六……そう、子供が二人。その傍に大人が三人。壁際に寄り添うようにしてもう一人が倒れている。重傷の女性誘導員だ。かすかに肩が上下している。生きてはいる。
ゼータが俺の袖を軽く引いた。あっち、と指をさす。
そこに、いた。
黒い。形容しがたいほど黒い。脈打っている。心臓のようにではなくもっとゆっくりと潮が満ちるように。三秒に一度、あの黒い表面が内側へ沈みまた膨らむ。膨らむたびに周囲の空気がわずかに震えた。
頭部は……ない。少なくとも目や口に当たる器官は見えない。だが、その無貌の面がぐるりと避難者たちの方を向いているように見えた。
いつ動いてもおかしくない。一目でわかった。あれは寝ているんじゃない。待っているんだ。
「ツカサ」
子供の一人がこちらを見つけていた。声を出さず、唇だけで呼んでいる。震えていたが目はしっかりしている。
俺は静かに近づいた。足音を殺し柱の影をなぞるように。大人たちが気配に気づき、男が警戒して身構える。
「通りすがりだ。助けに来た」
声は出さず、口の動きで伝える。
大人の一人が目を見開き、何度も頷いた。涙を拭く手が震えている。
ゼータが子供の前にしゃがみ込み、背中を差し出した。彼女に任せる。
「男の子を。女の子は俺が」
男の子は小さな声で「こわい」と言ったが、ゼータが黙って背中を向けると自分からしがみついた。えらい。俺は女の子を抱き上げる。彼女は声を出さず、ぎゅっと俺の首すじに顔を押しつけてきた。熱い涙が頬に触れた。
「誘導員を背負う。時間がない」
ゼータが言う。彼女は男の子を背負いながら、倒れている女性の脇に膝をついた。
「肩、借りるよ」
女性はうわごとのように「ごめんなさい」と繰り返した。ゼータは一度だけ首を振り、静かに背負った。体が痛むはずなのに顔色ひとつ変えない。
俺は地下個体と避難者の間に立った。
もしあれが動いたら、最初に俺が受ける。ライドブッカーを抜くかどうかはまだ迷った。音を立てる。抜かない。だが手は柄にかけたままだ。
避難者たちが動き始めた。最初の大人が、靴を脱いで裸足で歩き始めた。賢い。地下の床は音が響くからだ。後の者も続く。
ゼータは男の子と誘導員を背負い、最後方から移動する。
子供たちが泣き声を我慢している。女の子がぎゅっと俺の服を掴む感覚が胸に残る。
その時だった。
脈動が乱れた。
潮の満ち引きが狂い黒い個体の表面がびくりと波打つ。沈みきるはずのその瞬間に、膨張が起こった。空気がひずむ。柱の一本が微かにきしむ。
そして、その顔のない頭部がゆっくりとこちらへ向いた。
正確に、俺の位置へ。
「っとに、面倒だ」
俺は動かなかった。
俯いたまま、背後で最後の避難者が階段へ差しかかったのを音で感じる。足音が遠ざかる。ゼータが一瞬立ち止まった気配がする。
だが俺は手を出さない。まだ、動かない。
あいつの視線が俺に張りつく。顔がないのに、見られている。
「ツカサ」
ゼータが、階段の陰で呼んだ気がした。
俺は、ゆっくりと構えを解いた。戦いは、此処からだ。
顔のない頭部が、俺を認識していた。
それは目ではない。鼻でも耳でもない。だが無貌の面が俺の方を向いているという事実だけは、肌でわかる。静電気のように空気が肌を刺す。あれは感覚器官だ。何かで周囲を把握している。そして今、その焦点が俺に固定されている。
動いた。
脈動の膨らみが止まらない。三秒ごとのリズムが崩れ、黒い表面が不規則に波打ち始めた。潮が満ちるような緩やかさは消えた。代わりに、溶岩が冷えて固まる時のような、重く粘りのある動き。黒い塊の底面から、何かが伸びる。足ではない。枝でもない。もっと不定形な、泥が盛り上がるような隆起。それが床を押し、身体を前に進めた。
ゆっくりだった。だが確実に、俺と避難者の間の距離が縮まっている。
俺は後ろへ下がらなかった。下がれば、あいつはまっすぐ避難者へ向かう。俺がここに立っている限り、あいつの焦点は俺から外れない。それでいい。
「ゼータ」
声は出さない。唇だけで名前を刻む。階段の陰から、わずかに金色の瞳が光った。合図だ。行け。
足音が遠ざかる。ゼータが背負う重傷者の呼吸が、かすかに震えているのが聞こえた。男の子を抱えたもう一人の大人の足音も、裸足のまま階段を登り始めている。子供たちは泣かない。泣きたいのを必死に我慢している息遣いだけが、暗闇に漏れる。
俺は柱に背を預けたまま、ライドブッカーを抜かない。まだだ。金属音は響く。この地下空間では、音がどこまで届くかわからない。あいつを刺激したくない。
黒い個体が、一歩近づいた。
床のコンクリートが、あいつの底面の圧力でひび割れる音がした。乾いた音ではない。湿った、何かが潰れるような音。重い。
俺は右手で柱の表面を叩いた。空いた掌で、軽く。音は小さい。だが地下の静寂の中では、それだけで十分な大きさで響く。
黒い個体の無貌の面が、わずかに振れた。俺から、柱の方へ。
効く。あいつは音に反応する。視覚ではなく、振動で位置を把握しているのか。なら、音が武器になる。ただし銃は使えない。発砲音は大きすぎる。崩れかけの天井が落ちる。
俺は隣の柱へ移動した。足音は殺す。だが移動した先で、もう一度掌で柱を叩く。
音が二つ、違う方向から響く。あいつの無貌の面が、最初の柱の方へ向けられた。空振りだ。俺はもういない。
あいつの底面が、最初の柱の方へ伸びた。泥のような隆起が柱の根元をなぞり、通り過ぎる。俺はもう二本先の柱の陰にいる。
障害物として使え。この空間には柱が六本。等間隔に並んだ鉄筋コンクリートの柱。あいつの体格では、柱の間を直線で通れない。迂回しなければならない。その迂回の時間が、ゼータ達に必要な時間を稼ぐ。
三本目の柱を叩く。音が響く。あいつの表面が波打ち、方向を修正する。俺は四本目へ移動した。あいつは三本目の柱を調べに行く。俺はもう次にいる。
追いかけっこだ。ただし俺が全部の主導権を握っている。あいつは音を追い、俺は音を配置する。柱の配置と音の響きで、あいつの進路を俺の周囲で回している。避難者の方へは、一歩も進ませない。
だが、長くは続かない。
あいつが学習し始めていた。
三度目の音の囮で、あいつは柱の方へ向かわなかった。代わりに、底面の隆起を床全体へ広げたのだ。泥のような波がコンクリートの床を這い、俺の立っている柱の根元へ触手のように伸びてくる。
位置を特定したのか。音の発生源を逆算したのか。どちらにせよ、もう同じ手は通用しない。
俺は柱を離れた。壁際へ滑るように移動する。ライドブッカーのグリップを握る。まだ抜かない。だがいつでも抜ける。
あいつの触手が柱の根元を巻き込み、コンクリートをひび割れた。柱がきしむ。天井の粉が落ちる。まずい。この地下空間の構造は脆い。あいつが力任せに動けば、天井が持たない。
「ツカサ」
階段の上からゼータの声が降ってきた。声は小さい。だが確信を持った声だ。
「全員、脱出経路へ入った。地上まであと少しだ」
「わかった」
俺は答えようとして、やめた。声を出せば位置がわかる。代わりに壁を一度だけ掌で叩いた。合図だ。俺はまだ下にいる。だが、すぐに上がる。
あいつの無貌の面が、壁を叩いた音の方へ向いた。触手が床を這って俺の方へ伸びてくる。速い。さっきより速い。
俺は壁を蹴った。横へ跳ぶ。触手が壁の表面を削り、コンクリートの粉が舞う。着地した位置は、階段の入り口から最も遠い壁際だ。わざとだ。あいつを一番遠い場所へ引き寄せる。
無貌の面が俺を追う。触手が方向を変え、床を這ってこちらへ向かう。俺は動かない。これでいい。あいつが俺を見ている間に、ゼータ達が地上へ出る。
時間は十秒。いらない。三秒でいい。
あいつの触手が、俺の足元から三メートルの位置まで来た。黒い表面が泡立ち、先端が俺の靴の先を探るようにのたうつ。来る。あと二秒。
俺は壁を蹴って跳んだ。
上だ。柱の横を通り抜け、階段の入り口へ着地する。触手が空を切る。俺の踵のすぐ後ろで、黒い波がコンクリートを砕いた。もう一度。あと一回。
階段を駆け上がる。一段抜かしで二段飛ばし。背後で地下空間の壁がひび割れる音がした。あいつが暴れている。俺を追って階段まで来るのか。それとも別の何かに反応したのか。振り返る余裕はない。
ゼータが階段の上で待っていた。背中に男の子を抱え、肩に重傷の女性を担いだまま、片手で俺を引き上げる体勢をとっている。器用な奴だ。
「全員、地上だ」
「わかってる」
最後の一段を駆け上がり、地上の空気を吸い込んだ。湿った地下の空気とは違う。冷たくて乾いた、夜の空気だ。
ゼータが背中の男の子を下ろした。男の子はゼータの服を掴んだまま離れない。ゼータは何も言わず、頭を一度だけ軽く撫でた。男の子の手が、わずかに緩んだ。
重傷の女性を他の避難者に預ける。大人たちが手分けして彼女を支え、子供二人を抱き上げた。全員が地上の避難通路へ入っている。地下から出た。全員、出した。
その瞬間だった。
地下から、脈動が来た。
さっきまでとは違う。三秒ごとのリズムでも、不規則な乱れでもない。一発の、重い打撃のような脈動。地面を通じて足の裏に伝わる。建物の基礎が震える。避難通路の壁の補強板ががたがたと鳴った。
「地震?」
避難者の一人が声を上げる。違う。地震じゃない。あれは地下から来ている。あの個体が、一つ大きな脈動を放ったのだ。
通信が鳴った。
『ツカサ先生、聞こえますか!』
はやての声だった。久しぶりに聞く声だが、今は落ち着いた総督の声じゃない。現場の指揮官の声だ。
「聞こえてる。何があった」
『地上の巨大個体が動き出した。今まで沈黙してたのが一斉に活動開始。こっちは対応中やけど、そちらのそばの地下個体も連動してる可能性が高い』
連動。地下と地上。あの脈動は、地下の個体だけのものじゃなかった。地上の巨大個体と共鳴した衝撃だ。俺の足元の地面が、まだ微かに震えている。
『すぐに離脱せえ。その地下個体はまだ制圧できてない。無理はせんでええ』
「無理はしてない」
俺は短く答えた。
「避難者は全員脱出させた。俺達も今出た」
『よかった。ならそのまま退け。ええな、ツカサ先生。無茶せんといてや』
「俺はいつも無茶してない」
『してる。絶対してる。後で話す』
通信が切れた。はやての早口が残像のように耳に残る。あいつも変わらないな。総督になっても口調は昔のままだ。
地下から、二度目の脈動が来た。さっきより強い。地面の亀裂から空気が噴き出す音がした。地下空間の天井が崩れ始めている。あの中はもう使えない。
「行くぞ」
俺はゼータに目で合図した。ゼータは頷き、避難者たちの方へ向き直る。
「案内する。ついてきて」
ゼータが先頭に立ち、避難者たちを誘導し始めた。俺は最後尾に付いた。背後の地下入口から、三度目の脈動が来る。もう地面だけじゃない。空気が震えた。建物の窓ガラスが一斉に鳴る。
だが振り返らない。まだだ。あの個体の正体も、地上の巨大個体との関係も、今は知る必要がない。今すべきことは一つだ。こいつらを安全な場所まで運ぶ。
足元の震えが少しずつ収まっていく。地下からの脈動が遠ざかっている。離れているのか、それともあいつ自身が動いているのか。どちらにせよ、俺たちの後を追っては来ていない。
夜の空気は冷たかった。地下の湿気とは違う、乾いた風が頬を撫でる。子供を抱えた大人の足取りが、少しだけ速くなった。地上に出た安心感が、体に戻り始めているのだ。
俺はライドブッカーのグリップから手を離した。まだ完全に警戒が解けたわけじゃない。だが今は、ただ歩く。