避難者を救助班へ引き渡したのは、地下から出て三分後だった。
救援の車両がすでに路上に並んでいた。EXCEEDSのマークがついた装甲車と、救急のランプ。はやてが手配していたのか、それとも瑞穂の自治体が動いたのか。今はどちらでもいい。大人たちが子供を抱えたまま救助班の方へ歩いていく。重傷の女性が担架に乗せられる。ゼータが背中から下ろした時、女性はもう一度だけ「ごめんなさい」と呟いた。ゼータは何も答えず、ただ袖口についた血を無表情で拭った。
男の子が振り返った。ゼータの方を見ている。ゼータは目を合わせず、小さく手を振った。男の子はそれを見て、やっと顔を伏せた。
「終わったか」
俺は救助班の一人に声をかけた。彼は頷き、避難者名簿を確認し始めた。全員の人数が合っている。地下に残っている人間はいない。それだけは確かだ。
ゼータが俺の隣に立った。背中の服が汗で濡れている。重傷者を背負って地下通路を駆け上がったのだ。無理がないはずがない。だがあいつは顔色一つ変えていない。
「デルタは」
『ここ』
通信からデルタの声が入った。地上だ。どこにいるかは聞かなくてもいい。あいつの気配は、俺の肌でわかる。近い。
「怪我は」
『ない。あいつら硬かっただけ』
だろう。あいつの硬さは俺も知っている。
その時、地面が震えた。
地下からの時とは違う。もっと重く、もっと広い振動。足の裏だけでなく、腹で感じる。空気が圧迫される音。建物のガラスが一斉に鳴る音が、遅れて届いた。
俺は振り返った。
街の向こう、ビルの谷間の向こうに、それが見えた。
巨大だ。
大きいという言葉では足りない。ビルとビルの間に挟まれているのに、ビルの方が小さく見える。黒い体躯が夜空を埋めている。月明かりさえあいつの表面に吸い込まれて消える。地下で見た個体の何倍か。いや、比較にならない。
あいつが動いている。
ゆっくりと、だが確実に、市街地の方へ向かっている。一歩ごとに地面が震える。アスファルトがひび割れ、街灯が倒れ、電線が弾ける。あの進路の先には、住宅街がある。
「ツカサ先生」
通信からはやての声が入った。総督の声だ。だがその奥に、焦りが滲んでいる。
『巨大個体が市街地へ向かってる。防衛線を張る時間がない』
「わかってる」
『迎撃を許可する。でも条件がある』
「条件」
『周辺被害を最小限に抑える。市街地へ入れるな。倒すのが最優先じゃない。市民を守るのが最優先や』
はやての声が、一瞬だけ総督じゃない声になった。昔、俺に教えを請うた頃の声。あの時と同じ真剣さだ。だが今はあいつが指揮する側だ。条件をつける立場になっている。
「了解だ。派手にはやらない」
『ツカサ先生』
「なんだ」
『頼んだで』
通信が切れた。
俺はネオディケイドライバーのバックルに手をかけた。カードは指の間にある。一枚目。
「変身」
バックルを閉じる。
マゼンタの光が全身を包む。装甲が展開し、視界がクリアになる。ディケイドの複眼が夜の街を捉える。だがこれだけじゃ足りない。あの大きさの相手に、ディケイドのままではリーチも質量も足りない。
次のカードを抜く。ライドブッカーから指を離さず、ドライバーへ装填する。
マゼンタが黄色へ。装甲が重組し、黒と黄色のラインが走る。ライジングホッパーの複眼が赤色に発光。跳躍力は十分だ。だが今必要なのは跳躍じゃない。質量だ。あいつを止めるための、圧倒的な質量。
俺は街の端に立っていた。巨大個体と市街地の間。進路上に立つ壁。それが今の俺だ。
あいつが近づいてくる。
地下で見たのと同じ黒い表面。脈動している。三秒ごとに、あの粘着質なリズム。だが規模が違う。一歩の振動で街灯が折れ、道路が隆起する。あいつが通った後には、何も残らない。
一歩。
二百メートル。
一歩。
百五十メートル。
あいつの輪郭が見え始めた。四肢があるのかどうかさえ、この距離では判別できない。ただ黒い質量がこちらへ押し寄せている。津波のように。
百メートル。
俺は足を踏ん張った。地面が割れる。両腕を前に突き出し、胸部の牙を正面へ向ける。受け止める体勢。
七十メートル。
あいつの表面が細部まで見える。黒いのだが、均一ではない。ところどころに脈動する隆起があり、その隆起が地下で見た個体と同じ質感を持っている。同じ系譜。だが今はそれを考えている余裕はない。
四十メートル。
衝突。
衝撃が全身を貫いた。
あいつの質量が、正面から押し込んでくる。ブレイキングマンモスの両腕が、あいつの体表面を押している。だが動かない。いや、動いている。俺が後ろに押されている。一歩。二歩。足の下のアスファルトがめり込む。
押し返す。
両腕に力を込め、胸部の牙をあいつの体表面へ食い込ませる。牙が黒い表面をひっかく。深くは食い込まない。硬い。だが滑る。牙が軌道を逸らそうとしている。あいつの進路を正面からそらす。右へ。市街地から遠ざかる方へ。
あいつは曲がらない。真っ直ぐに、市街地の方へ押し続けている。俺の両腕が、あいつの質量に拮抗している。押しても押せない。引いても引けない。二つの巨体が、街の端で凍りついたように動かない。
瓦礫が落ちてくる。あいつの体表面から剥がれたのか、それとも周囲の建物から落ちてきたのか。破片が俺の肩に当たる。だが装甲が弾く。今は関係ない。
あいつの脈動が変わった。
三秒ごとのリズムが、一瞬だけ速くなる。そして、地下から振動が返ってきた。
足の裏を通じて伝わる。地下個体の脈動だ。さっきまでとは違う。地上の巨大個体の脈動に応答するように、地下から同じ振動が返ってきている。
送信と受信。地上が打ち、地下が返す。地下が打ち、地上が返す。二つの脈動が重なる瞬間、俺の全身の装甲が震えた。共鳴している。
連動だ。
地下の個体と地上の巨大個体は、繋がっている。一つの生き物の二つの部分なのか、それとも別の関係なのか。それはまだわからない。だが確実に言えることがある。こいつを市街地へ入れるわけにはいかない。地下の個体が応答し続ける限り、こいつは止まらない。
俺は両腕にさらに力を込めた。牙が黒い表面を深くひっかく。火花ではない。黒い体液のようなものが滲む。だがあいつは止まらない。俺も止まらない。
互いに押し合う二つの巨体の間で、夜の街がきしんでいる