拮抗が続いていた。
俺の両腕が巨大個体の体表面を押し、巨大個体が俺を押し返す。二つの質量がぶつかり合い、その衝撃が足元のアスファルトを砕き続けている。だがどちらも動かない。互いに踏ん張り合っているだけの、力比べだ。
力比合なら負けない。だが勝てもしない。
それでいい。今は倒す必要がない。避難が完了するまで、こいつをここに留めればいい。それが俺の役目だ。
だが、こいつは待ってくれない。
巨大個体が体躯を沈めた。突進の予備動作だ。俺は知っている。さっきと同じ動きだ。一度受け止めた相手の癖は、一度で読める。
来た。
質量が押し込んでくる。さっきよりも重い。体勢を低くした分、突進力が増している。俺の両腕が衝撃に耐えきれず、一歩、後ろに踏み込んだ。足の下のアスファルトがめり込む。いけない。後ろは市街地だ。これ以上下がれば、住宅街の境界面に届く。
腰を落とした。
ブレイキングマンモスの脚部装甲が地面を捉える。踏ん張りではなく、根を張る感覚だ。巨体の重心を低く落とし、受け止める面積を広げる。突進の力を正面で止めるのではなく、斜め上方へ逃がす。
身体を右へ傾けた。
左肩が巨大個体の体表面に密着し、右肩を引く。受け止める面が斜めになる。突進の力が正面から斜めへ流れる。物理の話だ。垂直に当てれば全部の力が返ってくる。斜めに当てれば力の一部が横へ逃げる。
巨大個体の進路が、わずかに右へずれた。
一歩。二歩。三歩。あいつの足が、市街地の境界線から外れていく。俺の体躯が壁の代わりになっている。あいつが押せば押すほど、斜めの角度の分だけ進路が外れる。力任せに押し返しているんじゃない。あいつ自身の力を利用して、方向を変えている。
「ツカサ」
ゼータの声が通信から入った。地上だ。どこにいる。
『避難者、全員救助班に引き渡した。救助班が南側の避難所へ移動中』
南側。俺の後ろだ。今、俺が巨大個体の進路を逸らしている方向の逆。あいつらが南へ逃げている限り、俺はこいつを北へ逸らし続ければいい。
『デルタは避難経路の周囲を警戒中。二次被害の危険はない』
「わかった」
短く答えて、視線を正面に戻す。巨大個体の体表面が目の前にある。黒い質量が波打ち、脈動のたびに表面が隆起しては沈む。地下で見たのと同じ質感。同じリズム。
三秒。
脈動が来る。巨大個体の表面が膨らむ。同時に、足の裏を通じて地下からの振動が届く。同じ間隔。同じ強さ。地上が打ち、地下が返す。
二度目の脈動。今度は地下が先に打った。巨大個体の表面がそれに応答する。順序が変わった。送信と受信が入れ替わる。
やはり連動している。
地下の個体が操作しているのか。地上の巨大個体が親で地下が子なのか。それとも全く別の関係なのか。今は断定できない。だが二体の脈動が同期している事実だけは、この足の裏で確実に感じている。
巨大個体が再び動いた。
今度は体躯を捻っている。俺の斜めの受け止めを読んだのか。正面からではなく、左側へ回り込もうとする動きだ。俺の右肩の側面へ押し込んでくる。角度を変えれば、また進路を変えられる。だがあいつも学習している。
俺は左腕を離した。
右腕だけの押しでは支えきれない。だが左腕は別の用途に使う。左の掌を巨大個体の左肩へ当てる。肩だ。関節の付け根だ。突進の力は脚から腰へ、そして肩へ伝わる。肩を押せば上半身の向きが変わる。
押した。
巨大個体の上半身が右へ振られる。突進の方向が変わる。左へ回り込もうとした動きが、右へ曲げられた。あいつの脚が、意図しない方向へ踏み出す。体勢が崩れる。
崩れた。倒れない。だが一瞬だけ止まった。
その一秒で、俺は左腕を胸部の牙へ伸ばした。グレインゴッド。一対の巨大な牙。本来は敵をなぎ倒す武装だが、今は違う。牙の先端を、巨大個体の左肩の付け根へ引っかける。深く刺さない。表面を掠める程度に。だが引っかける。フックのように。
巨大個体が再び動き出そうとした時、牙が引っかかった部位に抵抗を与える。自由に動かせない。肩の可動範囲が制限される。倒れはしない。だが左腕を振り回すことができない。進路を変えるための拘束だ。あいつを倒すためではない。
あいつが体躯を右へ振った。グレインゴッドが外れそうになる。だが俺は牙を引いたまま身体ごと右へ移動する。巨大個体の動きに合わせて、俺自身が動く。引っかけて、引いて、方向を変える。釣りだ。巨体と巨体の釣り。
少しずつ、少しずつ、あいつの進路が北へ向いている。市街地から離れる方向。広い場所。建物が少ない方向。そこへ出せば、周囲に壊れるものがない。
だが、あいつはまだ市街地の方を見ている。無貌の面が、住宅街の方向を向いたまま離れない。俺が進路を変えても、あいつは体躯をねじって市街地の方へ向き直ろうとする。意志があるのか。それとも何かに引かれているのか。
三度目の脈動が来た。
今度は強い。地下からの振動が、地面を通じて俺の脚部装甲を揺らす。同時に巨大個体の表面が大きく膨らみ、衝撃波となって俺の胸甲を叩いた。共鳴だ。二体の脈動が完全に重なった瞬間、衝撃が倍増する。
俺は一歩下がった。意図的に下がった。衝撃を逃がすためだ。だがその一歩で、巨大個体が詰めてきた。距離が詰まる。あいつの体表面が俺の胸部に押し付けられる。グレインゴッドが圧迫される。牙がきしむ音がする。
まずい。このまま押し合いを続ければ、共鳴の衝撃が来るたびに俺が下がる。下がれば市街地に近づく。
俺は右腕を放し、巨大個体の右肩を掴んだ。左肩のグレインゴッドはそのままだ。両側から肩を押さえる形。抱え込む。拘束だ。あいつの両腕の可動範囲を制限する。突進の力を殺ぐために、腕を封じる。
巨大個体が抵抗した。体躯を左右に振り、俺の手を振り払おうとする。だがブレイキングマンモスの腕力は二十五トン。振りほどくには、それ以上の力が要る。あいつの力は強い。だが今、腕の可動範囲を制限されている分、力が分散している。フルパワーの突進は出せない。
「ツカサ、避難班が南側避難所へ到着した」
ゼータの通信だ。
『全員、収容完了。これ以上の避難行動は不要』
全員、助かった。
俺は拘束を緩めなかった。まだだ。避難は終わったが、こいつをこのまま放せば、また市街地へ向き直る。広い場所へ移動させるまで、手は離せない。
だが、避難が終わった今、俺の優先順位が変わる。市民の安全は確保された。次は、こいつを市街地から遠ざけることだ。
俺は右肩を掴んだまま、左肩のグレインゴッドを引いた。両方向から力をかけ、あいつの体躯を北へ向ける。ゆっくりと、だが確実に。一歩ずつ。建物の少ない方向へ。
巨大個体が抵抗する。だが両肩を押さえられた状態では、突進の方向を変えることしかできない。力を前方へ出すには、まず体勢を立て直さなければならない。その時間を、俺は与えない。
北へ。一歩。もう一歩。
ビルの谷間から開けた場所へ出た。建物が減り、視界が広がる。地面は駐車場か、あるいは公園の跡地か。瓦礫は少ない。ここなら力を出しても周囲への被害は少ない。
俺は巨大個体の肩を離した。
グレインゴッドも外す。拘束を解いた瞬間、あいつが前のめりになった。体勢を立て直そうとして、一歩踏み出す。だがその一歩は、市街地の方ではない。俺が誘導した北の方向だ。あいつ自身の慣性が、そちらへ運ぶ。
そして、脈動が来た。
三秒。地下からの振動が返る。巨大個体の表面が波打つ。だが今、あいつの無貌の面は市街地の方を向いていない。北を向いている。俺の方を向いている。
地下からの脈動が、もう一度来る。今度は弱い。巨大個体の応答も、弱い。距離が開いたのか。それとも、あいつが地下の呼び声から離れつつあるのか。
わからない。だが、一つだけ確かなことがある。
俺は足の裏で、地下の振動を感じ取ったまま、巨大個体の表面の脈動を見ていた。二つのリズムが、完全に重なっている。送信と受信。呼びかけと応答。地下と地上。二体は、確かに連動している。
この個体を倒せば、地下の個体にも影響が出るのか。それとも逆なのか。地下を先に制圧しなければ、地上は止まらないのか。答えはまだ出ない。
だが、今はこれで十分だ。避難者は全員助かった。巨大個体は市街地から離れた。建物の倒壊は、この開けた場所なら最小限で済む。
俺はブレイキングマンモスの装甲の内側で、深く息を吐いた。汗が背中を伝う。マンモスの重量は身体に来る。だがまだ、支えられる。
「はやて」
『聞こえてる』
「避難完了だ。巨大個体は市街地から北側の空地へ誘導した。今のところ周辺被害は軽微だ」
『了解。そのまま監視続けて。追加の部隊が向かってる』
「あと一つ」
『なんや』
「地下の個体と、この巨大個体は連動してる。脈動が完全に同期してる。片方を動かせば、もう片方が応答する」
通信の向こうで、はやてが息を止めた音がした。
『……確定か』
「この足の裏で、確実にな」
沈黙が流れた。数秒の空白。はやてが何かを考えている時間だ。俺はその間も、巨大個体から目を離さなかった。あいつはまだ北を向いている。だが、いつまた市街地へ向き直るかわからない。
『わかった。解析班に回す。ツカサ、そのまま現場を維持して。無理するなよ』
「無理はしてない」
『してる。絶対してる』
通信が切れた。
俺は巨大個体と向き合ったまま、動かなかった。二つの巨体の間に、夜の風が吹き抜けていく。地下からの脈動が、また一つ、足の裏に届いた。