北側の空地に、夜風が吹き抜けていく。
俺はブレイキングマンモスの装甲の内側で巨大個体と向かい合っていた。さっきまでとは違う。あいつはもう突進してこない。無貌の面を俺に向けたまま、動かない。だが動かないことが一番怖い。何を考えているか読めないからだ。
巨大個体の体表面がゆっくりと波打っている。脈動のリズムは一定じゃない。三秒だったり、二秒だったり時には五秒だったり。あいつも疲れているのか、それとも何かを待っているのか。
俺は姿勢を崩さなかった。両腕を前に出し、グレインゴッドを正面へ向けたまま。いつでも動ける体勢。だが今は、動かない方がいい。避難は完了している。救助班も南側へ移動した。ここで無理に動けば、周囲に被害が出る。
巨大個体が、ゆっくりと動いた。
体躯を右へ捻っている。俺から逃げるわけじゃない。市街地の方へ向き直ろうとしている。無貌の面が、ゆっくりと南の方角へ向く。あっちには地下避難区域がある。救助班の移動経路もある。
やらせるか。
俺は半歩踏み出した。巨大個体の進路を塞ぐ位置へ移動する。だが、あいつは俺を見ていない。俺を通り越して南の方を見ている。まるで俺が壁になっていないかのように。
地下から、脈動が来た。
強い。今までで一番強い。地面が大きく揺れ、足の裏から太腿まで振動が伝わる。それに応じて、巨大個体の体表面が大きく膨らんだ。あいつの全身が、内側から何かを押し出されるように隆起する。
巨大個体が動いた。
俺は両腕を前に出して受け止める。だがあいつの動きが違う。正面からの突進じゃない。体躯を斜めに滑らせながら、俺の左側を通り抜けようとしている。回避だ。あいつ、さっきの俺の受け止め方を学習している。
左へ回り込む。俺の右腕が空を切る。巨大個体の体表面が、俺の手のひらをすり抜けるように変形した。さっきまで固かった表面が、今は泥のように柔らかく俺の指が食い込まない。
「っ…」
俺は体勢を立て直そうとした。だが遅い。巨大個体の体表面から不定形の隆起が伸びて、俺の左腕に絡みつく。腕だ。あいつの一部が、腕のように伸びている。押し退ける力が強い。俺の左半身が浮きかける。
両足で踏ん張る。地面を掴む。アスファルトがひび割れ、脚部装甲がめり込む。だが押される。じりじりと、右へ。俺の身体が巨大個体の進路から外されていく。
まずい。このまま押し退けられれば、あいつは南へ行く。
俺は右腕を伸ばした。巨大個体の体表面へ掴みかかる。だが、掴めない。さっきまで掴めていた表面が触れる直前で形を変える。指が滑る。まるで水を掴もうとしているみたいだ。
「ツカサ!」
ゼータの声が通信から入った。
「脈動、来る!」
その瞬間、地下から振動が届いた。さっきより強い。三秒のリズムが崩れ、二つの脈動が完全に重なる。地下の振動と巨大個体の体表面の波打ちが、完全に同期する。
共鳴。
衝撃が来た。
巨大個体の体表面から、衝撃波が放射される。俺の胸甲を正面から叩く。グレインゴッドが圧迫され、装甲の内部でフレームが軋む。俺の身体が浮く。足が地面から離れる。後ろへ。三メートル、五メートル。
膝をついた。
着地の衝撃で、地面が砕ける。ブレイキングマンモスの重量が、片膝に集中してアスファルトを粉々にする。俺は右手を地面について、体勢を支える。だが立ち上がれない。共鳴の衝撃が、まだ身体の中に残っている。内臓が揺れている。
巨大個体が動いた。
俺を押し退けたあいつは、南へ向かって一歩踏み出す。避難経路の方へ。地下避難区域の方へ。あっちには救助班がいる。避難者がいる。移動中の車両がある。
「しまった…」
俺は歯を食いしばった。立ち上がらなければ。だが、膝が震えている。ブレイキングマンモスの重量が、共鳴の衝撃で内部にダメージを与えている。フレームの軋む音が止まらない。
巨大個体が二歩目を踏み出す。
「ツカサ、聞こえる」
ゼータの声だ。落ち着いている。いつも通りだ。
「地下の脈動、妨害した。あと十秒で次の脈動が来る。その前に動いて」
十秒。
俺は右手に力を込めた。地面を掴む。膝を立てる。ブレイキングマンモスの装甲が、きしみながら立ち上がる。重い。だが立てる。まだ、動ける。
巨大個体が三歩目を踏み出す。市街地の境界線まで、あと少しだ。
俺は踏み出した。痛みは無視する。装甲の軋みも無視する。今は、あいつを止めることだけを考える。
巨大個体の背中へ、俺は右腕を伸ばした。さっきは掴めなかった体表面を、今度は掴む。あいつの体表面が変形しようとする。だが、俺は指を立てて表面へ突き刺すように力を込めた。
グレインゴッドの牙を、あいつの背中へ引っかける。
深くは刺さらない。だが引っかかる。フックのように。あいつの進路が、わずかに逸れる。三歩目が斜めへ。四歩目が、さらに斜めへ。
俺は牙を引いた。あいつの体躯が、右へ振られる。南じゃない。東だ。市街地の境界線から、平行に近い方向。完全には止められない。だが、南へは行かせない。
巨大個体が抵抗する。体躯を振り、俺の牙を振り払おうとする。だが俺は離さない。右手を放し、左手を伸ばす。両腕であいつの背中を掴む。抱え込む形。押し込む。
「はやて!」
『聞こえてる!』
「巨大個体、進路を東へ変更した。市街地の境界線に沿って動いてる。だが、まだ南へ向き直ろうとしてる!」
『了解。救助班は南側避難所へ到着済み。だが、地下避難区域の移動経路がまだ完全じゃない。あと少し時間を稼いで!』
「わかってる!」
俺は両腕にさらに力を込めた。巨大個体の体表面が、俺の腕を押し返そうとする。不定形の隆起が、俺の指に絡みつく。だが離さない。
地下から、脈動が来た。弱い。ゼータがまだ妨害を続けている。巨大個体の応答も、弱い。あいつの力がさっきより落ちている。
今のうちに。
俺は巨大個体の背中を掴んだまま右へ回り込んだ。あいつの正面へ出る。無貌の面が、俺の方を向く。だがもう遅い。
俺は両腕をあいつの体表面へ押し当てグレインゴッドを正面から引っかけた。肩の付け根。さっき学習された場所じゃない。今度は、胴体の中心。あいつの体躯の真ん中へ牙を引っかける。
そして、押した。
今度は防御じゃない。押し返しだ。東へ。市街地から離れる方向へ。広い場所へ。あいつの質量を、俺の質量で押す。二十五トンの腕力。ブレイキングマンモスの全てを、この一押しに込める。
巨大個体が後退した。一歩。二歩。三歩。
南から、東へ。市街地の境界線から完全に離れる。開けた場所へ。建物の少ない方向へ。あいつの足が、アスファルトを砕きながら後退していく。
地下からの脈動がまた弱まる。ゼータがまだ妨害している。二体の連動が、今は断たれている。
俺は押し続けた。あいつが抵抗するたびに、牙を引っかけて方向を修正する。倒さない。ただ、向きを変える。南へ行かせない。市街地へ戻さない。
巨大個体の背中がビルの壁に当たった。もう、下がれない。あいつは立ち止まり無貌の面を俺に向けた。
俺は両腕を離した。グレインゴッドを外す。一歩下がる。距離を取る。だが、目は離さない。
巨大個体は動かなかった。体表面が波打っている。脈動のリズムは、まだ不規則だ。地下からの振動も弱いままだ。
俺は息を吐いた。膝の震えがまだ残っている。装甲の軋みも、まだ聞こえる。だが立っている。
「はやて」
『聞こえてる』
「巨大個体、市街地から完全に離脱。北東の空き地へ誘導した。今のところ、動きは止まってる」
『よくやったな。救助班の移動経路、確保完了。地下避難区域も全員の移動が終わった』
通信の向こうで、はやてが深く息を吐く音がした。
『ツカサ先生。あんた、無茶しすぎや』
「してない」
『してる。絶対してる。後で説教や』
「覚えておく」
俺は短く答えて巨大個体から目を離さなかった。あいつはまだ、動いている。脈動のリズムが少しずつ変わっている。弱くなったり、強くなったり。地下の個体との連動が完全には断たれていない。
ゼータの妨害がいつまで持つかはわからない。だが、今はこれでいい。避難は完了した。救助班も安全な場所へ移動した。市街地への侵入も防いだ。
俺はブレイキングマンモスの装甲の内側で拳を握り直した。装甲が、まだ軋んでいる。だがまだ戦える。
夜は、まだ終わらない。