ビルの壁に背を預けた巨大個体が、ゆっくりと体表面を波立たせていた。
脈動のリズムは不規則だ。三秒だったり、五秒だったり時には十秒近く止まったりする。ゼータの妨害が効いている証拠だ。だが完全に止まってはいない。あいつの体躯はまだ市街地の方を向こうとしている。壁に当たって動けないだけだ。壁がなければ、また南へ向かう。
「ツカサ」
ゼータの声が通信から入った。さっきよりも近い。地上にいる。
「そっちに行く」
「来るな。危険だ」
「危険なのはどっちも同じ」
あいつはそう言って通信を切った。本当に来るつもりだ。止めても聞かない。あいつはそういう奴だ。
巨大個体の体表面が大きく波打った。地下からの脈動が来る。コンマ五秒。一拍の空白。そして、あいつの応答。表面が緩む。一秒にも満たない、ほんの僅かな時間。
その瞬間、巨大個体の背中側で何かが動いた。
小さい。黒い。素早い。ビルの壁を蹴り、巨大個体の体表面へ跳び移る。猫科の獣人の少女。ゼータだ。あいつは音もなく巨大個体の身体へ着地した。爪を立てて体表面に掴まる。あいつの体表面が固い。さっき緩んだ箇所はもう元に戻っている。だがゼータはそのまま駆け上がる。体表面の凹凸を足場にして、あっという間に巨大個体の肩の高さまで登った。
「ゼータ!」
俺は叫んだ。だが届かない。あいつは振り返りもしない。
巨大個体の体表面が波打つ。次の脈動が来る。地下からの振動。一拍の空白。表面が緩む。
その瞬間を、ゼータは待っていた。
あいつは肩の付け根付近で立ち止まり右手を振り上げる。短剣だ。黒い刃が月光を反射する。緩んだ体表面へ、刃を突き立てる。深くは刺さない。表面を裂く程度に。だが確実に傷をつける。
巨大個体が震えた。痛みではない。反応だ。脈動の応答が乱れる。一拍の空白が、二拍に伸びる。表面の緩みが長くなる。
ゼータは動いた。緩んだ箇所へもう一撃。今度は爪だ。獣人の爪が体表面を引っかく。三本の線が走る。あいつの体表面が、びくりと跳ねる。
地下からの脈動が来る。だが応答が遅れる。コンマ五秒の遅れが、コンマ八秒に伸びる。一拍の空白が一拍半になる。
巨大個体の力が抜けた。
押し込んでいた圧力が消える。俺の両腕に伝わっていた重みが、急に軽くなる。あいつの体躯がぐらついた。壁に預けていた背中がずり落ちる。膝が折れる。巨体が沈む。
ゼータはまだ動いている。巨大個体の肩から胴体へ跳び移り、体表面の別の箇所へ刃を立てる。脈動の合間を縫って、緩む瞬間だけを狙っている。あいつの聴覚と触覚が、地下と地上の二つの脈動を同時に捉えているのだ。人間にはできない芸当だ。
巨大個体が抵抗しようとする。体表面から不定形の隆起が伸びる。腕だ。ゼータを振り払おうとしている。だが、遅い。隆起が伸びる前にゼータはもう次の場所へ跳んでいる。あいつの動きは、巨大個体の反応より常に一歩先だ。
三度目の脈動が来る。今度は弱い。地下の信号が乱れている。ゼータが地下で何かをした。それだけじゃない。今、巨大個体の上で直接あいつの応答を乱している。二重の妨害だ。
巨大個体の体表面が大きく波打ち今度は内側へ縮む。隆起が引っ込む。腕が消える。あいつの全身が、内側へ向かって収縮する。まるで痛みを堪えるように。
ゼータが跳んだ。巨大個体の胴体から俺の方へ。空中で一回転し、俺の腕の装甲へ着地する。軽い。猫のように軽い。息も乱していない。
「今」
あいつは短く言った。
「地下の脈動、完全に止めた。あと三十秒は来ない」
「わかった」
俺は巨大個体を見た。あいつはまだ収縮している。体表面が波打っているが、さっきまでの力はない。押し返す力も突進の力も。脈動のリズムが、完全に狂っている。
通信が入った。
『ツカサ先生、避難班が南側避難所へ到着した。全員収容完了。これ以上の避難行動は不要や』
はやての声だ。全員、助かった。
俺はゼータを左肩に乗せたまま、巨大個体へ向き直った。あいつはまだ沈んでいる。体表面が内側へ縮み、脈動のリズムが乱れている。今なら押し返せる。
「ゼータ」
「わかってる」
あいつは俺の肩から跳び降りた。地面へ着地し、数歩後ろへ下がる。邪魔にならない位置だ。あいつはいつもそうする。戦いの邪魔をしない。だが離れもしない。必要な時に必要なだけの距離を保つ。
俺は両腕を前に出した。グレインゴッドを正面へ向ける。巨大個体の体表面へ、牙の先端を押し当てる。深くは刺さない。だが引っかける。フックのように。
そして、押した。
今度は防御じゃない。押し返しだ。北へ。市街地から離れる方向へ。あいつの質量を、俺の質量で押す。二十五トンの腕力。ブレイキングマンモスの全てを、この一押しに込める。
巨大個体が後退した。一歩。二歩。三歩。
地下からの脈動が来ない。ゼータが止めている。あいつの応答も遅い。力が戻らない。俺は押し続けた。あいつが抵抗するたびに、牙を引っかけて方向を修正する。倒さない。ただ、向きを変える。南へ行かせない。市街地へ戻さない。
巨大個体の背中が別のビルの壁に当たった。もう下がれない。あいつは立ち止まり、無貌の面を俺に向けた。
俺は両腕を離した。グレインゴッドを外す。一歩下がる。距離を取る。だが、目は離さない。
巨大個体は動かなかった。体表面が波打っている。脈動のリズムは、まだ不規則だ。地下からの振動も来ない。ゼータの妨害が、まだ効いている。
俺は息を吐いた。膝の震えがまだ残っている。装甲の軋みも、まだ聞こえる。だが立っている。
「はやて」
『聞こえてる』
「巨大個体、市街地から完全に離脱。北東の空き地へ誘導した。今のところ動きは止まってる」
『ようやった。救助班の移動経路、確保完了。地下避難区域も全員の移動が終わった』
通信の向こうで、はやてが深く息を吐く音がした。
『ツカサ先生。あんた、無茶しすぎや』
「してない」
『してる。絶対してる。後で説教や』
「覚えておく」
俺は短く答えて、巨大個体から目を離さなかった。あいつはまだ動いている。脈動のリズムが少しずつ変わっている。弱くなったり、強くなったり。地下の個体との連動が完全には断たれていない。
ゼータが俺の隣に立った。音もなく。気配もなく。だが、そこにいる。
「地下の脈動、また来る」
あいつは静かに言った。
「次はいつだ」
「わからない。でも、来る」
俺は拳を握り直した。装甲がまだ軋んでいる。だが、まだ戦える。
夜は、まだ終わらない。