悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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研究者としての興味と大人として

翠屋の閉店準備が進むにつれ、店の空気は少しずつ軽くなっていくはずだった。椅子が机の上に上げられ、看板が裏返され、コーヒーの匂いが洗剤の匂いに押されていく。けれど今夜は、なのはだけがその流れに取り残されていた。笑顔の角度はいつも通りなのに、視線が一拍遅れる。手は動いているのに、力が入っていない。イータはカウンター席でフォークを止め、皿の上の最後の一切れを見つめたまま、なのはの“ズレ”を測るように眺めていた。

 

「……なのは、今日……遅い」

 

なのはは一瞬きょとんとして、すぐに慌てたように口角を上げた。

 

「そ、そうかな? ごめんなさい、すぐ片付けるね!」

 

「謝らなくていい……謝る必要……ない」

 

言い方が硬かった。イータは自分の声の温度を少し落として、普段のマイペースに戻すふりをした。ここで“事情”に触れるのは簡単だ。けれど簡単な方へ行くと、子どもは自分の足場を失う。イータは“知っている大人”として、知っていることを武器にしない、と決めていた。

 

桃子が奥のレジから顔を出す。

 

「イータちゃん、今日もありがとうね。閉店しちゃうけど、大丈夫?」

 

「大丈夫……です。むしろ……手伝う……」

 

「え、いいの? 悪いわよ」

 

「いい……手を動かすと……落ち着く……」

 

桃子は優しく笑って奥へ戻った。イータは皿を持って立ち上がり、さりげなくなのはの横へ回る。なのはが背伸びして棚の上を拭こうとした瞬間、その指先がほんの少し震えた。見ないふりをしている“怖さ”の残り香。イータはすぐそばの布巾を取って、手の届く場所を黙って拭く。仕事量を奪わない。補うだけ。

 

「イータさん、ほんとに……ごめんね。閉店なのに」

 

「謝らなくていい……二回目」

 

「え?」

 

「……謝る回数……増えると……心が減る」

 

なのはは困ったように笑った。笑ってしまったことに気づいて、すぐ真面目な顔に戻そうとする。その切り替えが痛々しくて、イータは胸の奥が少しだけざわつく。ざわつきは、焦りに近い。けれど焦りは顔に出さない。顔に出すと、なのははまた“いい子”の仮面を固くする。

 

イータはキッチンカウンターの下からココアの粉を見つけると、コップを二つ出した。湯気が立ち上がる音が、夜の店内にやけに大きく響く。

 

「精神安定溶液……ココア」

 

なのはが目を丸くした。

 

「せ、精神……?」

 

「冗談……半分……でも……温かいの、必要」

 

「……ありがとう」

 

なのははコップを両手で包むように持ち、指先を温めた。さっきまでの震えが少しだけ収まる。イータはそれを確認して、内心で小さく頷いた。理屈で慰めるより、体を戻すほうが早い時がある。

 

「……なのは、今日……怖かった?」

 

なのはの肩が微かに跳ねた。否定の言葉が喉まで上がってきて、そこで止まる。イータは追わない。待つ。なのはが自分の口で選べるように。

 

「……わたし、別に……」

 

「言わなくていい……言うなら……言いたい分だけ」

 

数秒の沈黙。店の奥で食器が当たる音がして、家族がまだ起きていることを知らせる。その“日常の音”が、なのはの呼吸を少しだけ軽くした。

 

「……こわかった、って言ったら……だめかな」

 

「だめじゃない……正常」

 

なのははココアを一口飲んで、ふっと目を伏せた。

 

「こわかった。ほんとに……こわかったの。足が、動かなくなりそうで……でも、動かなかったら、誰かが……って思って……」

 

イータは頷くだけで、言葉を足さない。なのはの言葉が途切れないようにするため。

 

「それで、あとから……すごく、嫌になった。わたし、ちゃんとできなかったって。助けたかったのに、助けられなくて……」

 

「……できなかった、じゃない」

 

「え……?」

 

「逃げなかった……助けようとした……怖いのに……動いた」

 

なのはは目を見開いて、すぐに目尻を指で擦った。泣きそうなのを隠すみたいに。

 

「でも、わたし……まだ、よくわかんない。どうすればいいのかも……」

 

「わからない……普通。わからないまま……進むのも……普通」

 

「……それって、進んでいいってこと?」

 

「なのはが……決める。誰かが決めたら……それは、借り物」

 

イータは言い切ってから、ほんの少しだけ言葉を柔らかくした。

 

「借り物は……落ちる。自分のは……残る」

 

なのははコップを見つめて、小さく頷いた。その瞬間、イータの背中に薄い冷気が走った。ガラスの向こう。店の外。視線の“質”が変わった。通行人のそれじゃない。目的がある。まだ踏み込んでこないが、どこかで“待っている”。イータは顔色を変えずに立ち上がり、ブラインドへ手を伸ばす。

 

「……夜風……冷たい。閉める」

 

「う、うん……」

 

イータはブラインドを下ろし、鍵の位置を指先で確かめる。なのはには言わない。言えば、今せっかく戻ってきた呼吸がまた乱れる。代わりに、“いつもの変な人”でいる。

 

「なのは……奥、行って。砂糖……追加で……持ってきて」

 

「え? 砂糖? もう甘いよ?」

 

「甘いの……足りない……追加……」

 

なのはは少し困った顔をして、けれどさっきより自然な笑いをこぼして奥へ向かった。イータはその背中が見えなくなるのを待ってから、玄関灯を一段明るくし、入口に自分の影を置く。外にいる“何か”が、入り口を選びにくくなるように。たったそれだけのことでも、子どもを守る役割としては十分だ。

 

なのはが砂糖袋を持って戻ってくると、イータはもういつもの顔に戻っていた。

 

「よし……補給完了……」

 

「……イータさん、変なの」

 

「変……褒め言葉」

 

「褒めてないよ」

 

「褒めて……」

 

なのははもう一度笑って、ココアを飲んだ。笑えたこと自体が、今夜の“勝ち”だとイータは思う。全部を解決しない。解決はなのはの仕事だ。イータは崩れないように支えるだけ。その線を越えないように、わざと軽口で終わらせる。

 

「また来る……甘いの……補給しに」

 

「うん。……また、来てね」

 

「……約束。軽い約束。重くしない」

 

「ふふ……うん」

 

店を出る直前、イータは振り返らずに、外の気配だけをもう一度測った。まだいる。まだ見ている。けれど今夜は踏み込めない。踏み込ませない。イータは鍵を回し、ポケットの中で指を握りしめた。大人は怖がってもいい。怖がっていいけれど、子どもの前では倒れない。それだけは守る。

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