月村邸の外は、整いすぎた静けさがある。夜の冷えは本物なのに、屋敷の奥から漏れてくる灯りと笑い声が、それを嘘にしてしまう。嘘にされるのは嫌いじゃない。けれど、嘘は剥がされる。剥がされる瞬間を面白がるやつが、必ず寄ってくる。イータは門の外、塀から一歩距離を取った位置で足を止め、邸内へは入らない。誘われていないからじゃない。誘われているからだ。輪の中に入れば優しくなる代わりに、余計なものを連れてくる。余計なものが来れば、子どもの時間は縮む。縮んだ余白は戻らない。だから、外側に立つ。
気配は音より先に皮膚を撫でた。背中ではなく斜め上。窓ガラスの反射を使って視線の角度だけを掬い取ると、屋根の縁に影が一つ余っている。人の形をしているのに、人の重みがない。重みの代わりに、視線だけが重い。観客席から舞台を眺める目じゃない。舞台に降りて、椅子を蹴る前提の目だ。イータは息を吐き、散歩のふりで屋敷から遠ざかる方向へ歩き出した。相手に「見つかった」と思わせないための歩き方で、相手を「舞台から離す」ための道を選ぶ。段差に足を取られたふりをして、転びそうな隙をわざと作る。隙は危険だが、危険は釣り針にもなる。
背後で、砂利がふわりと浮いた。浮いた砂利は、遅れてぱらぱらと落ちる。派手に壊さず、静かに不自然を混ぜる。悪質なやり口だ。次の瞬間、影の奥から声が落ちてきた。顔は見えない。輪郭も照明の死角に溶けて、ただ“陰”だけがそこにいる。
「いい夜だ。……俺はエボルトだ」
イータは足を止めずに、口元だけで笑った。驚いたからじゃない。段取りが噛み合ったからだ。名乗りは脅しであり、支配の宣言だ。なら、それを支配にさせなければいい。支配を許さない最短手は、名乗りの価値を落とすこと。つまり、観客席を取り上げる。
「観客席……没収」
「は? 何言って――」
「名乗り、助かる。条件提示、完了」
「……舐めてんのか」
「舐めてない。計測してるだけ。ほら、もう一回。同じ言い方で」
「……っ、殺すぞ!」
「再現性、低い。語尾がブレた」
イータは声を抑えたまま、わざと視線を外すような動きで一歩だけ下がった。下がったのではない。引っ張った。相手が踏み込みたくなる距離に調整しただけだ。観客は展開を欲しがる。展開が欲しいから介入する。介入するなら罠に入る。罠に入った瞬間、観客はただの不審者になる。
張っていた透明な細糸が、指先に返事をした。張力が跳ねる。踏み込みの速度、角度、重心の置き方。数字になる。イータは数字を口にしない。断定もしない。ただ、確信の精度だけを上げる。確信が上がれば、余計な力を使わずに済む。余計な力を使わなければ、屋敷の笑い声を変えずに済む。
「逃げるのか、観客席没収女」
「逃げてない。誘導。あなた、介入したい顔してる」
「介入? 違う。愉しむだけだ」
「同義語。倫理の薄皮が違うだけ」
影が近づく。影しか見えないのに圧がある。圧だけで相手の機嫌が分かる。苛立ちが混ざって、踏み込みが荒くなる。荒い踏み込みは取りやすいデータだ。イータはその荒さを肯定するように、さらに一歩だけ屋敷から遠い側へ移動した。相手の矜持が、結果として舞台を見失うように。観客席を没収するとは、椅子を壊すことではなく、視界を奪うことだ。
彼女の指先がポケットの奥の硬い感触に触れた。ヴラスタムギア。取り出すだけで、空気の温度が変わる気がした。実際には変わらない。変わるのは、彼女の中のスイッチだ。ヴラスタムギアは掌に収まる程度のサイズで、白磁のような艶を持つ外装に、細い銀の縁取りが走っている。玩具のように軽く見えるのに、触れると冷たく重い。正面には小さな窓があり、そこへゴチゾウを装填する溝が切ってある。溝の形はどこか菓子型めいて、丸みと角ばりが同居している。側面にはレバーが一本、包丁の柄を思わせる直線的な握りで取り付けられていて、下ろすと内部の機構が“切る”動作をするように設計されている。白い外装の継ぎ目には、薄いゲルの膜みたいな透明層が覗き、光が当たると水面のように揺らぐ。それが鎧になる前の“素材”だと、見ただけで分かる。
「それ……何だ?」
石動の声に、初めて迷いが混ざった。名乗りで支配できなかった相手が、別の手札を出す。それは観客にとって、筋書きの外だ。
「器具。調理器具。あなたを切り刻むためじゃない」
「じゃあ何のためだよ」
「あなたを、静かに止めるため。あと――」
イータは笑みを深くした。深くするほど、相手は苛立つ。苛立てば踏み込む。踏み込めば、条件が揃う。
「実験のため」
「ふざけんな。俺はエボルトだ。最強だ。お前みたいな――」
「自称エボルト。最強。観測対象としては魅力的。だからこそ、舞台の外でやる」
「逃げてるだけだろ!」
「違う。守ってる。違いが分からないなら、観客席は没収で正解」
細糸が再び震えた。影が、踏み込む。踏み込む位置が、チョークの目印の上を越える。越えた。越えさせた。これで席は没収。観客は舞台から切り離された。切り離された観客は、ただの不審者だ。なら、止めるのは簡単になる。簡単にするために、ここまで段取りを積んだ。
「外周……安全。第三者……なし。損害……許容量内」
イータは淡々と確認し、ヴラスタムギアのレバーに指をかけた。まだ起動語は口にしない。まだ音も鳴らさない。最後にもう一度だけ、相手の目――見えない目――に向けて言う。言葉は、宣告ではなく手順の共有だ。理解されなくてもいい。理解されなくても、止める。
「実地試験……開始」
影が動いた。動いた瞬間、イータは笑みを消さなかった。笑っているから強いのではない。手順があるから笑える。笑えるから、手順が崩れない。崩れないから、屋敷の中の笑い声が――まだ、笑い声のままでいられる。
ヴラスタムギアを腰へ固定し、ゴチゾウを取り出す。その手付きは眠気を抱えたままなのに、異様なほど正確だ。装填。
『スイーツ・イン! アンニン!』
イータはレバーに指を添える直前、ほんの一拍だけ目を細める。眠気を噛み切るのではなく、思考を“実験モード”へ切り替える仕草。
「観察はここまで。実地試験、開始」
レバーを下ろす。
『アンニン・ヴラムシステム! ゲルフロー! チョップカット! 仮面ライダー…アンニア!』
白いゲルが上から流れ落ち、全身を包み込む。粘性の膜が密閉された瞬間、空気が変わる。次の刹那、鋭い“切断”の気配。見えない中華包丁が白い膜を迷いなく切り分け、切り出された面が硬質の中華鎧へと変わっていく。
最後に、赤い尾状の装飾が頭部に走る。
イータは一歩、音もなく踏み出した。実験結果を取りに行く研究者の歩き方で。
仮面ライダーアンニアが、ゆっくりと歩く。