街灯の光が届く範囲は、やけに狭い。月村邸から十分に距離を取ったはずなのに、屋敷の温度だけがまだ背中に残っている。イータは白い中華鎧の継ぎ目を一度だけ確かめ、ヴラムブレイカーを構え直した。鎧の要所に艶のあるゲルが薄く残り、呼吸に合わせてわずかに“流れる”気配がある。硬い外殻と、柔い内層。守るための硬さと、止めるための柔らかさ。どちらも、今夜は必要だ。
目の前の“影”は、笑った。声だけが先に来る。
「……それが、お前の切り札? 菓子の鎧で、何をする気だよ」
イータは笑みを返した。挑発ではなく、温度調整みたいな笑みだった。冷静さを保つための、最小の表情筋。
「見た目で判断するの、好きだね。観客らしい」
「観客? 違うな。俺は――」
影が一歩、街灯の輪へ入る。輪郭が確かになった瞬間、空気が重くなる。男はそこで、名乗りを“武器”のように投げつけた。
「俺はエボルトだ」
そのまま、変身動作に入る。イータが知っている変身の文法とは違う。包むのでも、切り出すのでもない。むしろ、銃口で世界を黙らせるような所作だった。金属が擦れる音がして、次の瞬間、音声が夜に刺さる。
『EVOL COBRA!』
黒と赤が、街灯の下で毒のように浮いた。仮面の奥は暗く、目の色だけが不自然に生きている。男は即座にトランスチームガンを構え、銃口の向きを迷わない。迷わないのは自信の証明だ。自信は、外れる。
「さあ、菓子の鎧。撃てるもんなら撃ってみろ」
イータは返事をしなかった。返事は弾で十分だ。ヴラムブレイカーが短い作動音を鳴らし、白い光弾が走る。相手も同時に引き金を引く。光と光が、夜の中で交差し、散る。最初の数発は互いに当てる気がない。相手は“圧”をかけたい。イータは“距離”を測りたい。
撃ち合いの最中、二人の間にある街路樹が盾になる。幹の太い木だ。銃弾が木肌を抉り、樹皮が剥がれ、甘い匂いとは無縁の生臭い樹液の匂いが立つ。イータは木の影に半身を寄せ、撃つ。相手も同じように木を使う。遮蔽物を挟んだ撃ち合いは、単純に見えて、癖が出る。出る癖は、データになる。
右へ出るのが早い。左へ出るのが遅い。撃つ間隔が一定。撃った後の呼吸が浅い。強者ぶっているのに、微妙に“急いでいる”。急いでいるのは、観客席を奪われて苛立っているからだ。苛立ちは雑さになる。雑さは、吸える。
「逃げてるのか?」
男の声が、銃声の合間に滑り込む。
「違う」
イータは短く答え、あえて木から離れた。離れた先は、月村邸からさらに遠い。位置取りがずれる。ずれるたびに、戦場は屋敷から離れていく。守るべきものは背後に置かない。背後に置くと、守るために無理をする。無理は事故になる。事故は子どもの時間を奪う。
男は追う。追って撃つ。追うほどに、彼は舞台から遠ざかる。遠ざかっていることに気づかないのは、彼が“愉しむ側”だからだ。愉しむ側は、今の展開に夢中になる。夢中は視野を狭める。狭い視野のまま、男はさらに距離を詰めてきた。
中盤、撃ち合いは“歩きながら”に変わる。互いに前へ出て、互いに弾を送る。照準はぶれ、弾道は散る。散る弾道は、イータにとっては都合がいい。散るほど、受け流せる。受け流すほど、触れられる。触れられるほど、吸える。
男は不意に、もう一つの武器を抜いた。スチームブレード。刃が街灯の光を拾い、冷たい線を作る。銃口と刃先。二つの“終わり方”を同時に突きつけてくるのは、相手の自信の表れでもあり、攻撃回数を増やすためでもある。攻撃回数が増えるなら、こちらの燃料が増える。
「さっさと溶けろよ、甘い鎧!」
男が踏み込み、斬る。同時に銃口が火を噴く。斬撃と射撃が重なる瞬間、イータは“避けない”。避ければ当たらない。だが当たらないと、相手は引く。引かれると、接触が減る。接触が減ると、吸えない。なら、当たっているように見せる。
アンニンの鎧の艶が増し、白いゲルが内側から浮き上がる。硬い外殻は形を保ったまま、その内層だけが液体になる。斬撃は、切った感触を残しながら、実体を持たない部分を滑っていく。銃弾は、鎧の上で弾けたように見えて、実際には“流れ”に飲まれる。受け流し。逸らし。摩擦だけを残して、本体への致命を避ける。
そして、イータはそこで“触れる”。触れた瞬間に、吸う。
男の攻撃には、彼自身のエネルギーが乗っている。血液の匂いに似た、熱と冷えの混ざった反応。イータの内層のゲルがその反応を吸い上げる。吸い上げると言っても、全てを奪うわけではない。奪いすぎれば、相手が異変に気づく。気づけば距離を取る。距離を取れば、面倒になる。だから必要量だけ。増幅に必要なぶんだけ。本人が“気づけない速度”で削る。
男は笑った。効いていると思っている笑いだ。
「どうした、効いてるだろ。ほら、もっと来いよ」
イータは返事の代わりにヴラムブレイカーを振る。斬撃波が走り、男の足元のアスファルトを抉る。衝撃は軽い。軽い衝撃は、次の衝撃を重くするための布石だ。吸ったものが、白ゲルの中で静かに混ざっていく。毒を毒で薄めるのではなく、毒を燃料に変える。相手が増やした手数が、こちらの出力に変換されていく。
男の余裕が、ほんの一瞬だけ曇る。曇ったのに、口は強がる。強がりは、より大きな言葉になる。
「……俺の中にはエボルトがいる。分かるか? 格が違う。お前は格下だ」
言い切った勢いで、男は至近距離へ踏み込み、蹴りを叩き込んだ。蹴りは、銃や剣よりずっと“個人的”で、ずっと乱暴だ。観客が舞台に降りて殴るときの蹴り。格付けの蹴り。
アンニンの身体が吹き飛ぶ。白い鎧が宙でひるがえり、街灯の輪の外へ落ちる。だが、転倒はしない。着地と同時に内層が液体化し、衝撃を地面へ流す。砂利が鳴る。アスファルトが微かに軋む。イータは立ったまま、男を見た。
男は勝ったつもりの顔をしている。勝ったつもりの顔は、踏み込んでくる。踏み込んでくるなら、終わらせられる。
イータは笑みを消さなかった。代わりに、声を低くした。
「格下……判定、ありがとう。出力、上げる」
男が眉をひそめ、銃口を向け直す。その瞬間、イータの指がヴラスタムギアの操作部へ滑り、起動が走る。音声が夜を切る。
『SWEETS FINISH! ANNIN DRAIN BURST!』
白いゲルが、鎧の内側から一気に溢れた。溢れたゲルは霧になる。霧はただ視界を奪うためのものではない。霧は“接触面”だ。霧が男の周囲を薄く包み、皮膚と装甲の隙間へ染み込む。染み込むと同時に、今まで吸い上げて混ぜていた“悪い熱”が、逆流するのではなく“増幅材”として固定される。相手の力の欠片が、相手を止めるための楔に変わる。
男が撃つ。だが銃声は空を叩く。霧の中で、狙いは成立しない。成立しないのに、弾を消費する。消費するほどに焦る。焦るほどに踏み込む。踏み込んだ瞬間、霧が再凝集し、白いゲルの輪が男の足元を縛った。転ぶほどではない。だが一歩目が遅れる。遅れた一歩目は、命取りだ。
ヴラムブレイカーが光を孕む。イータは“当てる”ためではなく、“返す”ために振り抜いた。斬撃波は一直線ではない。霧の中を滑り、再凝集したゲルの輪郭をなぞるように回り込み、男の装甲へ噛みついた。噛みついた瞬間、吸い上げが最後に一度だけ走る。残っていたぶんだけ。増幅に必要な最後の一滴だけ。
男の身体が弾かれる。蹴り飛ばした側が、逆に吹き飛ぶ。格付けの蹴りは、格付けの結末にならない。結末にならないから、男は理解できない。
「……は? なんで……っ」
言葉は途中で途切れ、男は地面に転がった。銃が滑り、剣が鳴る。霧がほどけ、白ゲルが鎧の内側へ戻っていく。夜はまた静かになり、屋敷の笑い声は、遠くで笑い声のまま続いている。
イータはヴラムブレイカーを下ろし、倒れた男を見下ろした。
『面白い冗談だね。お前は外側だけの、空っぽの容器』
その時のイータの瞳は赤くなっているのに、男は気づかない。
「は? 誰だ、お前。俺の中にはエボルトが――」
『名札を首から下げた瞬間に強くなれるなら、宇宙はとっくに学級委員長で溢れてる。』
「ふざけるな! 俺はエボルトだ! この力で全部――」
『お前が振り回してるのは力じゃない。“力っぽい形”だ。軽いから、音が大きい』
「格下のくせに、偉そうに!」
『格下だなんだって、便利な言葉だよね。自分の浅さを隠すのに最適だ』
「黙れ! 本物のエボルトなら、もっと――」
『本物はね、説明しない。奪って、黙って、笑う。叫んで、焦って、割れる。』
「……割れる? 俺が?」
『“俺はエボルト”? 違う違う。君は“エボルトを名乗りたい誰か”だ。』
「俺は……俺は……!」
『中身がない容器ほど、叩く音だけは派手だ。割れる予告みたいで、嫌いじゃない』
「くそっ……近づけば――」
『近づけば届く。届けば吸われる。吸われれば、君の“格”は数字みたいに減る』
「俺の中のエボルトが……お前が……!」
『さあ、容器。名を返しな。返せないなら――割れて、静かになれ』
彼女はそう呟き、笑みをほんの少しだけ消した。守れたことが嬉しいのではない。守れなかった場合の未来を、見ずに済んだことが、ただ少しだけ楽だった。