光写真館の扉を開けた瞬間、ツカサは反射で半歩引いた。肺が拒絶する匂いが、先に結論を出す。焦げた金属、薬品、甘ったるいゲル――それらが混ざって、喉の奥に膜を張った。
廊下の奥から小さな排気音が聞こえる。必死に回っているのに、空気はちっとも軽くならない。写真館としての気配は、看板と入口の段差だけが辛うじて主張している。中身は完全に研究所だった。
「ボス! ここ……なんか……すごい!」
デルタが目を輝かせた。咳き込みながら、なぜか感心している。ツカサは額を押さえたくなる。
「すごいじゃねぇ。住めねぇだろ、これ」
ゼータは黙って室内を見回し、淡々と結論を出す。
「住居の定義が崩壊している。撤退を提案する」
撤退――その言葉が妙に現実的に聞こえるのが嫌だった。ツカサは舌打ちを飲み込み、机の上の“それ”に目を止める。碧眼を思わせる宝石片。ジュエルシードの破片だ。ローマ数字の刻印が、残った街灯の光を拾って薄く光っている。触れたくないのに、目が吸い寄せられる。
破片の傍で、イータがピンセットを動かしていた。眠そうな瞼のまま、指先だけが異様に正確だ。
「換気……必要……」
イータが顔も上げずに言う。ツカサは即座に返す。
「お前、まず言うことそれかよ。……ここ、住む場所だぞ。研究所じゃねぇ」
イータはピンセットを置くと、ポケットから紙束を出した。温泉の成分表。泉質、含有成分、効能――やたら細かい。
ツカサは目を細める。
「……なんでそんなもん持ってんだ」
イータは真顔で広げ、短く区切って言う。
「隔離……大量の水……成分……緩衝……」
ゼータが覗き込み、静かに頷く。
「理屈は成立する。ジュエルシードは魔力の結晶で、周囲の願望に反応して暴走しやすい。破片にも残留反応がある可能性が高い。ここで続ければ、空間ごと巻き込む危険がある」
デルタは難しい話についていけていない顔のまま、別の角度から核心を突く。
「温泉って……ごはん、ある?」
イータの目がほんの少しだけ開く。微妙に嬉しそうに見えるのが腹立たしい。
「ある……朝夕……豪華……」
デルタが拳を握る。
「行く!」
「決めるな!」
ツカサが咄嗟に突っ込むと、ゼータが淡々と追い打ちをかける。
「ボスが止めないなら決定だ。止めるなら今しかない」
ツカサは言い返しかけて、写真館の惨状をもう一度見た。ここで実験を続けられるのは困る。街にまで波及する可能性もある。なら、外へ出すしかない。理屈ではそうなる。
だが――。
ツカサはイータを見た。温泉の紙を眺める彼女の指先が、妙に迷いなく「露天」の欄をなぞっている。説明の声は淡々としているのに、そこだけ間が軽い。何度も旅をしてきたツカサには分かる。これは「安全のため」だけじゃない。
(こいつ……実験の顔して温泉行きたいだけだな)
言うと意地を張る。止めれば別の名目で出ていく。なら、こちらが主導権を握って、安全に運ぶ。ツカサはそういうやり方を、いくつもの世界で覚えてきた。
ツカサは短く結論を出した。
「……分かった。行く。だが実験は最小限だ。あと、写真館はこれ以上壊すな」
イータの返事は、いつもより半拍早かった。
「了解……最小限……」
ゼータが小声で呟く。
「最小限(実験)で最大限(湯)だな」
デルタはもう出発のテンションだ。
「温泉! ごはん! 寝る! 最高!」
ツカサは溜め息を吐いた。
「……お前ら、ほんと好き勝手だな」
ゼータはあっさり肯定する。
「けど、こういうのは結構久し振りかもね」
イータが小さく頷いた。その頷きが妙に頼っているように見えて、ツカサは視線を逸らした。
――
翌日。温泉宿へ向かう道中、デルタは前を走り、ゼータは地図を確認し、イータはパンフレットを読んでいた。ツカサは一歩後ろで三人を眺める。見た目だけなら自分が一番年下で、デルタが一番大人に見えるのが滑稽だ。中身は逆だ。デルタはでかい子犬で、ゼータは冷静な補助輪で、イータは危険な天才だ。
ツカサはわざと刺すように言った。
「……イータ。お前、妙に手慣れてるな。実験の準備、気合い入ってんな」
イータはパンフを閉じずに返す。
「当然……実地試験……」
デルタが振り返り、鼻を鳴らした。
「ボス! 温泉って強くなる? ごはん食べたら強くなる?」
ゼータが真面目に答える。
「強くなる。精神の余裕が戻る。余裕は判断力だ。判断力は生存率だ」
ツカサは正論にツッコミ損ね、代わりにデルタの頭を軽く小突いた。
「お前はまず落ち着け。宿で騒ぐなよ。俺の教師生命が死ぬ」
デルタが即座に敬礼みたいな動きをする。
「はい! ボス!」
その後ろで、イータが風に溶けるくらいの声で呟いた。
「露天……最高……」
ツカサは聞こえなかったことにした。聞こえたことにすると、負ける。