悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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諸悪の根源

ビルは静かだった。

 

夜が明ける前の薄暗い時間帯。街灯の光が届かない路地の奥に、その建物はあった。七階建て。外壁は古い。窓ガラスは半分ほど割れ、残りも煤で汚れている。だがすべての窓に同じ種類の防護シャッターが取り付けられていた。この街の他の建物と同じだ。侵略種の出現に備えた設備。

 

だが、このビルだけは違った。

 

シャッターの隙間から配線が覗いている。太い。家庭用のものではない。業務用の電力ケーブルが、シャッターの枠に沿って外壁を這い、屋上へと伸びている。

 

「見たか」

 

「ええ。シャッターの枠にケーブルが埋め込まれてる。普通の避難設備じゃない」

 

ゼータが隣で答えた。声は低い。猫の耳が、路地の奥へ向いている。尻尾は動かない。警戒している。

 

俺はライドブッカーから一枚のカードを抜いた。変身するわけじゃない。だが、いつでも変身できるように手元に置いておく。

 

「中に入る。先行してくれ」

 

「分かった」

 

ゼータが壁伝いに動いた。足音が消える。猫科の獣人。暗がりに溶けるように移動する。俺はその後ろを追った。音を立てないよう、意識して歩く。

 

非常口の扉があった。鍵はかかっている。だが、ゼータが扉の隙間へ指を差し込んだ。金属が小さく軋む音がして、扉が内側へ開いた。

 

「開いてた」

 

「鍵は」

 

「かかってた。だが、この程度なら」

 

ゼータが指先を見せた。小さな金属片が挟まっている。

 

「施錠されてたけど、扉と枠の間に隙間があった。古い建物だから」

 

「助かる」

 

二人で中へ入る。

 

暗い。非常灯の光もない。だが、窓から差し込む街灯の光が薄く床を照らしている。

 

床はコンクリート。壁もコンクリート。だが、ところどころに焦げ跡がある。何かが燃えた跡だ。煤の匂いが鼻に残る。

 

「ツカサ」

 

ゼータが足を止めた。指を床へ向ける。

 

見る。コンクリートの床に黒い染みが広がっている。乾いている。だが、その染みの形が不自然だった。

 

人型だ。人が倒れた形に、染みが広がっている。

 

「血じゃない」

 

ゼータが言った。

 

「じゃあ何だ」

 

「分からない。だが、血じゃない。もっと粘度が高い。…原種の組織に近い」

 

「原種がここで倒れた?」

 

「かもしれない。あるいは、倒された」

 

俺は染みを跨いで奥へ進んだ。廊下が続いている。両側に扉がある。どれも閉まっている。だが、一番奥の扉だけが半開きになっていた。

 

その扉の向こうから、かすかな音が聞こえる。

 

機械の音だ。低い唸りが、規則的に続いている。

 

「ゼータ」

 

「聞こえる」

 

ゼータが俺の横に並んだ。足音を消したまま、扉へ近づく。

 

半開きの扉の隙間から、中を覗く。

 

部屋の中には、機械があった。

 

培養槽だ。円筒形のガラス槽が三つ、部屋の中央に並んでいる。槽の中は空だ。だが、底には黒い液体が少量残っている。

 

その隣に、作業台がある。端末が一台、電源が入ったままだ。画面に何かのデータが表示されている。

 

「誰かが使ってた形跡がある」

 

ゼータが囁いた。

 

「だが、今は誰もいない」

 

「ああ」

 

俺は扉を開け、中へ入った。作業台へ近づく。端末の画面を覗き込む。

 

表示されていたのは培養槽の管理データだった。何かの培養記録。数字と記号が並んでいる。その中に、見覚えのある記号があった。

 

財団Xの識別コードだ。

 

「ゼータ」

 

「見た」

 

ゼータが端末の横に立った。画面を凝視している。

 

「財団Xのコード。このビルは、財団Xの関連施設だった可能性がある」

 

「ああ。だが、もう使われていない」

 

「撤収した後か」

 

「かもしれない。だが、端末の電源が入っている。完全に撤収したとは思えない」

 

ゼータが端末に手を伸ばした。キーを叩く。画面が切り替わる。

 

「隠しファイルがある」

 

「開けるか」

 

ゼータの指がキーを叩く音だけが部屋に響いていた。

 

画面に隠しファイルの中身が展開されていく。培養槽の稼働記録。実験体の管理番号。輸送先のリスト。どれも暗号化されていたが、ゼータの指が止まることはなかった。猫の目が画面を追い、耳が微かに動く。集中している。

 

俺は端末の横に立ち周囲へ意識を巡らせていた。部屋には俺とゼータしかいない。培養槽は空だ。作業台の上には誰もいない。だが、ビルの中に誰もいないとは限らない。

 

「ツカサ。この記録」

 

ゼータが声を落とした。

 

「培養槽の稼働記録。稼働していたのは三日前まで。その後、すべて停止してる。だが停止した理由が書かれてない」

 

「撤収したのか」

 

「かもしれない。だが、停止命令を出したのが誰かも分からない。記録が途中で切れてる」

 

「意図的に消されたか」

 

「その可能性が高い」

 

ゼータがキーを叩くのを止めた。画面に表示された最後のデータを見ている。

 

その時だった。

 

「ねえ」

 

声がした。

 

背後から。扉の方から。いや、もっと近い。部屋の中から。

 

俺とゼータは同時に振り返った。

 

ゼータの手が腰の短剣へ伸びる。俺の手もライドブッカーへ。だが抜かない。声の主を確認するまで動かない。

 

扉のそばに、女が立っていた。

 

いつからいた。入ってくる音は聞こえなかった。扉の開く音も、足音も。ゼータの耳が聞き逃すはずがない。俺の意識も、この部屋に入ってからずっと周囲へ向けていた。

 

それなのに、彼女はそこにいた。

 

緑系の短い髪。毛先が明るい黄緑色に染まっている。鮮やかな桃紫色の瞳。黒いミニ丈の服に、赤紫色の上着を肩から落として着ている。厚底の靴。指先には細く尖った緑色の爪。

 

姿勢は崩れている。壁にもたれるでもなく、ただ立っているだけだ。だがその立ち方に隙がない。重心がどこにあるか読めない。

 

彼女は笑っていた。

 

「すごいね。隠しファイルまで見つけちゃうんだ」

 

声は明るい。楽しそうだ。だが、その明るさが逆に不自然だった。この状況で、こんな声を出せる人間は普通じゃない。

 

ゼータが短剣を抜いた。音もなく、滑らかに。切っ先を女へ向ける。

 

「いつからいた」

 

「さっきだよ。君たちが端末を開いてるところ。あたしもそれ、見たかったんだよね」

 

女は短剣を気にしていない。視線は俺とゼータの間をゆっくりと往復している。品定めするように。

 

俺はライドブッカーから手を離さないまま、一歩前に出た。ゼータの半歩前。彼女を庇う位置ではない。二人で対処できる位置だ。

 

「あんたは」

 

「あたし?」

 

女は首を傾げた。緑色の爪が自分の頬に触れる。仕草が妙に可愛らしい。だが、その可愛らしさが警戒心を緩めない。

 

「あたしはマナ。篠宮マナ知ってるよねぇ」

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