ビルは静かだった。
夜が明ける前の薄暗い時間帯。街灯の光が届かない路地の奥に、その建物はあった。七階建て。外壁は古い。窓ガラスは半分ほど割れ、残りも煤で汚れている。だがすべての窓に同じ種類の防護シャッターが取り付けられていた。この街の他の建物と同じだ。侵略種の出現に備えた設備。
だが、このビルだけは違った。
シャッターの隙間から配線が覗いている。太い。家庭用のものではない。業務用の電力ケーブルが、シャッターの枠に沿って外壁を這い、屋上へと伸びている。
「見たか」
「ええ。シャッターの枠にケーブルが埋め込まれてる。普通の避難設備じゃない」
ゼータが隣で答えた。声は低い。猫の耳が、路地の奥へ向いている。尻尾は動かない。警戒している。
俺はライドブッカーから一枚のカードを抜いた。変身するわけじゃない。だが、いつでも変身できるように手元に置いておく。
「中に入る。先行してくれ」
「分かった」
ゼータが壁伝いに動いた。足音が消える。猫科の獣人。暗がりに溶けるように移動する。俺はその後ろを追った。音を立てないよう、意識して歩く。
非常口の扉があった。鍵はかかっている。だが、ゼータが扉の隙間へ指を差し込んだ。金属が小さく軋む音がして、扉が内側へ開いた。
「開いてた」
「鍵は」
「かかってた。だが、この程度なら」
ゼータが指先を見せた。小さな金属片が挟まっている。
「施錠されてたけど、扉と枠の間に隙間があった。古い建物だから」
「助かる」
二人で中へ入る。
暗い。非常灯の光もない。だが、窓から差し込む街灯の光が薄く床を照らしている。
床はコンクリート。壁もコンクリート。だが、ところどころに焦げ跡がある。何かが燃えた跡だ。煤の匂いが鼻に残る。
「ツカサ」
ゼータが足を止めた。指を床へ向ける。
見る。コンクリートの床に黒い染みが広がっている。乾いている。だが、その染みの形が不自然だった。
人型だ。人が倒れた形に、染みが広がっている。
「血じゃない」
ゼータが言った。
「じゃあ何だ」
「分からない。だが、血じゃない。もっと粘度が高い。…原種の組織に近い」
「原種がここで倒れた?」
「かもしれない。あるいは、倒された」
俺は染みを跨いで奥へ進んだ。廊下が続いている。両側に扉がある。どれも閉まっている。だが、一番奥の扉だけが半開きになっていた。
その扉の向こうから、かすかな音が聞こえる。
機械の音だ。低い唸りが、規則的に続いている。
「ゼータ」
「聞こえる」
ゼータが俺の横に並んだ。足音を消したまま、扉へ近づく。
半開きの扉の隙間から、中を覗く。
部屋の中には、機械があった。
培養槽だ。円筒形のガラス槽が三つ、部屋の中央に並んでいる。槽の中は空だ。だが、底には黒い液体が少量残っている。
その隣に、作業台がある。端末が一台、電源が入ったままだ。画面に何かのデータが表示されている。
「誰かが使ってた形跡がある」
ゼータが囁いた。
「だが、今は誰もいない」
「ああ」
俺は扉を開け、中へ入った。作業台へ近づく。端末の画面を覗き込む。
表示されていたのは培養槽の管理データだった。何かの培養記録。数字と記号が並んでいる。その中に、見覚えのある記号があった。
財団Xの識別コードだ。
「ゼータ」
「見た」
ゼータが端末の横に立った。画面を凝視している。
「財団Xのコード。このビルは、財団Xの関連施設だった可能性がある」
「ああ。だが、もう使われていない」
「撤収した後か」
「かもしれない。だが、端末の電源が入っている。完全に撤収したとは思えない」
ゼータが端末に手を伸ばした。キーを叩く。画面が切り替わる。
「隠しファイルがある」
「開けるか」
ゼータの指がキーを叩く音だけが部屋に響いていた。
画面に隠しファイルの中身が展開されていく。培養槽の稼働記録。実験体の管理番号。輸送先のリスト。どれも暗号化されていたが、ゼータの指が止まることはなかった。猫の目が画面を追い、耳が微かに動く。集中している。
俺は端末の横に立ち周囲へ意識を巡らせていた。部屋には俺とゼータしかいない。培養槽は空だ。作業台の上には誰もいない。だが、ビルの中に誰もいないとは限らない。
「ツカサ。この記録」
ゼータが声を落とした。
「培養槽の稼働記録。稼働していたのは三日前まで。その後、すべて停止してる。だが停止した理由が書かれてない」
「撤収したのか」
「かもしれない。だが、停止命令を出したのが誰かも分からない。記録が途中で切れてる」
「意図的に消されたか」
「その可能性が高い」
ゼータがキーを叩くのを止めた。画面に表示された最後のデータを見ている。
その時だった。
「ねえ」
声がした。
背後から。扉の方から。いや、もっと近い。部屋の中から。
俺とゼータは同時に振り返った。
ゼータの手が腰の短剣へ伸びる。俺の手もライドブッカーへ。だが抜かない。声の主を確認するまで動かない。
扉のそばに、女が立っていた。
いつからいた。入ってくる音は聞こえなかった。扉の開く音も、足音も。ゼータの耳が聞き逃すはずがない。俺の意識も、この部屋に入ってからずっと周囲へ向けていた。
それなのに、彼女はそこにいた。
緑系の短い髪。毛先が明るい黄緑色に染まっている。鮮やかな桃紫色の瞳。黒いミニ丈の服に、赤紫色の上着を肩から落として着ている。厚底の靴。指先には細く尖った緑色の爪。
姿勢は崩れている。壁にもたれるでもなく、ただ立っているだけだ。だがその立ち方に隙がない。重心がどこにあるか読めない。
彼女は笑っていた。
「すごいね。隠しファイルまで見つけちゃうんだ」
声は明るい。楽しそうだ。だが、その明るさが逆に不自然だった。この状況で、こんな声を出せる人間は普通じゃない。
ゼータが短剣を抜いた。音もなく、滑らかに。切っ先を女へ向ける。
「いつからいた」
「さっきだよ。君たちが端末を開いてるところ。あたしもそれ、見たかったんだよね」
女は短剣を気にしていない。視線は俺とゼータの間をゆっくりと往復している。品定めするように。
俺はライドブッカーから手を離さないまま、一歩前に出た。ゼータの半歩前。彼女を庇う位置ではない。二人で対処できる位置だ。
「あんたは」
「あたし?」
女は首を傾げた。緑色の爪が自分の頬に触れる。仕草が妙に可愛らしい。だが、その可愛らしさが警戒心を緩めない。
「あたしはマナ。篠宮マナ知ってるよねぇ」