「マナ。篠宮マナ」
女はもう一度言った。桃紫色の瞳が笑っている。だがその笑みが目に届いていない。口だけが笑っている。
「知らないな」
俺は答えた。ライドブッカーから手を離さない。
「えー、つれないなぁ。あたしのこと知らない? 有名人なんだけどなぁ」
「知らない人間の名前を覚える趣味はない」
「うそぅ。嘘つきだねぇ。君の目、嘘つきの目してるよ」
マナは笑ったまま首を傾げた。緑色の爪が頬を軽く撫でる。仕草は可愛い。だがその可愛さが、この場では不気味さを増幅しているだけだ。
ゼータが動いた。
猫科の獣人。気配を消して動くのが得意だ。だが、マナはゼータが動いた瞬間に視線を向けた。当てたのではない。最初から分かっていた目で追った。
「あ、猫ちゃん動いた」
声は楽しそうだ。遊んでいる子供の声だ。だが、その子供が爪を研いでいるのを知っている大人の声でもある。
ゼータの短剣がマナの喉元を狙った。速い。だがマナは動かなかった。動く代わりに、体から何かが伸びた。
触手だ。
背中から。いや、肩から。服の下から緑色の触手が滑り出し、ゼータの短剣を受け止めた。触手の表面に目玉が開く。濡れた球体が、ゼータの刃を捉えている。
「あたしのこと、切ろうとするの? ひどいなぁ」
マナは笑ったまま言った。そして触手を振った。
ゼータが飛んだ。
部屋の壁まで弾き飛ばされた。コンクリートに背中が叩きつけられる音が響く。ゼータは空中で身を捻り着地したが、膝が震えている。一撃の衝撃が残っている。
「ゼータ!」
「……大丈夫。動ける」
ゼータが短剣を握り直した。だが俺は手で制した。前に出る。
マナは俺を見た。
桃紫色の瞳が、俺を舐めるように動く。上から下へ。顔から胸へ、胸から腰へ、腰から足へ。品定めだ。だがそれは人間を見る目ではない。食材を見る目だ。
「君がツカサくん? 伝聞の通りだねぇ。悪くない顔してる」
「用件はなんだ」
「用件? 用件ねぇ。あたしは暇潰しに来たの。このビル、あたしの遊び場だったんだよね。そしたら君たちが入ってきてるから、ちょっと見に来ただけ」
暇潰し。
この女にとって、このビルは暇潰しだった。培養槽の端末も、隠しファイルも、財団Xの識別コードも、全部暇潰しの道具だ。
そして俺たちも、暇潰しの相手だ。
「で、どう? 暇潰しになる?」
マナが動いた。
速い。ゼータが気づかなかった速さだ。俺の目が追う前に、マナの体が目の前にあった。
緑色の爪が俺の喉を狙って伸びる。
ライドブッカーを抜いた。
ソードモード。刃が爪の軌道を弾く。金属音が響く。だが、弾いた瞬間にマナの体から触手が伸びた。今度は一本ではない。三本。肩から二本、腰から一本。三方向から同時に俺を狙う。
俺は横へ跳んだ。
触手が俺のいた場所を薙ぐ。コンクリートの壁に三本の亀裂が走る。深い。指先で触れただけで壁が砕ける威力だ。
「あれ、避けた。やるねぇ」
マナは楽しそうだ。だがその楽しさが、俺には理解できない種類のものだ。人を傷つけることへの楽しさ。獲物を追い詰めることへの楽しさ。それがこの女の楽しさだ。
俺はライドブッカーを構え直した。ソードモードからガンモードへ。だが切り替える前にマナがまた動いた。
触手を鞭のように振る。上から二本、横から一本。三方向からの同時攻撃。
俺はライドブッカーを振った。ソードモードのまま。三本の触手を一閃で弾く。だが弾いた瞬間にマナの本体が来た。
爪が俺の胸を狙う。近い。距離がない。剣を振る暇がない。
俺は体を捻った。爪が装甲を掠める。火花が散る。浅い。だが当たりはした。
「お、かっこいい。やっぱり強いねぇ君」
マナが笑う。だがその笑みが、一瞬だけ歪んだ。
俺は蹴りを入れた。
マナの腹へ。右足の蹴りがマナの体を捉える。だがマナは吹き飛ばされなかった。触手が床に突き刺さり、踏ん張ったのだ。
「……あはは。痛いじゃん」
声は笑っている。だが目が笑っていない。桃紫色の瞳が細くなる。瞳孔が縦に裂ける。人の目ではない。
「面白いねぇ。あたしのこと、蹴るの? ふつう、あたしの前では震えるんだよねぇ」
「残念だったな。俺はふつうじゃない」
「そうだねぇ。ふつうじゃないねぇ。あたしと同じ匂いする」
マナの触手が蠢いた。だが、今度は攻撃してこなかった。触手を体へ引き戻し、服の下に収めていく。
「あたし、今日はもう帰る。君のこと、気に入ったから。次会う時はもっと遊んであげる」
「逃げるか」
「逃げないよぉ。あたしは選んでるだけ。今日はまだ、あたしの勝ちじゃないって、あたしが選んだだけ」
マナは笑った。だがその笑みの端に、苛立ちが滲んでいた。俺の蹴りが効いたのではない。俺がマナの攻撃を防ぎきったことが、気に入らないのだ。
「じゃあねぇ。ツカサくん」
マナは背を向けた。歩き出す。だがその歩き方が不自然だった。足音がしない。体重が地面に伝わっていない。幽霊のように、床の上を滑っている。
俺は追わなかった。
ゼータが壁から離れた。膝の震えは収まっている。だが顔色が悪い。
「ツカサ。あの女——」
「ああ。分かってる」
敵だ。確実に。
そして、ただの敵ではない。