夜の海鳴温泉街は、昼間の賑わいを湯気の薄膜で包み込んだような顔をしていた。石畳はまだ温度を残していて、下駄の歯が触れるたびに乾いた音が跳ねる。提灯の光は赤く、甘い匂いは土産物屋から漂い、遠くの旅館からは卓球の乾いた打球音がかすかに混じってくる。なのははその全部を「楽しい」に分類しようとして、うまくいかない自分に気づいて、少しだけ唇を噛んだ。戦いが終わっても、心はすぐに日常へ戻れない。戻ろうとするほど、戻れない。
「なのは、ぼーっとしてると転ぶわよ」
アリサの声はきついのに、歩幅はなのはに合わせてゆっくりだった。さりげない優しさが、逆に胸の奥をくすぐる。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと考えごと」
すずかは二人の間に視線を泳がせ、柔らかく笑う。
「温泉の後って、眠くなるもんね。無理しないで」
なのはの腕の中で、フェレットのユーノが小さく鼻を鳴らした。夜の匂いを嗅いでいるのか、周囲の気配を探っているのか、どちらにしても「普通のフェレット」には見えない仕草だった。なのははそのことに気づきながら、でも今は訊けない。訊いてしまったら、今日という日が「戦いの続き」になってしまいそうで怖いからだ。
三人は旅館の外れ、温泉街の小さな通りへ出た。少しだけ人が減る。だから、余計に気配が目立つ。なのはは――誰かの視線を感じたような気がして、反射的に肩をすくめた。だが、振り返っても、そこにあるのは提灯と店先の暖簾だけ。気のせい、そう言い聞かせて足を進める。
曲がり角を一つ越えた、その先で。
まず、音がした。
「ぷつ」
とても小さな、けれど妙に耳に残る音。鼻緒が切れる音だった。
なのはたちが目にしたのは、浴衣姿の小柄な少年――いや、少年にしか見えない人が、石畳にしゃがみ込んでいる光景だった。白い浴衣の裾を片手で押さえ、もう片手で切れた鼻緒を拾い上げている。隣には大人の女性。こちらも浴衣姿で、足をわずかに浮かせて立ち尽くしている。表情は眠そうで、声は小さく落ちてくる。
「……理不尽……」
その一言で、なのはの脳が追いついた。追いついてしまった。女性のほうは、翠屋の常連――イータだ。なのはは何度か会っている。マイペースで、ぼんやりしていて、けれど目だけは時々鋭くなる人。そして、しゃがみ込んで鼻緒を直している小柄な“少年”のほうは――。
「……え?」
アリサが最初に固まった。次にすずかが息を飲む。そしてなのはは、固まるより先に、胸の奥がざわついた。
(ツカサ先生……?)
ありえない絵面だった。学校で見るツカサは、いつも偉そうで、口が悪くて、何かにつけて上から目線で、でも妙にブレない教師だ。なのはだけじゃなく、アリサとすずかの担任でもある。だから二人は、なのは以上に「先生」という記号でツカサを見ている。なのに今、その先生が――浴衣を着て、石畳にしゃがみ込み、大人の女性の下駄を直している。しかも、手つきがやけに慣れていて、動作が丁寧で、言葉だけがいつもの棘を残していた。
「何してんだ、ボケ。歩けねぇだろ」
言い方は最低なのに、声の温度が違う。突き放す声じゃない。面倒見の声だ。なのはは一瞬、頭の中のツカサ像が崩れる音を聞いた気がした。
イータは当然のように足を差し出している。いつものイータなら「別に……いい……」と放置してもおかしくないのに、今は「世話される」側に収まっている。それがまた、なのはの胸を妙にくすぐった。
「……助かる……」
すずかが、困ったように微笑む。驚きで固まっているのに、礼儀だけは先に動く子だ。
「こ、こんばんは……」
声が出てしまった。出てしまった瞬間、なのはも「しまった」と思う。なぜなら、ここで先生と遭遇すること自体が、変に気まずい。浴衣で、夜で、温泉街で。学校の外の先生は、見ちゃいけないものみたいに感じてしまう。
アリサはそれどころじゃない顔をしていた。笑いを堪える肩が震えている。あのアリサが、教師相手に――しかも普段は怖いツカサ相手に――笑いを堪えている。
「……ちょっと待って。先生? それ、先生なの?」
すずかがアリサの袖を引いて止めようとしたが、アリサの口は止まらない。
「学校じゃ“鬼”なのに、ここじゃ“お世話係”って、どんな二重人格よ」
なのははその言葉に、反射で背筋を伸ばしてしまった。アリサが先生に突っ込むのは危険だ。ツカサは絶対に面倒くさい。
その予想通り、ツカサが顔を上げた。提灯の赤い光が、バーコード模様の瞳に滑って映る。視線がなのは、アリサ、すずか、そしてフェレットへと順番に移る。最後に、ほんの少しだけ目が細くなった。フェレットを「ただのフェレット」だと思っていない目だ。なのははその視線に、背中が少し冷えた。
「あ? ……お前ら、こんなとこで何してんだ」
声はいつもの先生だ。上から目線で、面倒くさそうで、でも――どこか安心する。先生が先生に戻った。なのははそれだけで肩の力が抜けそうになって、逆に自分の情けなさに気づいた。
「せ、先生こそ……その……」
言い訳が迷子になる。説明しようとすればするほど、何を言えばいいか分からない。「温泉街で浴衣の先生に会いました」って何だ。学校に持ち帰れない話題だ。
すずかが慌ててフォローする。
「わたしたち、ちょっと散歩に……。お風呂の後で、外の空気が気持ちよくて……」
ツカサは鼻で笑った。いつもの軽い嘲笑。だが、次に出た言葉は意外にまともだった。
「遅くなるな。夜は変なのが出る」
なのはの胸がきゅっとなる。先生は、何かを知っている? それともただの脅し? 分からない。でも――今日のなのはに、その言葉は刺さる。変なの。確かに、いる。なのははそれを知ってしまった。
アリサはまだツカサの足元を見ている。ツカサが結び目を締め終える瞬間を、まるで珍獣観察みたいな目で見ている。
「先生、手際よすぎじゃない?」
ツカサは立ち上がり、袖を払った。
「旅してりゃ、こういうのも覚える。……お前、見てないで歩け」
最後の言葉はアリサに向けたものなのに、なぜかアリサが一瞬黙った。ツカサの言葉には、妙に“教師”の圧がある。普段から慣れているはずなのに、浴衣姿でも圧が消えないのがズルい。
イータがなのはを見た。ほんの少しだけ温度が上がる。翠屋で会う時の、あの微妙な親しさだ。
「……こんばんは……翠屋……の……」
なのはは深く頷いた。
「こんばんは、イータさん……。えっと……その……」
(イータさん、いつもは“ぼーっとした大人”なのに、今日は……子どもみたいに……)
そのギャップが、なのはの中で小さな笑いになりかけて、すぐに消えた。笑っていいのか分からない。今日の自分は、笑う資格があるのか分からない。戦いの後は、そういう変な理屈が心に湧く。
ユーノが小さく身をよじった。ツカサの視線が一瞬だけフェレットに戻る。なのはは、その視線の鋭さで分かってしまう。先生は気づいている。完全には分からなくても、「普通じゃない」と知っている。
ツカサは話を切るように言った。
「散歩は終わり。戻れ。……転ぶなよ、なのは」
名前を呼ばれると、心臓が跳ねる。先生が名前を呼ぶのは日常だ。なのに今夜は、日常が少し違う形で触れてくる。
「は、はい……」
アリサが口を尖らせる。
「私とすずかにも言いなさいよ」
ツカサは面倒くさそうに目を細めた。
「お前らもだ。以上」
すずかが小さく笑った。アリサも笑ってしまう。なのはは笑えなかった。でも、その笑い声を聞いて、胸の奥の固さがほんの少しだけ緩む。
別れ際、イータがぽつりと呟いた。
「……鼻緒……予備……持つ……」
ツカサが即座に返す。
「最初から持て。学べ」
そのやり取りが、家族みたいで、なのははまた胸がざわついた。先生の“外側”を見てしまった。知ってはいけないものを知った気がするのに、不思議と嫌じゃない。
なのはたちが歩き出し、提灯の光が少し遠のく。背中に先生の気配を感じたまま、なのはは小さく息を吐いた。
(先生って……ああいう人だったんだ)
でも、その直後に、胸の底で別の気配が動く。戦いの余韻。フェイトの影。ジュエルシード。日常が戻る前に、また割り込んでくる非日常の感触。
なのはは足を止めかけ、すずかが気づいて振り返る。
「なのは?」
「ううん。なんでもない……」
なのはは笑った。頑張って。さっきより自然に。
背後で、ツカサがイータに低く言う声が、風に混じって聞こえた気がした。
「……無茶すんなよ。ここは、俺の生徒がいる」
イータが短く返す。
「……了解……保護……」
なのはは聞こえなかったふりをして、歩き続けた。聞こえたことにすると、日常がまた少し変わってしまう。今夜はまだ、それを受け止める準備ができていない。