悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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豹と合間

廊下の畳は、昼間に踏み荒らされたぶんだけ素直に疲れていた。温泉宿の夜ってのは、湯気と酒と油でできた平和の顔をしているくせに、耳を澄ますと妙に情報が落ちてる。笑い声、戸の開閉、氷の当たる音、そして――酔った人間の“余計な本音”。

 

俺は浴衣の袖を軽く引いて、音を殺した足運びで角を曲がった。隣にはゼータ。派手に目立つわけでもないのに、視線だけは無駄に鋭い。こいつは「見ている」じゃなく「分類している」顔をする。旅で何度も見た種類の眼だ。戦闘員ってより、観測者。

 

「……ツカサ。今の会話、拾った」

 

「拾うな。落ちてたならまだしも」

 

「落ちてた。口から」

 

俺は鼻で笑って、襖の隙間から漏れてくる声を聞いた。宴会場の端のほう、酔いが回って声が大きくなった男の声だ。

 

「いやぁ、最近さぁ、変なの多くない? 転校生っていうの? なんか、やたら痛いやつ」

 

「いるいる。中二病ってやつ? でもなぁ、あれ、ただの痛いやつじゃない気がするんだよな。目が……目が笑ってないっていうか」

 

「この町、変な事故も増えたしな。子どもが夜にうろついてたり、屋根の上に影がいたり。見間違いって言われたけど、見間違いで済む数じゃない」

 

ゼータが一歩止まった。俺も止まる。止まって、体を壁に寄せる。聞き耳を立ててるのがバレると面倒だ。こういうとき面倒になるのは、大抵“無関係の大人の正義感”だ。酔っ払いの正義感ほど厄介なものはない。

 

「……転校生、事故、屋根の影。情報としては三点。共通項は“夜”と“視線”」

 

「視線?」

 

「さっきの男。『目が笑ってない』って言った。つまり人間のふりをしてる。観察して楽しむやつか、狩るやつか。どっちか」

 

ゼータの声は小さいのに、内容がやたら刺さる。冷静で、だからこそ腹が立つくらい正しい。俺は旅の中で、こういう“ただの噂話”が、翌朝には死人に変わるのを何度も見てきた。

 

「……で、どうする。お前の頭の中ではもう結論出てんだろ」

 

「結論はまだ。仮説はある。まず、この宿が“舞台”になってる可能性。人が多い。動線が複雑。逃げやすい。噂が回りやすい」

 

「つまり、面倒が起きるならここだってことか」

 

「うん。あと、『転校生』って言葉がここで出るのが変。学校の話なのに、宿の宴会で出るってことは、町全体の共通語になってる。最近、よほど目立つのが増えた」

 

「……毎週のように出てくる連中が、町に浸透してるってわけか。嫌な浸透だな」

 

俺が言うと、ゼータは小さく頷いた。こいつは同情しない。ただ整理する。整理の仕方が優しいわけじゃない。けど、その冷たさが今は助かる。

 

廊下の先、別の部屋から笑い声が漏れた。女の声が二つ、男の声が一つ。話題は土産と温泉饅頭――に見せかけて、途中で一気に方向が変わる。

 

「そういえばさ、今日の夕方、橋のところで変な子見たよ。金髪で、やたら静かで、隣に大人の女がついてて」

 

「親子?」

 

「違うって。親子の距離じゃない。なんか……護衛みたいな。映画のさ」

 

俺は喉の奥で舌打ちしたくなるのを飲み込んだ。金髪、護衛。さっき自販機で会った連中が頭をよぎる。あれは偶然の遭遇だったが、偶然ってのは繰り返すと必然に化ける。

 

ゼータが俺の横顔をちらっと見た。言葉はない。けど、理解は一致してる。あの二人もまた、噂の輪の中にいる。

 

「……ツカサ。ここで動く?」

 

「ここで動くと宿が壊れる」

 

「壊れるのは相手でも宿でも、同じ……って言いたいけど、違うね。宿が壊れたら、関係ない人まで泣く」

 

「そういうことだ」

 

言葉にしただけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。俺の“嫌い”を、ゼータがちゃんと同じ場所で受け取った。それは旅の中で、意外と珍しい。

 

「じゃあ、外。噂の中心に近い場所。橋、屋根、裏路地。人が少なくて、視線が通るところ。そういう所から潰す」

 

「お前、指示が早いな」

 

「遅いと、あの手の観客が笑う。……全く、面白がっている場合? あの子達を護る為にも見ないと」

 

言い方がいつもより尖っていた。ゼータにしては感情が混じってる。たぶん、さっき聞こえた“屋根の影”って単語が気に入らなかったんだろう。観客ってのは、守る側の神経を逆撫でするのが上手い。

 

俺は階段の窓から外を見た。温泉街の灯りが川面に揺れている。平和だ。平和に見える。だからこそ、ここで誰かが“面白半分”に刃を入れるのが許せない。世界は壊れ方を覚えると、妙に手際が良くなる。最初のひびが入ったら、あとは勝手に広がる。止めるなら、ひびのうちだ。

 

「ゼータ。今夜の方針」

 

「うん」

 

「俺たちは“事件”を探しに行くんじゃない。“事件になる前”を潰す」

 

「予防だね。じゃあ、私は音と気配を拾う。ツカサは、嫌な匂いを拾う」

 

「匂いはデルタの仕事だろ」

 

「デルタは今、温泉饅頭を食べて、寝てる」

 

「起こすな。あれはあれで平和の象徴だ」

 

ゼータが、口元だけで笑った。ほんの少し。笑い方がまだ下手で、だから余計に人間くさい。

 

俺は窓を閉め、廊下の灯りの下へ戻った。宿の中の笑い声が遠くで続いている。守るべきは、ああいう音だ。守るために、汚いことをするのが俺の役目だ。

 

襖の向こうで誰かが言った。「最近、この町、ほんと変だよな」と。別の誰かが笑って「気のせい気のせい」と返した。その軽さが、逆に重い。気のせいで済んだ世界なんて、俺はほとんど見たことがない。

 

俺はゼータに目配せだけして、廊下の奥、玄関へ向かった。今夜は寒い。寒い夜ほど、変な奴はよく動く。

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