悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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ゆったりと温泉に

夜の温泉宿は、昼間の賑やかさを湯気に溶かして、妙に静かだった。廊下を歩く足音まで畳に吸われて、残るのは遠くの虫の声と、湯が満ちる低い音だけ。ツカサは浴衣の襟を指で整え、肩の凝りを誤魔化すみたいに首を鳴らした。教師の顔、旅人の顔、戦う顔――どれも結局は同じ「面倒」の別名で、今日だけは湯に沈めてしまいたかった。

 

「ボス! 混浴! 混浴っす! やばいっす!」

デルタが先に騒いだ。声がでかい。雰囲気というものを粉砕する才能がある。ツカサは返事の代わりに視線だけを鋭くして、デルタの口を閉じさせる。デルタは一秒で理解して、両手で自分の口を塞いだ。

 

「……落ち着け。夜だぞ」

ゼータが淡々と言う。声の温度は低いのに、目だけは宿の気配や動線を見ている。休む気があるのか疑わしい。

 

「……温泉……好き……。理不尽……溶ける……」

イータはイータで、嬉しさの表現が小さい。小さいのに確実。彼女は湯に入る前から満足しているような顔をして、手にしたタオルをきっちり畳み直した。畳む必要があるのかは不明だ。

 

貸切札が掛かった露天の戸を開けると、白い湯気がふわりと押し返してきた。木の香り、石の冷たさ、湯の熱。夜風が頬を撫でて、肌の上に温度差を作る。湯面は月の光を薄く映して、まるで別の世界の入口みたいに見えた――いや、入口は見慣れている。今日は、出口でいい。

 

「……タオル、絶対だぞ」

ツカサが先に言う。言い方が教師というより、現場監督だ。

 

「ボス! もちろんっす! デルタ、ちゃんと巻くっす!」

デルタは胸を張って宣言し、タオルを巻こうとして、いきなり反対方向に巻き始めた。ツカサの目が細くなる。

 

「逆だ」

「え、どっちが前っすか!?」

「お前の前はお前で決めろ。……普通に巻け」

 

ゼータは無言で手際よくタオルを固定している。余計な動きがない。逆に怖い。イータは湯気の向こうで髪をまとめ、タオルの端を丁寧に押さえた。その仕草が妙に落ち着いていて、湯気越しに一瞬だけ“大人”の輪郭が強くなる。普段は頼りないのに、こういうときだけ生活力が出るのは反則だ、とツカサは思う。もちろん口には出さない。

 

四人が湯に足を入れた瞬間、同じタイミングで息が漏れた。熱い。だが、痛い熱さじゃない。芯までほどける熱さだ。ツカサは肩まで沈めて、短く吐いた。

 

「……生き返る」

「ボス、溶けるっす?」

「溶けねぇよ」

「……溶けたら……回収……」

「回収すんな」

 

ゼータが湯面を指で軽く弾き、「温度、いい」とだけ言った。感想が短い。だが、湯に沈む肩の力がわずかに抜けているのが見える。こいつも疲れているのだ。ツカサはそういう小さな変化を拾ってしまう自分に、少しだけ腹が立つ。拾ったところで、楽にはならないのに。

 

デルタは湯の中でじっとしていられず、肩を揺らし、湯をぱちゃぱちゃさせる。「波が出るっす! 海っす!」と小声で言い、ツカサに目で止められて、また口を塞いだ。子供か。いや、子供だ。中身が。

 

イータは湯気を眺めて、目を細める。「……睡眠……効率……上がる……」と呟いた。ゼータが「寝ろ」と即答する。ツカサは笑いそうになるのをこらえて、湯の中で拳を握った。ここで笑うと、気が緩んで、明日が重くなる気がする。

 

「ツカサ」

ゼータが不意に呼ぶ。ボスではなく、いつも通りに名前で。

「なんだ」

「……お前、今日も顔が固い」

「固くねぇ。湯が熱いだけだ」

「嘘だな」

 

嘘だ。自覚はある。三年間、毎週のように“訳の分からない転校生”を相手にして、夜には別の“訳の分からない敵”を止める。休んでいるようで、ずっと止まっていない。止まったら、誰かが落ちる気がして。

 

イータが湯面にそっと手を伸ばした。指先が湯の流れをなぞり、何かを確かめるように動く。その目が研究者のそれになる。嫌な予感が、湯気より先に立ち上る。

 

「……湯質……確認……。成分……」

「やめろ」

ツカサの声は短く、重かった。デルタがびくっとして湯をこぼし、ゼータが静かに「やめろ」と同意する。

 

イータはしばらく黙り、次に少しだけ頬を赤くした。湯のせいか、怒られたせいかは分からない。ただ、彼女はタオルの端を押さえ直し、視線を落とす。湯気の向こうでその横顔が柔らかく見えた。色気というより、生活の匂いに近い。危うさのない“普通”が、逆に珍しい。

 

「……じゃあ……鼻で……」

「分析すんな」

「……観察……だけ……」

「観察も休め」

 

デルタがここぞとばかりに言う。

「ボス! イータ、落ち着かないっす! 風呂はゴロゴロする場所っす!」

「お前が言うな」

「えっ」

 

ゼータが湯に沈んだまま、淡々とデルタの肩を押して座らせる。デルタはおとなしくなる。やればできるのに、やらない。ツカサはため息をついて、湯の中で天を仰いだ。夜空が見える。星がある。戦いのない空は、こんなに静かだったか。

 

「……ツカサ」

今度はイータが呼んだ。声は小さいのに、湯面の波紋みたいに届く。

「……守る側……壊れる……」

ツカサは返事をすぐに出せなかった。言葉にすると、守っているつもりの何かが脆くなる気がしたからだ。代わりに、湯気を吸って吐く。肺の奥が温かい。久しぶりに、自分の体が“生き物”だと分かる。

 

「壊れねぇよ」

ようやく言う。言い切ると、自分が少しだけ嘘を上塗りした気がした。

「……壊れる前に休む。今日は、それでいい」

 

デルタがぱっと顔を上げ、「ボス、えらいっす!」と叫びそうになって、ツカサの目に射抜かれて黙る。ゼータは小さく頷き、イータは「……うん……」とだけ返した。その「うん」が、妙に安心して聞こえるのが、ツカサには効いた。

 

湯上がりに休憩処へ行くと、瓶の牛乳が並んでいた。デルタが一番に掴み、勢いよく飲んで「うまいっす!」と目を輝かせる。ツカサに差し出してきたが、半分しか残っていない。

 

「……半分?」

「ボス最強だから半分で十分っす!」

「最強に牛乳理論は関係ない」

ゼータが即座に切る。イータが小声で「……糖分……必要……」と言って瓶に手を伸ばし、ツカサが軽く手首を押さえて止める。

「順番」

「……理不尽……」

「理不尽を溶かしに来たんだろ」

「……溶けない……」

 

そのやり取りが、どうしようもなくくだらなくて、どうしようもなくありがたかった。旅の合間に、こういう夜があるだけで、人間はまだ戦える。ツカサはそういうことを、認めたくないのに認めてしまう。

 

部屋へ戻る廊下で、ふと夜風が冷たくなる。露天の方角――ではなく、温泉街の外れの暗がりに、ほんの一瞬だけ“影”が揺れた気がした。デルタの鼻がひくりと動く。ゼータの視線が鋭くなる。イータの表情が、研究者ではなく“保護者”に近いものへ変わる。

 

ツカサは立ち止まらず、視線だけで二人を制した。今夜は休む日だ。ここで騒げば、客が巻き込まれる。影が本物かどうかは後でいい。今は、日常を守る。

 

「……明日も面倒が起きる」

部屋の灯りを落とす直前、ツカサは小さく呟く。

「だから今日は寝る」

 

デルタが「はいっす」と小声で返し、ゼータが「了解」と短く言い、イータが「……おやすみ……」と息のように落とした。布団に沈む音だけが残る。湯気の余韻と、くだらない会話の残り香が、静かに夜を塞いでいった。

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