悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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隠し事

温泉宿の出来事から数日後。

放課後の校舎は、昼間の賑やかさを嘘みたいに引っ込めて、妙に声が響く。廊下の端から端まで見通せる分、気配の逃げ場がない。職員室の横にある掲示板前も同じで、行き交う先生の靴音や紙の擦れる音が、静けさを薄く引き裂いていく。なのははそこに立っていた。立っている、というより、貼られたプリントと同じように“そこに置かれている”みたいだった。

 

少し前まで、教室はもっと熱かった。アリサの声が、まっすぐで、強くて、正しいからこそ痛かった。すずかの声が、優しくて、つなぎ止めるのが上手だからこそ余計に苦しかった。なのはは何度も口を開いて、何度も閉じた。言いたいことは喉のところまで来ているのに、最後の一歩が踏み出せない。踏み出したら、何かが壊れる気がした。

 

「……ごめんね」

 

それしか言えなかった。謝って、頭を下げて、許してもらえそうな形だけ作って――それで終わると思っていた。けれどアリサは止まらなかった。怒ったまま去っていった。怒っているのに、どこか傷ついた背中だった。すずかはすぐにアリサを追いかけ、途中で何度も振り返って、なのはを置いていくことを迷っている顔をした。なのははその迷いにすら、うまく応えられなかった。

 

掲示板の紙面を眺めているふりをしながら、なのはは胸の奥の“後ろめたさ”を押さえ込もうとした。ツカサ先生に話したい。話せば少し楽になるのは知っている。あの公園で、寂しさを「寂しいと言え」と言ってくれた人だ。言葉が、嘘みたいに胸の奥へ入ってきたのを覚えている。だから今回も――と思うのに、今回は違う。あの夜から、なのはの中には“言ってはいけないもの”が増えた。宝石みたいな石。叶えてくれるはずのもの。叶えるふりをして暴れるもの。名前も正体も、先生に言えるはずがない。言った瞬間、先生を巻き込む気がした。いや、もう巻き込んでいるのかもしれない。だから、なおさら言えない。

 

その時、足音が近づいた。職員室の扉が開く音。誰かが書類を抱えて通り過ぎ、なのはを見ても気に留めない。もう一度、足音。今度は、立ち止まった。

 

「……見てた」

 

低い声。淡々としているのに、逃げ道を塞ぐみたいに核心だけを突いてくる。なのはは肩が跳ねた。振り向くと、浴衣でも変身でもない、いつもの“先生”がいた。見た目は同い年くらいの子ども。けれど、視線が子どものそれじゃない。立ち姿も、間合いの取り方も、妙に大人だ。なのははそれを知っている。だって先生は、年上のイータさんを当たり前みたいに世話している。あれは“大人が大人を世話してる”というより、“何かを背負ってる人が、背負ってる人を支えてる”みたいに見えた。

 

「……ち、違うの。あの……」

言い訳が浮かぶ前に、ツカサは掲示板の端に視線を置いたまま言った。

 

「言い訳しなくていい。……喧嘩したのか」

「喧嘩っていうか……私が……」

「アリサが怒って、すずかが困って、お前が一人で固まった。……だいたい合ってるだろ」

 

なのはは唇を噛んだ。合っている。合っているのに、そこから先が言えない。なのはが黙ると、ツカサは急かさない。職員室の前を誰かが通るたびに、少しだけ身体の向きを変えて、通行の邪魔にならない位置へ移動する。その動きが、妙に自然で、癖になっているみたいで、なのはは余計に「先生ってなんなんだろう」と思ってしまう。

 

「……先生。私、ちゃんと謝ったのに……」

「謝ったからだろ」

「え……?」

ツカサは、面倒くさそうに眉を寄せた。怒っているのではなく、言葉を選んでいる顔だ。

 

「謝るってのは、悪いことじゃない。むしろ必要だ。けど、謝るだけってのは……相手の手を払うのに近い」

「手を……?」

「『これ以上踏み込まないで』って言ってるのと同じだ。アリサはたぶん、謝罪よりも“お前の本音”が欲しかった」

 

なのはの胸がきゅっと縮む。そうだ。アリサはいつだって、嘘を嫌う。嘘じゃなくても、逃げる言葉を嫌う。なのははそれを分かっているのに、分かっているからこそ、余計に逃げてしまった。

 

「……でも、言えないことがあって……」

言ってしまった瞬間、なのはは慌てて口を塞ぎたくなった。今のは“言える”側の言葉だ。言えないことを言ってしまった。自分で自分を追い詰めている。

 

ツカサは、なのはの顔をじっと見た。責めない。探るようでもない。ただ、確認するだけの目。教師の目というより、何度も似た顔を見てきた人の目。

 

「言えないなら、言わなくていい」

なのはは思わず目を見開いた。

 

「え……でも……先生は……先生なのに……」

「先生だから言ってる。……無理に吐かせて、壊れたら意味がない」

「でも、私……隠してるのに……後ろめたくて……」

「後ろめたいって思えるなら、まだ大丈夫だ。開き直ってる奴の方が危ない」

 

その言い方が、妙に現実的で、なのはは笑うべきか泣くべきか分からなくなる。ツカサは肩をすくめた。

 

「昔、俺も“言えないこと”を預かったことがある」

なのはは息を呑んだ。ツカサが自分の話をするのは珍しい。先生の過去なんて、普段は一切見えない。

 

「知り合いがな。……ある日、俺にだけ秘密を預けた。『誰にも言うな』って」

「……大事な秘密?」

「大事だったんだろ。だから言うなって言ったんだ。俺も守るって決めた。……で、何が起きたと思う」

なのはは首を振る。ツカサは淡々と続けた。

 

「守るって決めた瞬間から、俺の世界が狭くなった。相談できない。愚痴れない。笑っても笑ってないみたいになる。……そのくせ、相手は俺が守ってることに安心して、どんどん一人で抱え込む」

「……」

「俺は“守ってるつもり”で、相手の孤独を強化してた。結果、そいつは限界まで追い詰められて――俺は、最後の最後で気づいた。言えない秘密を守るのと、全部を一人で背負うのは、別物だって」

 

なのはの胸に、じわっと熱が広がった。言えないものがある。けれど、それを理由に、全部を抱えてしまっている。アリサにも、すずかにも、先生にも。全部の手を払っている。

 

「じゃあ……どうしたんですか」

「話せる範囲だけ話した」

「秘密、なのに?」

「秘密は守った。けど、“苦しい”は言えた。『今は言えない。でも、ちゃんと向き合いたい』って言えた。……それだけで、相手は勝手に諦めなくなる」

 

なのはは、言葉を探すみたいに手を握った。握る力が強すぎて、指が少し痛い。

 

「私……先生に、話したいのに……話せない」

「それでいい」

ツカサは、あっさり言った。許可を出すみたいに。

 

「言えないなら、言わなくていい。けどな、言えないことがあるなら、その代わりに――言えることを一個だけ言え」

「言えること……」

「『避けたいわけじゃない』とか、『一人にしないでほしい』とか。……謝罪の前に、それを言え」

 

なのはは、はっとした。謝ってしまうと、会話が終わる。謝罪は便利だ。だから逃げる。けれど、終わらせない言葉がある。自分から続ける言葉がある。

 

「……先生って、同い年くらいなのに」

思わず漏れた。なのは自身が驚いて、口を押さえる。失礼だ。でも、止まらなかった。

「先生なのに、すごく……大人で……私よりずっと……」

 

ツカサは一瞬だけ目を細めた。笑いそうで、笑わない。

「俺はガキのまま大人やってるだけだ」

「……どういう」

「しっかりして見えるのは、しっかりしないと面倒が増えるからだ。……それだけ」

 

それだけ、のはずなのに。なのはは、先生が背負っているものを想像してしまう。言えない秘密を預かって、守って、狭くなった世界。先生も、そういう場所を歩いてきた。だから「言えなくていい」と言える。

 

職員室の扉が開いて、別の先生が出てきた。ツカサは軽く会釈して、なのはとの距離を一歩だけずらす。教師としての線引きを崩さない。その上で、声を落とした。

 

「今日、追いかけるなとは言わない」

なのはが顔を上げる。

「でも、長い説明はいらない。短くていい。……アリサに一言だけ言ってこい」

「一言……」

「『ごめん』じゃなくてだ」

なのはの喉が鳴った。言える気がする。怖いけど、言える気がする。

 

「……『言えないことがある。でも、避けたいわけじゃない』」

ツカサは小さく頷いた。

「それで十分だ。すずかは賢い。勝手に橋をかけてくれる」

「……すずかちゃん」

「心配させた分、あとでちゃんと礼を言え。……あと、アリサには礼じゃなくて、目を見ろ。あいつは目で分かる」

 

なのはは、胸の奥の重たい石が、ほんの少しだけ動いた気がした。まだ言えないものはある。けれど、言えるものがゼロじゃない。ゼロじゃないなら、関係は切れない。切らないために、言葉を出す。

 

なのはが一歩踏み出したとき、ツカサが背中に向けて言った。

 

「隠し事があるのは、悪じゃない」

なのはが振り返る。

「悪いのは、隠し事を理由に一人になることだ。……それだけ覚えとけ」

 

なのはは強く頷き、廊下を走り出した。足音が、放課後の静かな校舎に少しだけ明るく響いた。ツカサはその音を聞きながら、掲示板の紙を一枚だけ直して、何もなかったふりで職員室へ戻った。

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