夜の風は温いのに、空気だけが冷えていく。
なのはとフェイトの距離が、ほんの一歩ぶん縮まっただけで、周囲の音が薄くなる。魔力の気配が尖り、互いの息遣いが耳につく。ここ数日の“偶然じゃない偶然”が積み重なった結果として、二人は今、同じ場所で同じ宝石を巡って睨み合っていた。
そこへ、割って入ったのは第三の声だった。
「――そこで止まれ。二人とも、武装解除だ」
声は幼さを残しつつ、命令の形をしていた。制服めいた装いの少年が、夜の街灯の下に立っている。冷静な目。手の中のデバイス。なのはとフェイトの間に、寸分違わず線を引くように身体を滑り込ませた。
「管理局執務官、クロノ・ハラオウンだ。地上での無許可戦闘、及び危険物の所持を確認した。――君たちには事情聴取が必要だ」
なのはが言い返そうとした瞬間、フェイトが一歩踏み出す。その動きは鋭く、迷いがない。クロノは反射的に構えた。勝手に戦う気はない。だが止める責任はある。管理するというのは、そういうことだ。正義の顔をしている以上、逃げられない。
「話は後だ。君は……危険物を集めている。今すぐ引き渡せ」
フェイトの目が揺れた。怒りと焦りと、何か別のものが混ざっている。なのははそれを見て、胸の奥が痛む。知らないはずなのに、わかってしまう。あの子は“悪い子”ではない。ただ、追い詰められている。
「……引き渡せない」
短い拒絶。クロノが一歩前へ出る。距離を詰める。説得か、拘束か。選択の間で、空気が一段張りつめた。
そのときだった。
糸が鳴った。
音ではない。むしろ音が消える。視界の端で、銀色に近い細い線が、夜の闇に幾筋も走った。蜘蛛の巣が一瞬で張り巡らされるみたいに、空間そのものが“編まれた”。
「――あ」
なのはが息を漏らすより先に、足首が引かれた。腕が吊られた。制服の袖が皮膚に食い込み、肩が悲鳴を上げる。フェイトも同時に動きを奪われ、クロノもまた、胸元から腰へ、斜めに走る糸に体勢を崩された。三人はそれぞれ別の角度で引かれ、互いに助ける距離すら許されない配置に固定される。
「何だ、これは……!」
クロノが魔力で糸を断とうとする。だが糸は切れない。切れないどころか、刃や衝撃を“吸って”いる。魔力の流れに絡みつき、抵抗するほど締め付けが増す感触があった。これは物理だけの拘束じゃない。術式でも、単純な魔法でもない。もっと嫌な――人の意思を弄ぶための仕掛けだ。
闇の奥から、軽い拍手が聞こえた。
「わぁ、きれいに並んだ。三人とも、いい顔するね」
街灯の縁から現れたのは、紅い瞳の少女だった。ゴスロリめいた装いに、過剰なほど甘い色の髪。夜の中で浮くのに、妙に馴染む。笑顔は愛想がいい。けれど目は笑っていない。目だけが、獲物の“壊れ方”を測っている。
「……何者だ。ここは管理局の管轄――」
「管轄。いいね、その言葉。安心する? 大きいものの名前を出すと、ちょっとだけ心が落ち着くもんね」
少女は楽しそうに首を傾げ、指先を軽く振った。すると糸が一斉に震え、三人の身体が微かに持ち上がる。なのはの喉が詰まり、フェイトの歯が鳴り、クロノの足が宙を蹴った。
「やめろ……!」
「やめてって言われると、続けたくなる性格でさ。ごめんね。――でも、これ、ちゃんとした理由があるの」
少女は笑ったまま、ゆっくり近づく。距離が詰まるたび、糸の“存在”が濃くなる。空中に張り巡らされた線が、ただの線じゃないとわかる。触れたら切れる。触れなくても、切られる。周囲の空間ごと“切断の予感”で満ちる。
「君たち、今、いいところだったでしょ? 出会って、ぶつかって、正義ぶって、守りたくて、守れなくて。そういうの、好きなんだ。足掻くほど良くなる」
クロノが言葉を噛む。挑発だ。誘導だ。相手は会話で主導権を握り、抵抗の形を整えてから潰すタイプだ。だが、挑発に乗らなくても、拘束は解けない。
「目的は何だ。金銭か、宝石か。――要求を言え」
「要求? うん、じゃあ言うね」
少女はクロノの顎先に指を伸ばし、触れないぎりぎりで止めた。まるでキスの寸前みたいな距離で、囁く。
「動かないで。抵抗しないで。いい子にして。――それだけで、今日の“痛い目”は少なくなる」
なのはの背中に冷たい汗が走る。脅しの形が、単なる暴力じゃない。従わせるための言葉だ。相手の尊厳を折るための言い方だ。
「……そんなこと、するわけない!」
なのはが声を張ると、糸がきゅっと締まった。胸が圧迫され、息が詰まる。声が出にくい。苦しさの質が変わる。痛みというより、“自由を奪われる”感覚が身体に染みる。
少女は満足そうに頷く。
「そうそう、それ。反抗。いいね。――でもさ、反抗すると、面倒なことが起きるよ?」
少女は視線をフェイトへ移し、わざと優しい声を作る。
「君、孤独そうだね。頑張ってる顔してるけど、折れたら一気に崩れるタイプ。そういう子をさ、みんなの前で泣かせるのって、すごく……うん、最高」
フェイトの瞳が揺れる。怒りが、恐怖に混ざる。なのははそれを見て、胸の奥が焼ける。守りたいのに、手が動かない。言葉が届かない。
「――貴様」
クロノの声が低く落ちた。怒りの形だ。だが少年は、怒りを武器にする訓練を受けている。そこに理性を挟む。勝てない喧嘩はしない。勝てる形に整える。
「三人を解放しろ。今なら拘束のみで済ませる。……抵抗すれば、執務官権限で――」
「権限。うん、かっこいい。大人みたい」
少女はくすくす笑い、指を鳴らす。糸がさらに増えた。クロノの両腕が左右に引かれ、胸元のベルトがきしむ。少年の呼吸が一瞬止まる。筋力ではどうにもならない。魔力でどうにかしようとすれば、糸がその魔力を絡め取る。
「ねえ。ここ、舞台にしようよ。管理局の天才少年、正義の少女、孤独な少女。三人が“壊れる”ところ、すっごく見たい」
なのはの心臓が跳ねる。こいつは、助けを求めていない。説得も交渉も、根っこでは成立しない。楽しむためにやっている。世界のルールの外側で、人の苦しみを娯楽にしている。
「……やめて……!」
フェイトが絞り出すように言った。怒りではない。哀願に近い声。少女はそれを聞いて、嬉しそうに目を細めた。
「いいね。そうやって頼まれるの、大好き。――でも、お願いの仕方が違う。もっとちゃんと、“欲しい”って言って」
糸がぎり、と鳴った。三人の体勢が僅かに変わる。石畳から足が浮き、夜風が肌を撫でる。恐怖の種類が一段上がる。落ちるとか、殴られるとか、そういう単純な危険じゃない。相手の気分ひとつで何でもできる、という支配の恐怖だ。
クロノは歯を食いしばり、視線だけで状況を読む。糸の結び目。張力の中心。指先の動き。どこかに“要”があるはずだ。必ずある。そうでなければ、この拘束は成立しない。だが、要が見えない。見えないということは、見せていないということだ。つまり、相手は余裕がある。
「……お前は何者だ」
クロノが再び問う。名前が欲しいわけじゃない。情報が欲しい。相手の癖が欲しい。突破口が欲しい。
少女は指先を唇に当て、わざとらしく考える仕草をした。
「うーん。名前? 今はまだ、いいかな。呼び方なんて、どうでもいい。大事なのはさ……君たちがここで、どんな顔をするか」
その瞬間、空気がまた一段冷えた。糸が震えたのではない。夜の“境界”が薄くなった。誰かが扉をこじ開ける前触れみたいに、色のない光が視界の端で揺れる。
少女は気づいていない。あるいは、気づいていても楽しんでいる。
なのはは、息を詰めたまま祈るように思った。お願いだから、誰か――。
『ATTACKRIDE BLAST』
「「「っ!!」」」
鳴り響く音声と共に、3人を拘束していたワイヤーは、全く見えない場所から放たれた光弾によって、消し飛ばされた。
ワイヤーの網が夜気を裂き、なのはもフェイトもクロノも、動くほどに締め付けが深くなる。糸はただの拘束じゃない。魔力の流れを撫でて、絡めて、抵抗の意思そのものを鈍らせる。嫌な手口だ、とクロノは舌打ちした。
「艦に報告! 第三者反応は——!」
通信に、オペレーターの声が被さる。妙に早い。報告の順序が崩れている。向こうも掴みきれていない。
「クロノ執務官、越界反応を捕捉! 座標固定——不可能! 魔力量測定——不可能! 分類照合——該当なし! 完全に“未登録”です!」
「未登録だと? この状況で——」
言い終える前に、空気が裂けた。
薄い膜がめくれるみたいに、色だけが先に現れて、遅れて“そこに通路があった”という事実が追いつく。オーロラの裂け目から現れたのは、顔の見えない仮面の戦士だった。黒とマゼンタ。胸に走る不気味な縞。人の姿をしているのに、世界に“登録されていない”という違和感だけが先に刺さる。
「追加報告! 直接測定は不能ですが、周囲への干渉量から逆算した推定値が——」
オペレーターが息を呑む音が聞こえた。
「スケール上限を超過! 表示が……オーバーフローしています!」
クロノの背筋が冷えた。測れないのに、怖さだけが数値になる。正体が掴めないのに、危険度だけが勝手に積み上がる。管理局が一番嫌う種類の相手だ。
それでも、目の前には人質がいる。規定も権限も後回しだ。クロノが踏み出そうとした瞬間、仮面の戦士が動いた。
動きは無駄がない。視線が最短で“要”を拾い、次の瞬間には携えた武器——銃身が跳ね上がる。引き金。光弾が一発、二発。糸の束の“核”だけを正確に穿つ。派手な爆発はない。だが、絡みついていた圧がふっと抜け、なのはの肩が落ち、フェイトの腕が自由になり、クロノの足が地面を掴む。
「……何をした?」
クロノは体勢を立て直しながら問う。問いは職務上のものだ。味方か、敵か、介入者か。判断しなければならない。
仮面の戦士は答えない。敵の方を向いたまま、もう一度銃口を動かす。糸が震える。どこかで笑い声が混じる。観客席から拍手でもするみたいな薄気味悪さ。
「おい、君!」
クロノが声を張る。なのはが息を呑み、フェイトが警戒の視線を向ける。助けが、次の瞬間に脅威へ反転する可能性を、三人とも理解している。
「君は何者だ。どこの所属だ。目的は——!」
仮面の戦士が、ほんのわずかに首を傾けた。レンズ越しに表情は読めない。
「ディケイドっまさか、お前がここにいるとは」
「ディケイド?」
そう、謎の存在に少女は驚愕したように叫ぶ。
それに疑問の声を出したのはなのはだった。