放課後の翠屋は、少しだけ静かになる時間がある。
学校帰りのお客さんが引いて、夕方の常連さんが来るまでの、短い間。
私はカウンターの中で、カップを拭いていた。
慣れた作業のはずなのに、今日は少しだけ手が重い。
「なのはー、無理しないでねー」
「うん、大丈夫だよ」
そう答えながら、私は笑った。
いつも通りの返事。いつも通りの笑顔。
カラン、とドアベルが鳴る。
「あ……いらっしゃいませ」
入ってきたのは、見慣れた人だった。
よく一人で来るお客さん。静かで、長居して、あまり話さない人。
ツカサ先生の……親戚、らしい人。
「……こんにちは……」
ゆっくりした声。
それだけで、この人だって分かる。
「いつもの、でいい……?」
「はい、すぐ持ってきます」
注文も少ない。
でも、不思議と気まずくならない。
コーヒーを淹れて、席に持っていくと、その人――イータさんは、ぼんやりと窓の外を見ていた。
「……今日は、忙しそう……」
ぽつり、と独り言みたいに言われて、私は少しだけ驚く。
「え? あ……うん。ちょっとだけ」
本当は、ちょっとじゃない。
でも、そう言う癖が、もう身についてしまっていた。
「……ふぅん……」
イータさんはそれ以上、何も言わなかった。
否定もしないし、励ましもしない。
その沈黙が、なぜか楽だった。
「……なのは……」
「はい?」
「……それ、疲れてる時の動き……」
心臓が、少しだけ跳ねた。
「そ、そうかな……?」
「……たぶん……」
断定しない。
でも、外れてもいない言い方。
「……別に……悪いことじゃ、ないけど……」
そう言って、イータさんはコーヒーに口をつける。
「……無理、してる人は……だいたい、自分で気づかない……」
それは、誰に向けた言葉なんだろう。
私? それとも、ただの独り言?
分からないまま、私は小さく頷いた。
「……でも……ここで、少し休めてるなら……問題、ない……」
その一言で、胸の奥が、少しだけ緩んだ気がした。
特別なことは、何も起きない。
説教も、答えも、魔法みたいな言葉もない。
ただ、
“見られていた”
それだけ。
私はまたカウンターに戻りながら、思った。
(……不思議な人だな)
でも、
嫌じゃない。
それだけで、その日の翠屋は、少しだけ温かく感じられた。
カウンターに戻って作業を続けていると、ふと視線を感じた。
店の外――ガラス越しに、誰かがこちらを見ている気がした。
気のせい、だと思った。
翠屋の前を通る人は多いし、珍しくもない。
でも。
「……」
イータさんが、急に黙った。
さっきまで、ぼんやり窓の外を眺めていたのに、今は視線が一点に固定されている。
コーヒーカップを持つ手が、わずかに止まった。
「……」
何も言わない。
ただ、目だけが静かに動いて、外を“確認する”みたいに。
私は思わず、同じ方向を見た。
でも、そこには――普通の街並みしかない。
「……どうか、しました……?」
そう声をかけると、イータさんは一拍置いてから、ゆっくり瞬きをした。
「……いいえ……」
いつも通りの、力の抜けた声。
でも、さっきと何かが違う。
「……気のせい……」
そう言って、視線を戻す。
それ以上、何も言わなかった。
私は、それ以上聞かなかった。
聞いても、たぶん答えは返ってこない気がしたから。
ただ、その後しばらく――
イータさんは、私の方を見ないようにして、でも店の外には、何度か目を向けていた。
まるで、
“見られている側”ではなく、
“見ている何か”を、見返すみたいに。
その理由を、私は知らない。
そして――
その理由が、私自身に向いていることも。
この時の私は、まだ、何も知らなかった。